月別アーカイブ: 2000年8月

仕事でSIに関わっているのにアーサーアンダーセン

■仕事でSIに関わっているのにアーサーアンダーセン(AA)とアンダーセンコンサルティング(AC)の区別もつかないのは困るのだが、ACのWebサイトによればつい先日、ACはICC(International Chamber of Commerce)の2年半にわたる調停の末、ようやくAAから完全に独立したらしい。ACは1989年のリストラによってAAから独立し、両者は異なる事業領域で補完的役割を果たし、その協力関係を維持するためにACは毎年一定額をAAに支払うという合意を取り結んだ。ところがその後AAは合意を破ってACの事業領域であるコンサルやITに手を広げたため、1997年ACはICCに調停を申し出た。結果、AAがACに要求していた1450億ドルの支払いは却下、AAはACが独自開発した技術の開示も求めていたが、こちらも却下。その代わり「アンダーセン」という名前はもともとはAAのものなので、2000/12/31以降ACは「アンダーセン・コンサルティング」という名称を使えなくなる。
■村上春樹『国境の南、太陽の西』(講談社文庫)、福田和也『甘美な人生』(ちくま学芸文庫)を読み終えた。『甘美な人生』については新鮮な視点、という以外に格段感想はない。日本の歴史について不勉強ですみません、といった感じ。ただこの中の批評「ソフトボールのような死の固まりをメスで切り開くこと」をきっかけに、数年ぶりに村上春樹の小説を手にした。『国境の南、太陽の西』は始業前のオフィスや会社の昼休みに読む種類の小説ではないと思いながらも、いつもながら文体からテーマ、細かな比喩、簡素で上品(?)なセックス描写まで、あまりに自分にしっくり来すぎるので引き込まれるように読んだ。「島本さん」と「僕」の関係については心臓をわしづかみされた思いで、文字どおりめまいがした。村上春樹の小説を感情移入しながら読むというのはとっても恥ずかしいことなのだが、学生時代に読んだ『ノルウェーの森』や『羊をめぐる冒険』にしても、とくにその文体があまりにたやすくしみこんでくるのでついハマってしまう。人はそれぞれの理由で村上春樹にハマるのだろうが、僕の場合は端的に高野悦子『二十歳の原点』で失われた命がもし生き延びていたら、という仮説を満たしてくれるという理由だ。彼は彼女と同じ世代だし。それだけ大事に読みたい作家なので、数年に一度しか読まないほうが良いかもしれない。つまり村上春樹はしばらく読まない方がいいのだろう。たぶん、しばらくのあいだは。

夏の終わりになると無性に純文学が読みたくなる

■夏の終わりになると無性に純文学が読みたくなる。涼しくなった夕方の風が確実に過ぎ去っていく季節を感じさせる、その喪失感が純文学を読み終えたときのそれとよく似ているからだろう。一冊の小説を読み終えたとき、あるいは一本の映画を見終えたとき、心に残る大きな空間のようなもの。この幸福な時間がいつまでも続けばよいのにという思い。それが夏の終わりによく似ているからだろう。また来週になれば会えるとわかっているのに、改札口で別れてひとりで歩き出すとき、胸の奥をしめつけるせつなさ。決定的ではないが、平気な顔をすることもできないその喪失感に、適切な言葉をあてはめることはとてもむずかしい。
前に進むということは、そのぶんだけ何かを失うということでもある。何かを失わなければ、僕らは前に進むことができない。喪失感は端的に不幸なことなのではなく、むしろ来るべきものを告げ知らせているのだ。最近になってようやくそのことがわかってきた。

アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』

■アルモドバル『オール・アバウト・マイ・マザー』を観てきた。映画そのものは『イヴの総て』を下敷きにして『欲望という名の列車』の劇中劇という、多少あざといと言えるほど凝った構造になっている(アカデミー賞で評価が高かったのはそのせいもあるだろう)。おまけに3人のエステバンが登場し、生と死、知と無知の2軸に沿ってこの3人を構造分析すればちょっと面白いエッセーでも書けそうだ。
だがそんなエッセーを書く気になれないのは、『イヴの総て』をすっかり忘れてしまったことや、もう一つこの映画の下敷きになっているカサヴェテスの映画『オープニング・ナイト』も忘れてしまったことだけではない。物語を単なる虚構として処理できない今の僕の状況のせいなのだ。
この映画はさまざまな「不在」をめぐっての物語としても読める。たとえば人が何年も独り暮らしをしているとしても、それほどの孤独は感じられないだろう。孤独とはむしろ、かつて存在したものがいなくなること、その不在によってもたらされる感情だ。どこかの小説家が「孤独を恐れるなら結婚するな」という言葉を残しているらしい。
今まで僕はこの言葉を「いかに理想の人と出会ったと思っても、お互いを完全に理解できる相手などどこにもいない。理想の人と出会ったと思いながらお互いを理解できないのは、孤独よりも不幸だ」という意味に解釈していた。しかし別の解釈もありうる。
つまりこうだ。「いちど結婚によって孤独を忘れてしまったら、何十年か後に愛する人を失ったとき感じる孤独は死よりも耐え難いものになるであろう」という解釈。人を愛する(たとえばこの映画の母親のように息子を愛する)ということは、将来待ちかまえている耐え難い孤独を覚悟するということである。
ただ、言うまでもなく人は死すべきものであり、死のそのとき、人はいくら多くの友人に恵まれていようと、たった独りで死ぬほかない。ならばそのときまでは、孤独という疫病神とはむしろ手を切るべきではないか。いやに浪漫派っぽい日記で申し訳ないが、僕はどうやらそれほど人を愛してしまったらしい。

福田和也『甘美な人生』

■衝動買いのわりに久しぶりに面白い本に出会った。福田和也『甘美な人生』(ちくま学芸文庫、2000/08/09刊)。『柄谷行人氏と日本の批評』の論点は新鮮。右寄りの批評をめったに読まないせいもあるのだろう。幼稚な日本人がどうのという本は読んだことがあるが、考えてみれば福田氏の本格的な批評を読むのは初めてだ。
最近仕事関係の本ばかり読んでいたので、この種の本を読むと僕らが本当に考えるべきことを思い出させてくれる。企業の業務や情報システムに関して原則論をたたかわせるほど不毛なことはない。
毎日のように発生している国内製造業の品質問題は、もちろんTQCの制度疲労もあるだろうが、他方でアングロサクソン型のリストラ・合理化に安易に走った結果でもある。じっさい今年初めの転職活動で、最近製品のリコールを実施した会社を訪問したことがあるが、とにかく人を減らし過ぎで休日出勤が常態となり、まともな仕事ができない状況なのは想像に難くなかった。
業務の効率化は人件費を減らすことが目的なのではなく、業務の品質・コスト・スピードをバランス良く継続的に改善することが目的なのだ。ところがアングロサクソン型の経営思想が消化不良を起こすと、ITで中間管理職を削ることが業務改善であるかのように短絡する。
今週の英『The Economist』誌はインターネットを初めとするITブームを痛烈に批判して「インターネットはpanacea(万能薬)ではない」と断じている。同様にアングロサクソン型の経営管理は決してpanaceaではない。一見グローバルで普遍的に見える「資本主義」にも各国の文化や歴史的経緯が深く刻み込まれている。その「資本主義」という制度の中で動いている企業に対する処方箋がたった一つであるわけがない。
そもそも世の中にはあらゆる意味でpanaceaなど存在しない。そもそも世の中には絶対的に正しいものなど存在しない。そんなものが見つかったらそこで企業経営もおしまい、資本主義もおしまい、生きる意味もおしまいだ。そんなに簡単に答が見つかると考えるのは「真理」というものをバカにしている。安易に答えに飛びつくよりも自分の頭でちゃんと考えること。そういう当たり前のことがこのページのテーマでもあるのだが。

『The Economist』日銀ゼロ金利解除を断罪

■日銀がゼロ金利政策を解除したのは少し前の話だが、それについて先週の『The Economist』は「間違いだった」と断じている。消費者物価指数が前年比でマイナスが続いているので、名目金利はゼロでも実質金利はすでにプラスになっているというのがその理由。金融政策としてゼロ金利を解除する必要はまったくなかったということだ。今日、8月の都区部の消費者物価指数が発表されたが、依然として前年比マイナスで0.8%。企業の設備投資はIT関連が牽引役になってハイテク関連を中心に伸びていると言うが、来年になって急上昇すると言われる長期金利が足を引っ張るのではと懸念される。