鬼束ちひろ」カテゴリーアーカイブ

続・「鬼束ちひろ」の過去の虚像から最も不自由なのは誰か

昨日、鬼束ちひろと彼女の過去の虚像について書いた。
ツイッターのフォロワーさんからコメントがあり、本人はそれほど深く考えていないのではないか、タトゥーもそんな意味で入れたのではないだろう、というご意見をいただいた。
もちろん、僕は大きなお世話であることを承知で書いており、鬼束ちひろ自身が何を考えているのかは本人にしかわからない。
ただ、鬼束ちひろがインタビューされるたびに同じ答えが返ってくることがらについて、本人がそれほど深く考えていないとするのは、やや不自然だと思う。
僕が書きたかったのは、単なる個人的な仮説だが、鬼束ちひろは自分にウソをついているかもしれないということだ。「意地を張っている」とでも言えばいいのか。
もしこの仮説があたっているとすれば、鬼束ちひろは、今のところ実体あるものを失わずに済んでいるが、これから失う可能性があるということだ。
大きなお世話であることを承知で説明をつづける。
彼女は今月発売の『TATTOO BURST』の松田美由紀との対談でも、過去の虚像は本当の自分ではなかったと語っている。エッセー『月の破片』にも同じことが書かれている。
そして『TATTOO BURST』の対談では、過去とイメージが変わったことで、世間にあれこれ言われることにはもう慣れた、と語っている。「初めから気にしていない」のではなく、「もう慣れた」のだ。
また鬼束ちひろは、いまの自分の音楽は聴きたい人が聴いてくれればいいと語っている。『BARFOUT!』201号のインタビューでも、ニコニコ生放送の『包丁の上でUTATANETS』でもくり返し語っている。
鬼束ちひろが、初めから自分の聴衆の人数について意識していないなら、このようなことを違う場所でくり返し語る必要はない。
過去の虚像と印象が変わったことで世間からいろいろ言われることを「もう慣れた」と言い、自分の聴衆の人数について「聴きたくなければ聴かなくていい」と言う。
あえて語る必要のないことを語ることで、鬼束ちひろはその言葉以上のことを語っている。
それは「本当は慣れるのに時間がかかった」ということであり、「本当は聴衆の人数を気にしている」ということだ。
ところで今月の『BARFOUT!』には、平野綾の新譜についてのインタビュー記事も掲載されている。
個人的に平野綾には興味が無い。ただ、彼女はこの記事で、ニューアルバムでこれまでと違うイメージの打ち出しをするにあたり、今までのファンにも違和感がないように注意した、と語っている。
平野綾が鬼束ちひろのように「聴きたくなければ聴かなくていい」と言い切れないのは、鬼束ちひろのような突出した実績も才能もないからだ。
ただ、もし鬼束ちひろが今のスタイルでデビューしていたら、今の鬼束ちひろの地位は存在しなかっただろう。才能があっても、認知されるきっかけがなければ、才能は埋もれる。広く認知されるには、虚像を作り上げ、既存の社会の価値観に媚びるしかない。
それをいちばん分かっているのは、鬼束ちひろ自身のはずだ。
鬼束ちひろは、現実に多くの聴き手を失いつつある。オリジナルアルバムの累計売上を見てみる。初動ではなく累計だ。
『LAS VEGAS』(2007/10/31発売) 46,659枚
『DOROTHY』(2009/10/28発売) 23,027枚
『剣と楓』(2011/04/20発売) 11,167枚
ちなみに、サブカル歌手・声優である平野綾の直近のオリジナルアルバムの累計売上を見てみる。
『スピード☆スター』(2009/11/18発売) 29,674枚
鬼束ちひろはこの4年間、アルバムを出すごとに聴衆が半減している。言葉どおり、いまだに虚像を追い求めている聴衆を切り捨てることに成功している。
今のところ彼女の音楽は、ほぼ日本国内にしか届いていない。日本より保守的なアジア圏の聴衆は、ほぼいなくなっただろう。(『LAS VEGAS』は正規の台湾版が発売された)
『BARFOUT!』のインタビューで彼女は、ロスやニューヨークはとても気に入っているが、英語によるコミュニケーションは不得意だと、正直に語っている。彼女の英会話力が、たとえば関根麻里のようなレベルにないことは明らかだ。
30代の彼女がこれから欧米の音楽シーンで高い知名度を獲得することはまず不可能だろう。
鬼束ちひろ(1980年生)は洋楽のフォロワーであって、ジャズ・ピアニスト上原ひろみ(1979年生)のように、欧米でも独自の個性を打ち出せるアーティストとは言いがたい。
『LAS VEGAS』で復帰した後の鬼束ちひろの状況を全体として見れば、すでに多くの聴き手を失いつつ、なおも聴き手を選別しつづける、突出した才能をもつアーティストということになる。
過去の虚像を失っても、鬼束ちひろは実体のあるものを何も失わない。しかし、過去の虚像をまるで実体があるもののように、過度に否定することで、過去の虚像を追い求めていた聴衆という、実体のあるものを鬼束ちひろは失いつつある。
これは究極的には、聴衆のいないアーティストが成立するか?ということだ。
なお、鬼束ちひろの虚像が歌ったオリジナル・アルバムの聴衆は以下のような規模だった。
『インソムニア』(2001/03/07発売) 1,344,726枚
『This Armor』(2002/03/06発売) 510,368枚
『Sugar High』(2002/12/11発売) 294,952枚
これだけ多くの聴衆という実体あるものを失うことと、作られた虚像という実体のないものを捨て去ることは、はたして釣り合うのだろうか。
僕には、実体のない虚像を捨て去る代償として彼女が失った実体のあるものが、あまりに大きすぎるように思えるのだ。もう少しうまい、現実の聴衆との折り合いのつけ方はないのだろうか。
うん。まったく大きなお世話だ。
大きなお世話だけれど、『剣と楓』のような素晴らしいアルバムが、たかが彼女のエキセントリックな外見ごときもののために、まだ鬼束ちひろを知らない新しい聴衆から見向きもされないのだとすれば、あまりに悲しいことではないか。
自分で新たな虚像を作ってでも、世間に媚びてでも、届けるべき自分の作品を新たな聴衆にも以前からの聴衆にも届けるほうが、アーティストとして賢明な選択とは言えないか。
鬼束ちひろは自分のファッションを貫くことと、自分の作品をより多くの聴衆にとどけることの両立に、いまのところ失敗している。なぜ聴衆を獲得するのに失敗する道の方をわざわざ選ぶのか、凡人の僕にはまったく理解できない。

「鬼束ちひろ」の過去の虚像から最も不自由なのは誰か

今月発売の『BARFOUT!』巻末に鬼束ちひろのニューカバーアルバム『FAMOUS MICROPHONE』についてのインタビュー記事が掲載されている。
先日このブログで、鬼束ちひろの言う「王道」はもはら無数の「サブカルチャー」の一つでしかなく、現代に「王道」と呼べる「メインカルチャー」はいかなるかたちでも存在しえない、と書いた。

それを証明するかのように、彼女の今回のカバーアルバムを大々的にインタビューでフィーチャーしている雑誌は、れっきとしたサブカルチャー誌である『BARFOUT!』のみ。
同じ201号には、平野綾、May’n、カジヒデキまで登場する。そういう『BARFOUT!』がサブカル誌ではなく、「王道」のメインカルチャー誌だと言いはるのは詭弁だ。
まして同じく5月発売の「本邦初のタトゥー専門情報誌」『TATTOO BURST』の巻頭を、女優であり写真家でもある松田美由紀の撮影・インタビューによる鬼束ちひろの記事が飾っている。
「本邦初のタトゥー専門情報誌」も絶対に「王道」のメインカルチャー誌とは言えない。出版社はボーイズラブから、グラビア誌や、いわゆる「実話」誌まで、さまざまな筋金入りサブカルチャー誌を出版しているコアマガジン社だ。
『BARFOUT!』のインタビューで、鬼束ちひろが『FAMOUS MICROPHONE』に寄せたことば「批判するわけではないけれど、/サブ・カルチャーが流行りとされている/この世間で、王道を行く。/私、鬼束ちひろはいつの時でも/そういう歌を歌い、そういう歌のように/生きています。」について、彼女は同じ趣旨のことをくりかえしている。
そして立派なサブカル誌である『BARFOUT!』の編集長・山崎二郎氏は「耳が痛い」と謙遜している。
鬼束ちひろは、その聞き手としての編集長の謙遜に、気づかないフリをしているのか、本気で自分が「王道」であるメインカルチャーを歩んでいると信じているのか、僕には分からない。
しかし、本物のタトゥーを入れるということは、少なくとも日本ではいかなる意味でもメインカルチャーとは言えない。
僕はタトゥーを入れる行為そのものが悪だと言いたいのではない。タトゥーを入れるのは完全に個人の自由で、誰にもそれを止める権利はない。
しかし、タトゥーを入れるというやや特殊な行為だけでなく、たとえば僕らが単にいつものように朝食をとるとか、休日に友だちに船を出してもらって釣りに出るとか、量販店で50インチの液晶テレビを買うとか、そうしたすべての行為は、自分自身だけで完結せず、必ず何らかの社会的な意味を否応なく帯びてしまう。
僕らの食べる朝食の食パンが、代官山で買った一斤350円のものか、100円ショップで買った105円のものか。牛乳が高温殺菌されたものだとすれば、なぜ低温殺菌の牛乳が手に入りにくくなったのか。
休日に友だちに船を出してもらう、その船を運転している友だちが、なぜ船舶免許をとることができたのか。
量販店で買った50インチの液晶テレビは、国産か、韓国産か、それ以外の国のメーカーのものか、そしてじっさいにどこで生産されたものか。そもそもなぜ19インチではなく、50インチでなくてはならないのか。
そうしたことはすべて、自分と社会との関係において、かならず何らかの原因を持ち、帰結をもたらす。
原因とよべるほど因果関係がはっきりしなくても、僕らの日常の一挙手一投足は、それに先立つ社会と自分との相互作用がある。「考えるのが面倒だったので、ただ何となく」という理由もふくめて。
そして、僕らの地上の一挙手一投足は、その後に起こる社会と自分との相互作用を必ずともなう。社会に何の反応も起こさなかった、という作用もふくめて。
タトゥーを入れるという行為には、とても残念ではあるけれども、現代の日本社会では行動が否応なしに狭められるという結果を生む。
たとえ社会の不寛容の側に非があると文句を言ったところで、現実として認めざるを得ない帰結だ。社会通念はたった一人の人間に、かんたんに変えられるようなものではない。
大阪市の職員も、職員である前に一人の市民であり、タトゥーを入れるのは完全に個人の自由だ。ただ、橋下という人物が市長である事実をかんたんに変えることはできない。変えるのであれば、それなりの戦略や狡猾さが必要だ。
それを持ち合わせていないなら、より寛容なコミュニティーに移住するか、社会の寛容さを獲得するための「運動」をするしかない。
残念ではあるけれども、まことに残念ではあるけれども、いまの日本社会で体のあちこちにタトゥーのある女性歌手が「王道」を歩むことはできない。
くり返しになるが、そういう日本社会の不寛容を恨むなら、その社会を変えるよう努力をしなければならない。
ただ「自分は王道を行くアーティストだ」と宣言するだけでは、単に、自分しか見えておらず、社会が見えていない人物という評価をうけるだけだ。
あるいは、「自分はかつて王道だったサブカルチャーを生きるアーティストだ」と、正直に宣言するのがよい。
鬼束ちひろが『月光』でスターダムにのし上がって、その後再起を果たすまでに失ったものは、作り上げられた虚構としての「鬼束ちひろ」の名声だ。
鬼束ちひろがよく言う「Aラインの洋服ばかり着せられて『清楚』なイメージをつくられた虚像」としての「鬼束ちひろ」は、まさに彼女の言うとおり、単なる虚像である。
鬼束ちひろは彼女自身の個性を失ったわけではない。実体のあるものを失ったわけではなく、単に他人の作った虚像を失っただけである。
つまり彼女自身は、実は何一つ失っていないのだ。逆に、彼女自身を取り戻したのである。
にもかかわらず、鬼束ちひろは、いまだに自分自身が何か実体のあるものを失い、それを取り返すために何かをしなければならないと、誤って思いこんでいる。
例えば、彼女がもともと、デビュー時に作られた虚像とは無関係な仕方で音楽を愛していたのなら、歌うためのエネルギーの通り道として、自分の体に新たなものを付け足す必要はまったくないはずである。
なのに彼女は、そのために左腕にタトゥーが必要だったと、いまだに語りつづけている。
結局のところ、他人が作り上げた虚像を、いまだに実体のあるものだったと、もっとも強く信じ続けているのは、鬼束ちひろ自身ではないのか。
いまだに『月光』ころのイメージを、鬼束ちひろの実体だと勘違いしている人々とまったく同じように、鬼束ちひろ自身もその虚構を実体だといまだに信じて、それが「失われた」という喪失感を抱いている。
喪失感がないのであれば、鬼束ちひろはただデビュー前の自分にもどれば十分であって、そこに何かを付け足す必要はないはずだからだ。
僕が今の鬼束ちひろについて、よく理解できないのはこの点なのである。
単にデビュー前の彼女にもどって、彼女の原点であるさまざまな洋楽を歌い、それらにインスピレーションを得た曲を作ればよい。彼女がなすべきことは、きわめてシンプルであるはずだ。
それを、なぜわざわざ日本の多くの聴衆に嫌悪されるような、余計な装飾、つまりエキセントリックなファッションやアイメイク、タトゥーのようなものを、意図的に付け加える必要があるのだろうか。
あるいは彼女はやはり真面目すぎるのかもしれない。
虚像であっても、それがいったん聴衆に受け入れられれば、それを実体として甘受するのがアーティストである。
真面目な鬼束ちひろはそう考えてしまうからこそ、かつての「鬼束ちひろ」を実体とみなして、それをふり払うために余分な力をふりしぼらなければならないのかもしれない。
でも、自分が過去の虚像に縛られていることを、エキセントリックなファッションやアイメイク、タトゥーのような「目に見えるもの」で、わざわざ今の聴衆に見せる必要はないだろう。
例えば今回のカバーアルバム『FAMOUS MICROPHONE』で、初めて鬼束ちひろというアーティストに出会う若者もいるかもしれないではないか。
そういう若者が目にする鬼束ちひろが、過去の虚像からの離脱しようともがいているアーティストである必要はまったくない。ありのままに、そこで歌っているアーティストであればよい。
過去の「鬼束ちひろ」という虚像にいちばんこだわっているのは、昔からの鬼束ちひろファンでもなく、これから鬼束ちひろと出会うかもしれない若者でもなく、ほかならぬ鬼束ちひろ自身のような気がするのだ。

鬼束ちひろの着地点はあるか?

今回は、鬼束ちひろの着地点について書いてみたい。
2012/05/30に鬼束ちひろによる洋楽カバーアルバム『FAMOUS MICROPHONE』が発売される。その発売に彼女は以下のようなコメントを寄せている。

このアルバムには、タイトルのとおり、「有名なマイク」が収められています。批判するわけではないけれど、サブ・カルチャーが流行りとされているこの世間で、王道を行く。私、鬼束ちひろはいつの時でもそういう歌を歌い、そういう歌のように生きています。

このコメントの「王道」は「サブ・カルチャー」に対するメイン・カルチャーと理解していいだろう。鬼束ちひろは、自分があくまで「王道」であるメイン・カルチャー側のアーティストだと語っている。
しかし現代に「王道」と言えるメイン・カルチャーはもはや存在しない。無数の「サブ・カルチャー」どうしが横並びで存在しているだけだ。
おそらく鬼束ちひろが想定する「王道」とは、西洋の、それも主に英国と米国のポップカルチャーのことで、そこには典型的にはディズニーやハリウッド映画が中心的な位置を占める。また『SEX AND THE CITY』や『LOST』などの米国のTVドラマも含まれるだろう。

日本国内の具体的な場所で言えば、次のようなものになるだろう。
ディズニー・ランドやユニバーサル・スタジオのようなテーマパーク。costcoのような会員制ホールセール・ストア。マクドナルドやバーガー・キングのようなファストフード店。米国資本の映画会社が経営するシネマコンプレックス。スターバックスのようなカフェ、などなど。
これら米国文化は、確かに1980年代後半くらいまでは、日本国内のポップカルチャーの「王道」だったかもしれない。
映画で言えば、米国ハリウッドだけでなく、英国発の『007』シリーズも日本国内で高い興行収入をあげていた時代までである(ちなみに僕は小学生のころ『007』シリーズの大ファンだった)。
しかし、1990年代以降、英米発の映画、音楽、TVドラマなどは、1980年代以前にこれら英米系のポップカルチャーで育った人たちの懐古趣味、「かつての王道」になってしまう。
映画では水野晴郎(1931年生)が語るハリウッド映画の魅力、音楽では小林克也(1941年生)が語る1980年代以降のビルボード・チャートが、「かつての王道」だった英米系ポップカルチャーの代弁者だ。
「王道」は懐古趣味になった途端、「王道」ではなくサブ・カルチャーになる。
マドンナなどの例外は存在するにしても、シンディ・ローパーなど1980年代以前のビルボード・チャートをいろどったアーティストは、もはや現役で生き生きと活躍する存在ではない。
ニルヴァーナなどのオルタナ以降のロック全般、ポップスのなかでもレディー・ガガなどに至っては、明らかに限られた聴衆にしか受け入れられない「サブカルチャー」のアイコンであることは明らかだ。
その最大の理由は、1990年代以降、音楽では日本国内で英米系のポップスとは違うJ-POPの巨大な市場が成立し、国内需要だけで成立するアーティストが無数に生まれたことにある。
1980年代までの日本の音楽シーンは、1970年代以前から活躍をつづけるフォークやニューミュージック系のアーティストと、国民的アイドルと、国民的演歌歌手が支配していた。
しかし1990年代以降は、それらのどこにも属さない「アーティスト」として、さまざまなソロ歌手やバンドが次々にミリオンヒットを出す時代になった。Mr. Children、ドリカム、浜崎あゆみ、ZARDなどなど。
J-POPというジャンルの登場で、ビルボードのヒットチャートに代表される英米系ポップスやロックを聴かない層が生まれ、英米系の音楽全体がサブカルチャー・シーンに後退した。
映画にも同じことがいえる。
それまで主にハリウッド映画と、巨額の予算と広告費を投じた角川映画を典型とする国内映画作品の、ほぼ二種類しかなかった映画に、二つの新しい流れが生まれた。
一つはミニシアターで上映される英米以外の国の外国映画作品。
もう一つは周防正行(1956年生)や矢口史靖(1967年生)などを典型とする、角川の手法を小ぶりにしたような、TVドラマとも連動したメディアミックス展開をする国内映画作品が多数製作されるようになったこと、である。
メディアミックス展開する国内映画には、アニメ作品も含まれる。
スタジオ・ジブリ作品はもちろんのこと、1980年代から劇場版が作られた『ドラえもん』をはじめ、『クレヨンしんちゃん』や『セーラームーン』など、1990年代以降、劇場版が制作されるTVアニメシリーズが増えている。
ハリウッド映画が「王道」たりえた時代は、日本各地の繁華街にある巨大スクリーンに、その時期の主要作品がドカンと上映される、というパターンだった。だからこそ英米系の映画が「王道」たりえたとも言える。
しかしミニシアターの登場や、シネマコンプレックスの普及によって、ハリウッド作品は、小さなスクリーンで上映される無数の作品のうちの一つに過ぎなくなる。
このように、音楽にしても映画にしても、かつてメインカルチャーだった英米系のポップカルチャーは、今ではすっかり多数の選択肢のうちの一つになってしまった。
日本のポップカルチャーだけでなく、韓国発のポップカルチャーなども含めた選択肢の中の一つにすぎない。
多くの選択肢の一つにすぎなくなった英米系のポップカルチャーは、もはや「王道」とは呼べない。
鬼束ちひろの『FAMOUS MICROPHONE』の収録曲を見ても、明らかに今となってはサブカルチャーとなってしまった、かつての「王道」以外のなにものでもない。
そもそも現代のポップカルチャーに「王道」という中心は存在しない。当然といえば当然だ。
問題は、鬼束ちひろが「王道」が現代にも実在すると信じていることにある。
無数のサブカルチャーの島宇宙が、横ならびで存在する現代に、もはや「王道」など存在しないのに、支配的な「王道」(=「王」とはまさに支配者なわけだが)が存在すると誤解していることが問題なのだ。
それは、鬼束ちひろ自身の最近のファッションが、「王道」の自己否定であることからもわかる。エキセントリックな洋服や体中のタトゥーは、「王道」ではなく完全にサブカルチャーだ。
ウソでも「王道」を標榜するなら、鬼束ちひろのファッションは、少なくとも最近のシンディー・ローパー程度には物わかりのいいもののはずである。
もちろん、僕は鬼束ちひろの今のファッションがダメだと言いたいのではない。徹底してサブカルチャーを追求するのは、鬼束ちひろの自由だ。
しかし、実際にはサブカルチャーであるものを、「王道」だと言い張って、自分自身や潜在的なリスナーたちにウソをつくのはやめた方がいい。
自分が正しいと思って選択したものに、いちいち「サブカルチャー」ではなく「王道」だなどと語り、まるで外部の権威を借りて理由づけをするようなやり方は、いさぎよくない。
なぜシンプルに「私の大好きな曲たち」と言い切らないのだろうか。
わざわざ、まるでそれが今なお「王道」として世界を支配していると言いたげに「FAMOUS」という形容詞をつける必要があるのか。
そこに、いまだに残る鬼束ちひろの屈折があると思う。もちろん屈折があること自体、悪いことではないが、屈折がある限り、鬼束ちひろが今の音楽シーンにうまく着地できる場所は存在しないだろう。