月別アーカイブ: 1998年3月

「逆ポーランド記法」を知らないSE

■「逆ポーランド記法」、SEのイロハだ。左から順に、数字だったらスタックへプッシュ、演算子ならスタックからポップして結果をプッシュ、そうすれば自動的に計算結果が求められる。コンピュータで処理しやすいように、数式を書き換える規則のこと。SEのイロハのはずだ。
そのはずだよね。情報処理2種の試験対策用語集にもちゃんと出ている。「逆ポーランド記法」を知らないSEに出会うと、僕は自分が情報システム部門にいるのか、まだ経理部門にいるのか、分からなくなる。ひょっとすると僕は、悪い夢を見ているのかもしれない。いやいや、僕が間違っているんだ、きっと。SEにとっても、必要なのは正確な知識と論理的思考能力ではなく、声の大きさとみんなに好かれる俗っぽさなんだ。

塩野七生の中途半端なフェミニズム

■今、日経新聞に『女たちの静かな革命』というひじょうに面白いコラムが連載されている。先月そのコラムに塩野七生が「仕事で男か女かということは関係なく、女らしくできる仕事などない」と書いたことに対して、賛否両論があった、ということが今日の朝刊の同コラムで報告されていた。
「仕事に男も女も関係ない」というのは、リベラリストの塩野七生らしい意見だが、残念ながら彼女はウーマンリブ以降のフェミニズムにあまりに無知のようだ。今の社会で、「仕事に男も女も関係ない」と言ってしまうことは、「過労死もいとわないほどの男たち並みに仕事をする気のない女は、男よりも安い月給で働かされて当然であり、いわんや家事労働に経済的見返りを期待するのはナンセンスである」という意味になってしまう。塩野七生はそのことを分かっていない。
フェミニズムは、今の時代の男らしさの価値を無批判に受け入れて、女たちが自分も男並みになることを目標にするのではない。そうではなくて、今の時代の価値観を作っている男たちの発想そのものに対する異議申立てであり、塩野七生が思っているよりももっと深い価値観の転倒である。
その意味で、今日の朝刊に紹介されていた塩野七生への異議の中では、「女性が家事を担ってきたことは恥ずべきことではない。他に選べなかったことが問題なのだ」という30歳の主婦の方の意見が、塩野七生よりもはるかに的を得ている。

トリュフォー『家庭』のヘンな日本人

■フランソワ・トリュフォー『家庭』1970年フランス。ドワネルもの。『夜霧の恋人たち』の続編。日本人女性キョーコがアントワーヌの浮気相手として登場する。キョーコがアントワーヌとデートするために、ルームメイトを追い出す場面で長い日本語のかけあいがある。その平板なイントネーションと早口の日本語は、日本人がしゃべる日本語としては少し違和感があるが、トリュフォーが俳優に話させるフランス語も、フランス人からすると同じように少し違和感があるのかもしれない。
日本文化の描き方は、中国文化との混同があったりと、西欧人お決まりの大間違いがたくさんある。トリュフォーにしてこれだ。途中、日本語の台詞で、音声が消されている部分があった。きっと差別用語か4文字言葉だと思うが、何を言っているのか気になる。ただし、織物のバックに赤い文字という冒頭のタイトルは、明らかに小津安二郎の引用であり、キョーコがアントワーヌに愛想を尽かした最後の言葉が「勝手にしやがれ」(トリュフォーも原案に参加したゴダールの出世作の日本公開タイトル)である。

フランソワ・トリュフォー『隣の女』

■フランソワ・トリュフォー『隣の女』1981年フランス。テニスクラブの支配人(女性)が語り手となり、『緑色の部屋』にも観られる限りなく狂気に近い愛の激情を描く。崩壊する女をファニー・アルダン、愛に狂う男をジェラール・ドパルデューが演じる。

ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』

■ジョン・カサヴェテス『オープニング・ナイト』1978年アメリカ。主演のジーナ・ローランズが圧巻。『チャイニーズ・ブッキー...』同様、バックステージとステージの2重の世界を劇中劇として描く。役に没入しようとする主演女優が、自らの強迫観念から「現実」を作り出すが、その「現実」を抹殺したとき、初めて舞台という虚構を演じることができる。カメラのアングルや、色彩、カサヴェテスにしか撮れない映画。言葉もありません。ちなみに、ピーター・フォークが2個所だけ顔を出してます。見つけてみましょう。