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岡村靖幸、覚せい剤所持3回逮捕でも復帰できる理不尽

AKB48、NMB48について『AKB、NMBから謹慎続出 人数多すぎて管理不能状態』(2011/09/06 J-CASTニュース)といった報道があるようだ。

「過去のブログでは、未成年なのに飲酒を匂わせる内容が記載されていた」などが、「謹慎」というより実質的には事務所サイドによる処分の原因らしい。
そういえば、2006年には、元モーニング娘。の加護亜依が未成年なのに喫煙していたことから、やはり謹慎になっていた。(ウィキペディア参照)
後藤真希の弟の後藤祐樹は、2002年、未成年でキャバクラに滞在しているところを写真週刊誌に撮影され、芸能界から追放された。(ウィキペディア参照)
元ドリカムの西川隆宏が、2002年に暴行事件を起こし、そのとき拘留中に尿検査で覚せい剤反応が出たことから再逮捕され、やはり芸能界から追放された。(ウィキペディア参照)
なぜこんな下らない事件簿を列挙しているかというと、岡村靖幸が3回も覚せい剤所持で逮捕され、最終的には実刑判決まで受けているのに、なぜそのたびに何の問題もなく芸能界に戻ってくることができているのか、ということだ。
芸能界が、常識的な社会人の感覚が通じる世界ではないことはわかるが、そういう世界ならそういう世界なりに、一貫性のある組織の「論理」みたいなものはないのだろうか。
アイドルが明らかに一段下の扱いを受けているのなら、ドリカムの西川隆宏氏のその後の日陰の人生と、残った2人のメンバーで存続しているドリカムの華々しい活躍の対比を見れば、岡村靖幸がふつうに考えて、異常な優遇をうけていることは誰にも否定できないだろう。

例えば、「覚せい剤やめますか?それとも人間やめますか?」といった標語は、岡村靖幸の3度の復帰という現実の前にすると、若者たちに対して説得力もクソもあったものではない。
岡村靖幸の関係者は、才能が豊かなだけに彼が社会に与える影響の大きさと、彼の社会的責任について、まともに考える能力を持っているとは思えない。
個人的には、岡村靖幸のバックに、誰も逆らえない特定の組織が存在すると疑わざるをえない。
それに比べると、「たかが」未成年の喫煙や飲酒で芸能界を追われた若いタレントたちが、哀れでしかたないのだ。

中島美嘉ツアー、商業主義的妥協を打ち消す存在感

今日、神奈川県民ホールの中島美嘉コンサートに行ってきた。
実は今まで行ったことのあるJ-POPのコンサートは、柴田淳、alan、中島美嘉の3人と、a-nationに3回だけ。
今日、初めて中島美嘉のコンサートを見て思ったのは、舞台のセットや演出の完成度が、申し訳ないが、柴田淳やalanとレベルが違うということだ。

会場の収容人数は、僕が柴田淳を見た神戸国際会館、alanを見た人見記念講堂、今日の神奈川県民ホール、いずれも2,000人クラス。
同じ規模の会場として見比べると、もちろん制作費の差が直接現われているのだろうが、中島美嘉のコンサートは一つひとつの段取りが絵になっている。
中島美嘉本人がきっちりMCとして進行ができるということもある。コンサートの中盤、予想以上に長いMCでの観客との掛け合いは、テンポがよく、ほとんど漫才のノリ。エンターテイナーとしての彼女の素質は、柴田淳やalanと比較にならない。
そもそも中島美嘉との比較対象として、柴田淳やalanが適切ではないことは重々承知で書いている。
ただ、今日の中島美嘉の歌唱力だけに注目すると、残念ながらまだ休養の影響が色濃く残っていると言わざるを得ない。特に気になったのは中低音域の地声の音程が非常に不安定なことと、一つひとつの音符の表現が平板なこと。
高音の裏声のビブラートは、以前と変わらず冴えていただけに、中低音域の不安定さは本人には申し訳ないが、ほぼ聴くに耐えないレベルだった。
この点は、alanの歌唱力がいかなる場合でも絶対的な安定性を保っているのとはっきり違う。やはり、alanはポピュラーの歌手というより、解放軍芸術学院で声楽の英才教育を受けた「声楽家」と呼ぶべきなのだろう。
中国大陸でのalanに対する評価も、alan自身の歌に対する姿勢も、J-POPの商業主義とは無縁のようだ。芸術として一定の水準に達していれば、CDの売上枚数など関係ないという考え方が根底にある。
YouTubeで、いつも英語でメールをやりとりしている中島美嘉のコアなファンがいるのだが、彼は今の彼女の声の状態は最悪だと書いていた。おそらくデビュー以来、最も悪い状態という意味だろう。
それは中島美嘉本人がいちばんよく分かっている現実だと思う。
今回のツアーは、昨年秋の東京・大阪公演を含めると、すでに2度延期していることになる。僕がチケットを買った神奈川県民ホールも、本来は5月だった公演が延期されたものだ。
声がまだ安定しない状態でも、興行的には開演しなければならない。それが商業音楽としてのJ-POPであり、中島美嘉自身、自分が「単なる」商業音楽の歌手であることを誰より自覚しているはずだ。
商業音楽は制作費に見合う売上がなければいけない。赤字を出してまで完成度を追求するのは、商業音楽という前提と矛盾する。なので、声の調子がいくら悪くても、3度目の延期をする選択肢は中島美嘉に存在しなかったに違いない。
商業音楽の担い手が、そういう酷な選択を、ときに味わう必要があるという現実を引き受けられるかどうか。それが商業的に成功するかどうかの分岐点かもしれない。
もちろん、商業的に成功しなくても、自分の信じる音楽を追求するというやり方もあるだろう。
僕がよく、alanのCD売上が映画『レッド・クリフ』の主題歌、『久遠の河』のヒットにもかかわらず、ずっと伸び悩んだことについて、特に中国のalanファンと意見を交わす中で思い知らされたのは、この点の認識の違いだ。
J-POPの商業音楽としての側面、つまり、ビジネスとして成立させるためには、時にかなりの妥協もせざるをえないという現実を理解できない人たちと、いくら議論しても平行線になる。
彼らは芸術的に素晴らしければそれでよい、歌手本人が完成度に満足していればそれでよい、と考える。台湾や香港と違って、中国大陸における流行歌は、僕ら日本人が思っている以上に、非商業主義的なクラシック音楽に近いのだろう。
しかし、中島美嘉のように商業的に成功しようと思えば、そうした理想主義、芸術至上主義だけでは無理だ。担い手自身が抱く後ろめたさこそ、商業的成功の必要条件だろう。
長々と書いてしまったが、実際には今日のコンサートを十分に楽しんだ。柴田淳やalanのコンサートでは味わえない爽快感や、我を忘れて演出に夢中になる感覚を味わうことができた。
こういう曰く言いがたいものを、「存在感」や「カリスマ性」と言うのだろうが、中島美嘉は確かにそういうものを持っている。

見られなかった中島美嘉コンサートの顛末

日付変わって、昨日2011/05/07は神奈川県民ホールに中島美嘉のコンサートを聴きに行くはずだった。
1時間半前に京浜東北線・関内駅に着き、駅前のマクドナルドで腹ごしらえをしてから、港に向かってゆっくり歩き、1時間前には会場に着いた。
すでにロビーにかなりの観客が集まっていると思ったら、物販が始まっていた。グッズにお金をかけると某所から事後にクレームが付くので、1,000円のパンフレットと1,000円のペンライトの計2,000円だけでガマン。
まだ開場の17:30まで時間があったので、となりの建物で100%オレンジジュースを買って、雨も上がり、晴れ始めた山下公園のまだ明るい夕方の空の下、ホール前の大階段で時間をつぶしていた。
ホールの入口には、いつの間にか入場する列ができている。全席指定なのでわざわざ列に並ぶ必要もなく、スマートフォンをもてあそびながら待っていたら、拡声器をもった黒いスーツ姿の男声スタッフが外へ出てきた。

そろそろ入場開始だな、と思ったら、みなさんご承知のとおり、中島美嘉は急性声帯炎のため、医師と相談の結果、大変申し訳ありませんが本日の公演は2011/08/15に延期とさせて頂きます、とのアナウンス。
家から神奈川県民ホールまで1時間半かけて出てきたのに、初めて中島美嘉の公演を見られると思えばこそ、年度末にかけてのクソつまらない内部統制監査対応の仕事も乗り切ったのに。
もちろんこの年になると、そうした精神的な落胆が外面に現れることもなくなり、何事もなかったように関内駅まで歩いてもどった。
2011/08/15は終戦記念日でお盆休みの真っ只中とは言え、月曜日。仕事を定時に終えても、開演に間に合うように横浜まで来るのはムリ。有給休暇をもらう必要がある。時期的に有給休暇が取れるかどうか、今はわからない。
神経をすり減らすだけのルーチンワークより、中島美嘉のコンサートのほうが重要なのは自明だけれど、どうしたものか。
ところで、今回のコンサートツアーについて、Yahoo!Music掲載のインタビューによれば、ややハードなスケジュールは本人の意思とは無関係に決まっていたようだ。
「とにかくツアーのスケジュールを見たときはビックリしました。いわば病み上がりだから、助走も兼ねて、楽なスケジュールにしてやろうかみたいな気づかいはないらしいですね、うちのスタッフには(笑)。いきなりガッツリ日程を組まれました」(中島美嘉インタビュー Yahoo!MUSIC)
本人は、この言葉のあとにつづいて「怖さはもちろんあるんだけど、性格上そのほうが燃えます。ツアーの日程にしても、ハードルが高いほど、モチベーションも高くなるし」(同上)と語っているが、本当に体力的にムリはなかったのか。彼女だってもう28歳なわけだし。
2011/08/15の振りかえ公演も、本当に開かれるのか、まだ疑わしいところではある。

商業音楽とケインズの美人投票とalanが売れないわけ

以前にも同じことを書いていたら申し訳ない。最近、記憶力の衰えが激しすぎて自分でも驚くくらいなので。
ポップスも演歌もロックも、アーティストがCDを売ったり、コンサートを開いたり、グッズを売ったりして生計を立てている以上、商業音楽である。
CDを買ってくれたり、コンサートに来てくれたり、グッズを買ってくれたりするファンがいなければ商業音楽は成立しない。
では商業音楽の聴き手、つまり僕らのようなアーティストではない一般人は、何を基準にい自分が聴く音楽を選んでいるだろうか。
たぶんほとんどの人が「自分の好きな曲を選んで聴いている」と答えるに違いないが、それはウソだ。
大きなレコード屋に行けば、何万枚というCDが棚に並んでいる。音楽ダウンロードサイトにアクセスすると、何百万という曲がそろっている。
その中から純粋に「自分の好きな曲だから選んだ」などということが起こるはずがない。
毎日のように、ランダムに何十枚というCDを入手できるような、コアな音楽ファンは別だが、ふつうの聴き手はそこまで音楽に金をつぎ込めない。
では、僕も含めてごくふつうの聴き手が、実際には何をしているかと言えば、すでに十分話題になっている楽曲の中から、自分の好きな曲を選んでいるだけである。
「すでに十分話題になっている」ということの中には、たとえばたまたま毎朝みているテレビの情報番組で紹介されたとか、オリコンチャートで上位にランクされたとか、いつも訪問するウェブサイトで話題になっていたといったことが含まれる。
つまり、無数の商業音楽の中から、いったん何らかの中間媒体によって絞りこまれた中から、「自分の好きな曲を選んでいる」だけである。
ではその中間媒体は、無数の楽曲の中から何を基準に紹介すべき音楽を選択しているのかといえば、「これは話題になりそうだ」という基準だろう。
中間媒体が、あらかじめ聴き手の好みを先取りして、聴き手が選びそうな曲を選択して提供し、その中から無数の一般の聴き手が「自分の好きな曲を選んでいる」。実際に商業音楽について起こっているのは、こういった事態だ。
何が言いたいのかというと、一般の聴き手は、本当に自分が好きな曲を聴いているわけではなく、中間にあるメディアが「これは好かれそうだ」と判断した曲を聴いているのである。
メディアが無数にある楽曲の中から、「これは話題になりそうだ」「これは好かれそうだ」という基準で選択するのは、メディア自体がビジネスとしてやっていく必要があるからだが、そういう基準で選択した結果として、商業音楽は、より多くの人がその楽曲の良さを共有できるようなものだけが残ることになる。
個々の楽曲が本質的に持っている良さ(そんなものが存在するかどうかは別として)ではなく、より多くの人が「好きだ」と思うような楽曲がメディアによって選択され、一般の聴き手がその中から自分の好みにしたがって選ぶ、という流れがすでに出来上がっている。
インターネットが普及した現代でも、本質的にアルファ・ブロガーでも何でもいいが、何らかの中間媒体が一次選別をしているという実態は昔と何ら変わらない。
ということは、商業音楽は個々の楽曲のもつ固有の価値や固有の芸術性によって買われるのではなく、より多くの人が好きになりやすいという傾向性によって買われていることになる。
回りくどい説明だったが、ケインズの美人投票(Keynesian beauty contest)と同じということだ。
ウィキペディア「美人投票」
ところが、商業音楽の作り手は、しばしば自分が作る音楽に固有の芸術性があり、それこそが自分の音楽が売れていることの理由だと主張する。この主張は、商業音楽に関するかぎり、端的に誤りであり、単なる思い込みだ。
商業音楽が売れるのは、自分以外の人の多くがこの音楽は売れると思うだろうと思うからであって、その音楽そのものが良いと思うからではない。
だから、商業音楽には不可避的に大衆性という属性がくっついてくるのだ。商業音楽が俗っぽいのは、堕落でも何でもない。
少なくとも、中間媒体の一次選別を通過しなければ、一般の聴き手はその楽曲や歌手のことに気づくことさえできない。
例をあげると、例えば僕の好きな鬼束ちひろが、いつの間にか活動再開していたということも、中間媒体が何らかのかたちで取り上げないかぎり、一般の聴き手には永遠にとどかない。
なおかつ、無事に活動再開の事実が聴き手にとどいたとしても、その楽曲そのものがいくら素晴らしくても、自分以外の多くの人に売れるようなものでなければ、売れないのだ。
売れないとどうなるかといえば、次回、中間媒体がその音楽を取り上げなくなる。取り上げなくなると、次回は、鬼束ちひろが新しい曲を作ったという事実そのものが、一般の聴き手にとどかなくなる。
そうなると、もはや商業音楽としては成立しない。
たとえメジャーレーベルに属していようと、事実上は、一般の音楽愛好家が個人的にYouTubeなどで自作曲を公開しているのと変わりがない。
今はたまたま鬼束ちひろを例にしたが、alanの方がよく当てはまるかもしれない。柴田淳ならもっとよく当てはまるかもしれない。
alanalan アーティストリンク
すべての商業音楽は、そういうものではないだろうか。

音楽が売れなくなったのは違法コピーのせい、という大ウソ(2)

「違法コピーが増えたから、音楽が売れなくなった」という大ウソについて、前半では主にマクロ的な要因を論じてみた。あらためてまとめてみる。
―そもそも1984~1998年の音楽生産総額の急増は単なる「J-POPバブル」だった。
―その「J-POPバブル」の主な原因は以下の3つである。
(1)日本経済全体がバブルでGDPが右肩上がりに伸び、マスメディアとのタイアップで音楽生産も拡大できた。
(2)日本の総人口の中で2つの大きなかたまりである、団塊の世代と団塊ジュニアが、たまたま音楽をもっとも消費する年齢層である15~49歳に入った。
(3)音楽の製作現場のデジタル化で楽曲の大量生産が可能になった。
―1999年以降(1)と(2)の要因がなくなったため「J-POPバブル」は崩壊した。
―そうして音楽生産金額は、音楽消費の中心となる年齢層の減少ペースにそった、本来の減少ペースに落ちついた。
―2004年以降、音楽のデジタル配信という新たな技術により音楽生産総額は再び増加した。
以上が、1971年以降の音楽生産総額の推移のまとめだ。
夢見るクリエイターである音楽業界の方々は、こんな身もフタもない説明に反感をもたれるだろうが、小室哲哉のような才能も、経済環境があってこそ開花する。それが商業音楽というものだろう。
「才能がなければ売れない」というのは正しいが、「才能があれば売れる」という考え方は間違っている。典型的な必要条件と十分条件と取りちがえだ。
では後半は、音楽生産金額・数量を媒体別、シングル/アルバム別、単価などで分析してみる。
音楽生産の資料はすべて日本レコード協会のもので、1970年から2009年まで確認できる。
まず、シングル/アルバム別に、生産数量と生産金額の推移を見てみる。
なお、シングル/アルバムの区別については、レコードについてはEP盤を全てシングル、LP盤を全てアルバムと見なしている。CDについては8cmを全てシングルと見なしている。12cmのCDは日本レコード協会の統計上、シングルとアルバムに分けられているので、そのまま採用している。
Chart 3をご覧いただきたい。
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シングル/アルバム別の生産数量を見ると、ひと目でわかるのは、レコードからCDへ切り換わるまでは、アルバムよりシングルの方が生産枚数が多かったことだ。
それに対して、CDに切り換わってからは、アルバムの生産枚数が圧倒的に増えており、現在に近づけば近づくほどその差は開く。
1970~80年代のアイドル系に比べ、1990年代以降は音楽性の高さで訴求し、歌手を「アーティスト」と呼ぶようになり、それにつれてレコード会社の販売戦略もアルバム中止に転換したようだ。
全体の販売数量に占めるシングルの割合は、減少の一途であることが分かる。
それに対してChart 4で金額ベースの推移を見ると、当然ではあるが1970年以来一貫してアルバムの方が高くなっている。
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このことは、シングル/アルバム別の生産単価の推移を見るとわかる。Chart 5をご覧いただきたい。
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当然のことながら、アルバムよりシングルの1枚あたりの単価は低い。
ただ、単価の推移で注目すべきは、アルバムの単価がレコードからCDへの切り替わって以降、下落し続けていることだ。逆にシングルの単価は少しではあるが上がり続けている。
シングルの単価がわずかに上がり続けているのは、レコード会社がシングルの収録曲数を増やし、ミニアルバム的な形態にして、単価の下落を防いでいると思われる。
アルバムの単価が下落し続けているのは、コンピレーションなど、単価の安い企画物のアルバムの比率が上がっているからではないかと思われる。つまりプロダクトミックスの変化が原因であって、アルバム全般の単価がおしなべて落ちているわけではない。
ここで興味があるのは、制作コストに対して、アルバムとシングルのどちらが利益率が高いのか、ということだ。
これは僕の推測だが、おそらくアルバムの方が利益率が高いため、レコード会社はシングルよりアルバム販売に軸足を移したのではないか。
消費者としても、収録曲数の多いアルバムの方がお得感が強いため、レコード会社の販売戦略と利害が一致していると思われる。
ただ、皮肉なことに、Chart 4にもどって、生産金額の推移を見ると、金額では1999年以降、シングルよりアルバムの生産金額の落ち込みの方が激しい。
「J-POPバブル」の崩壊は、より単価の高いアルバム生産の方に影響が大きく、それだけ生産金額の総額を急激に押し下げることになってしまった。
これも意地の悪い言い方をすれば、レコード会社の自業自得とも言える。
CDへの切り換え以降、アルバム中心の販売戦略をとり、「J-POPバブル」期にイケイケドンドンで生産金額を伸ばすことができたため、バブル崩壊後もその戦略を見直せなかった。
その結果、生産金額の落ち込みを必要以上に大きくしてしまった。
その落ち込みを補う手段として、音楽配信をテコ入れするわけだが、音楽配信の単価が著しく低いことは、録音媒体別の生産単価のグラフをご覧いただければ分かる。
Chart 8に、媒体別の生産単価の推移を示してある。
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その前に、レコード(EP/LP)の生産単価に比べて、CDの生産単価が高いのは、レコードに占めるアルバムの比率より、CDに占めるアルバムの比率が格段に高いからだ。
これは、Chart 3の数量ベースのシングル/アルバムの推移を見ればわかる。
さて、Chart 8にもどろう。音楽配信の単価は、着メロ・着うた、パソコンでの配信にしても、1曲単位の購入ができるようになったため、単価が極端に低く、100~200円となっている。
しかし、Chart 6で生産数量を見ると、音楽配信の曲数はすでにCDの生産枚数を超えていることが分かる。音楽配信は数量を稼がなければ利益の出ない、超薄利多売と言える。
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超薄利多売であっても音楽配信に乗り出さなければ、CDだけでは金額ベースの生産は落ちていく一方なので、背に腹はかえられなかったのだろう。このことは、金額ベースの推移を見ると分かる。Chart 7をご覧いただきたい。
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CDの生産数量のほとんどを占めるアルバムの、1枚あたり単価そのものが下落傾向にあるので、一定の生産金額を確保するには、音楽配信に乗り出さないわけにはいかなかったと言える。
以上の統計的な推移の背景について、少しうがった見方をしてみたい。
1970~1980年代のアイドルブームのころ、シングル中心だったレコード生産は、CDへの切り換わりと同時に、アイドル性の否定、アイドルよりも「高級」な「アーティスト」としての訴求とともにアルバム中心に変わる。
そのまま「J-POPバブル」に浮かれた音楽業界は、アルバムがほとんどを占めるプロダクトミックスに、歌手たちが本物の「アーティスト」になったという、大いなる勘違いをしてしまった。
その結果、「J-POPバブル」が崩壊したとき、アルバム偏重というまさにその戦略のしっぺ返しを喰らい、生産金額の急落に苦しむことになる。
くり返しになるが、1999年以降の音楽生産金額の急落は、音楽配信が始まる5年以上前のことであり、決して音楽配信によってCDの販売が減ったのではない。
音楽業界の大部分は、単なる流行歌手を「アーティスト」と勘違いしたまま、商業的にも成功しようと音楽配信に乗り出した。
しかし、芸術家という意味での「アーティスト」と商業的な成功は、ほとんどの歌手にとって夢のまた夢である。芸術家を自称するのであれば、むしろCDは大量に売れなくて当然なのだ。
その証拠に、「アーティスト」ではなくアイドル性を訴求して成功した歌手は、1970~1980年代と同様、シングルも売れており、アルバムの生産金額への偏りは穏やかだ。
アイドルから「誰でもアーティスト」へ、シングルからアルバムへという、いわば分不相応な芸術性の追求が、流行音楽産業の生産規模を激減させてしまった。
そして、いまだに「誰でもアーティスト」の大いなる勘違いから抜け出せないレコード会社が、挙句の果ては「CDが売れなくなったのは違法コピーのせいだ」と、まったく事実と異なる主張をし始める。
だがそもそも、高い芸術性と商業性の両立が成功する確率はきわめて低い。
自ら成功確率の低い販売戦略にふみ出しておきながら、その失敗の原因を消費者の違法行為にこじつけるのは、J-POPの音楽業界がまだ「誰でもアーティスト」という大いなる勘違いをし続けている証拠だ。
その勘違いにもとづく過剰な著作権管理が、音楽のデジタル配信の時代に、かえって新人歌手の育成をさまたげているというお話は、また次回。