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映画『渚にて』と小説『夏への扉』

お盆ということで、たまたま1950年代後半のアメリカの映画一本、小説一冊を鑑賞したので、それについて。以下、少しネタバレありなのでご注意を。
映画はスタンリー・クレイマー監督『渚にて』(1959年)。原作は1957年、イングランド出身のネビル・シュートという小説家によるものらしい。

ウィキペディアを見て知ったが、この小説家は1942年にナチス・ドイツのベルギー、フランス侵攻を背景とした『パイド・パイパー』という小説を書いているらしい。
「パイド・パイパー」は「ハーメルンの笛吹き男」のことだが、ちょうど今観ているアニメ『エウレカセブンAO』つながりだったので、まったく無関係だが触れておく。
で、小説の方は、今ごろ読むなとつっこまれそうだが、ハインラインの1957年の小説『夏への扉』だ。僕はもともとSFというジャンルをほとんど読まないので、今ごろこの「名作」を読んだことをお許し頂きたい。
両者の共通点は、それが第三次世界大戦であれ六週間戦争であれ、大規模な核戦争が起こった後の世界を舞台にしていること。
そして、こちらがむしろ重要だが、核戦争そのものにはほとんどふれず、その状況下で生きる市民の日常に焦点をあてていること。
両者の決定的な違いは、『渚にて』は完全なディストピア作品なのに対し、『夏への扉』は希望に満ちた痛快逆転劇であること。
『渚にて』は映画としては、たぶん今の観衆にとってはかなり退屈だろうけれど、個人的には非常に優れていると感じた。
徐々に放射能汚染が忍びより、全滅へ追い詰められていく人類を、限られた登場人物の日常生活を中心に淡々と描いている点で、ゆったりとした展開は秀逸。
派手な特撮はなく、気づいたカットとしては、金門橋の下をくぐる潜水艦と、カーレースの場面の合成くらい。その他はセットまたはロケで、とても地味で堅実な演出。
フレームが意図的に斜めにされている場面が多数あり、一見、日常に見えるものが、実は徐々に放射能汚染に蝕まれる地球上のお話であることを暗示している。(潜水艦内のカットでフレームが斜めになっている箇所は、たぶん一つもなかった)
最後の部分は、主要な登場人物が、一人また一人と自殺を選んでいくシーケンスが続く。
例えば、カーレースを趣味とする研究員は、自宅のガレージの扉の下の隙間を布でふさぎ、フェラーリのエンジンを全開にする。
映画の中盤、かなり長めのカーレースのシーケンスがある。他の車が次々と大破する中、優勝して誇らしげな様子だった彼との対比で、それが尊厳ある自死であることの描写だとわかる。
もちろん1950年代のウェルメイドなハリウッド映画(MGM)らしく、自殺する人々が死にゆく瞬間の描写は一つも出てこないが、暗たんたる気分のまま映画は終わる。
一方、『夏への扉』は人生の敗者となったかに見えた主人公が、冷凍睡眠と時間旅行を駆使して、2001年の世界で大逆転を勝ち取るという、希望に満ちた物語になっている。

こちらも主人公をめぐる人々の愛憎劇や、日常生活の細部の描写にこそ価値があると言うべきだろう。物語の内容や、冷凍睡眠や時間旅行といったSF的道具立ては、この小説にとって本質的ではない。
ただ、個人的には、すでにこの小説の結末である2001年を11年も過ぎている世界に暮らしている僕にとって、1957年にはまだ未来への希望があったんだなぁと、1957年を羨む気持ちしか持てない。
この小説に描かれている2001年が、現実の2001年と細部において違っていることを指摘したいのではない。
この小説の開始点が1970年であろうといつであろうと、「夏」という一種の比喩で指し示されている「未来」を、まさに「夏」のように明るく希望に満ちたものとしてとらえている点に、羨ましさしか感じないのだ。
それは1957年当時が、まだハインラインが主人公の一発逆転劇というこの寓話に託すことができたように、「未来」に希望を持てた時代であることを示している。
仮に2012年の今、40年後の未来で人生の一発逆転を成し遂げる主人公を小説で描いたら、何て脳天気な、と一蹴されるだけに終わるのではないか。
その時代の変化に、『夏への扉』の読後感でさえ、『渚にて』を観終えた後の絶望感に近いものになってしまう。そんな皮肉なことになってしまった。

森達也監督『A2』:人工物としての「信仰の自由」

森達也監督のオウム真理教についてのドキュメンタリー映画『A2』(2001年公開)を、ニコニコ生放送のタイムシフトで観た。上祐史浩が出所した1999年前後のころの、各拠点の信者たちを、主に信者の側から撮影したものだ。

この映画では、信者たちの日常生活が意外なほど淡々としていること。むしろ彼らに対する警察、右翼団体、追放運動をする地域住民の行動の異様さを、たくみにあぶり出している。
もちろん監督の森達也氏は、教団が組織的に起こした凶悪犯罪をゆるしているわけでは決してない。
逆に森氏はこの映画の最後で、被害者からの賠償請求に応じるなど、教団が態度を軟化させているのは、逆に過去に対する欺瞞ではないかと、信者を問い詰めている。
森達也氏がそこまで信者に率直な物言いができるのは、この映画の撮影を通じてオウム信者たちとの距離を縮められたことと、そして、オウム真理教という組織が、じっさいには部活の延長線のように未熟であることがあるだろう。
その意味で、この映画全体は、森達也氏にしか追及できなかった、オウム信者たちに対する根本的な問題提起といえる。
ところで、過去に凶悪犯罪を犯したオウム真理教にさえ、日本国憲法第二十条の「信仰の自由」は保証される。
オウム真理教の地下鉄サリン事件を見て、新興宗教をすべて反社会的でいかがわしいものととらえ、「信仰の自由」自体を否定的に考えるのは、完全に間違っている。

ただし、その「信仰の自由」とは、社会から遊離した抽象的な概念ではなく、日本国民にとっては、あくまで日本国憲法と、日本国の法律の枠内の概念でしかない。
したがって、オウム真理教に限らず、すべての宗教団体は、日本の法律に従わなければ「信仰の自由」も保証されない。たとえ今の日本の法律にいろいろな不備があっても、である。
これは一見当たり前のことのようだが、「信仰の自由」が人類の歴史の中では比較的新しい発明であり、時間をかけて作り上げてきた社会の決まりごとであることを忘れてはいけない。
たとえある宗教がその教義の中で、「現世」のいかなる法律も認めないと宣言しても、現実に法律に反する行為をすれば、その社会の定める手続きにしたがって処罰される。
「信仰の自由」は日本の法律があるからこそ存在するのであって、日本の法律を逸脱し、かつ、「信仰の自由」が保証されるという状態は存在しない。
オウム真理教だけでなく、オウム真理教の反対運動を行ういかなる日本国民も、同じように日本の法律に従う必要がある。
この映画で、オウム真理教の信者たちより、彼らをとりまく市民や右翼団体、警察が「滑稽」に見えるのは、これらの人たちが、オウム真理教のような「犯罪集団」に対しては、日本の法律など無視して、国家に代わって「私的」な罰をあたえてもいいのだという、とんでもない勘違いをしているように見えるからだ。
オウム信者は悪いやつらで、一般市民は善良、という善悪二元論を、素朴に信じている人たちがいるかもしれない。
そういう人たちは、社会にとって誰が「悪い」人間で、誰が「良い」人間かは、憲法や法律のような、それら自体、人間の作り上げた社会の約束事として決まっているに過ぎないことを、たぶん分かっていない。
社会における善悪は、単に社会の約束事として、憲法や法律などのかたちで決まっているだけの「人工物」であり、永遠普遍の真理として決まっているのではない。
もちろん人間は、普遍的な「善」「悪」の概念について考えることもできるが、それは哲学の仕事であり、現実の社会をまわす制度をつくるのとは別次元の話だ。
一つの社会の中で、異なる善悪の主張がお互いに矛盾する場合は、これもその社会が定めた手続き、つまり裁判などにしたがって調停するしかない。
そこで考えたいのは、この映画の最後で森達也監督が、なぜオウム真理教の幹部に「大人しい宗教団体に変わるだけで、過去を精算したことになるのか?」と問い詰めているのか、という点だ。
森達也氏自身、自分がオウム真理教に何を期待しているのかよくわからないと告白している。
ただ、おそらく森達也氏はオウム真理教に、教義を変えることを期待しているわけではない。森達也氏の中では、社会への適応に二つの段階が分けられているように見える。

一つは「信仰の自由」自体を成立させている、日本国の憲法や法律への適応。この適応ができなければ、宗教団体は「信仰の自由」を自己否定することになる。
地下鉄サリン事件はこの適応を拒否した結果であり、この事件の実行主体としてのオウム真理教は、もはや日本社会においては宗教団体ではなく、犯罪組織になってしまった。「信仰の自由」を自ら否定してしまったからだ。
もう一つの段階は、山本七平の言うような意味での日本的な空気の支配する社会への適応。文脈依存性の高い(=言外の含みが多い)コミュニケーションや、みんな同じでなければいけないという同調圧力の強い、日本的な社会への適応だ。
オウム真理教がいかにも日本的な社会へ適応してしまったら、同じ過ちをくり返すのではないか。森達也氏の危惧はおそらくここにある。
つまり、日本的社会への適応を拒否する人々や、そこからドロップアウトした人々が、別の価値観を求めてオウム真理教に入信している。なのに、そのオウム真理教が日本的社会への適応を目指してしまえば、信者の一部がオウム真理教からもはじき出されるおそれがある。
そうなると、教団からもはじき出された信者たちが、かつてテロ集団へ先鋭化していった道と同じ道を準備することになってしまう。
その意味で、逆説的ではあるが、宗教団体はいたずらに日本的な社会の「空気の支配」や「同調圧力」に適応するのではなく、その「信仰」に忠実である方が、かえって社会にうまく組み込まれる、ということになる。
森達也監督はオウム真理教のある種の「世俗化」に、直感的にこのようなことを危惧していたのではないか。
いずれにせよこのドキュメンタリー映画は、ナレーションもなく、劇的な演出もなく、現場で撮影した素材を秀逸な編集でつないだだけだが、2時間15分があっという間に感じられる秀作である。

イベントコンパニオンの「余命」の商業主義的搾取?

TBSが連日、他局にまで主演の女優・男優を出演させ、猛烈に宣伝しまくっている、実話をもとにした某新作映画。
原作の女性がAV女優だったという話題で、一時期、ネットが「祭り」状態になっていたことを初めて知った。
どうやら実話らしい。正確にはイベントコンパニオンだった彼女が、一度AVに出演しただけので、「AV女優」という表現は不適切だろう。
TBSが彼女の友人と結託して、彼女の「余命」を商売にしているという噂が事実かどうかまでは分からない。
ただ、職業の貴賎にかかわらず、一人の若い女性が乳がんで亡くなったという事実の重さに変わりはない。
それにしても、『私は貝になりたい』(2008年)もそうだが、TBSはどうしてこういう人の命の重みを問うような深刻な映画を、極めて軽薄かつ大々的に、商業主義的な宣伝ができるのだろうか。

『ホームレス中学生』は何とあの古厩監督作品!

芸人が書いた自伝小説が原作の映画なんて観る価値なし!と思っていたのだが、何と映画版『ホームレス中学生』は、あの古厩監督の作品ではないか。
古厩監督とは、言うまでもなくあの名作『この窓は君のもの』(1995年)の監督で、後に長澤まさみ、小栗旬、伊藤淳史、塚本高史という豪華キャストで、全国高校ロボット競技大会を題材にした『ロボコン』の監督としても有名(でもないか)。

映画版『ホームレス中学生』も、DVDが出たらTSUTAYAで借りて観ることにしよう。きっと長回しでじっくり見せてくれるシーンが満載に違いない。(劇場に行きたいところだが、何しろ自分で自由に使えるお金を絞られているので仕方がない)
なお『この窓は君のもの』はケーブルテレビの日本映画専門チャンネルで、2008/11/10(月)20:00~、2008/11/18(火)12:00~放送される。まだ観ていない方はぜひこの機会を逃されないように。

映画『オズの魔法使』を観て「常に既に」

たまたまザッピングしていたらNHK BSで『オズの魔法使(The Wizard of OZ)』を放送していたので最後まで観てしまった。この映画を見るのは10年以上ぶりで2回目だが、こんな映画だっただろうか?

Technicolor作品で、Dorothyがオズの国にいる間カラーになるというのは有名な話で書くまでもないが、記憶の中では鬱蒼とした森の中をDorothy一行が延々と旅するroad movieだった。実際にはエメラルドの国や悪い魔女の城の場面が大半だ。
それに、脳みそのないカカシ、心の無いブリキの木こり、臆病なライオンが最後に脳みそや心や勇気を手に入れる場面の脚本は、もっと気の利いた台詞だと勝手に美化していた。実際には、偉大なるオズの魔法使自体が機械仕掛けで、人はもともと理性と感情と勇気を持っているというオチだった。
ただし、気づいたことがいくつかあった。というより、前回観て既に気づいていたことを忘れているだけかもしれないが。
冒頭のカンザスから最後まですべてセット撮影であること。相当金がかかっている。昔の興行界では普通だったのだろうが、大勢の小人症の歌手が登場すること。
ブリキの男が登場して錆びついた体に油を挿してもらった後、地面に足の裏をつけたまま左右にゆらり、ゆらりと倒れそうになりながら倒れないというアクション。マイケル・ジャクソンの振付けのオリジナルがここにあったということ。
それでも冒頭、Dorothyが『Over the Rainbow』を歌い始めた途端に涙が流れ始めたのはなぜだろうか。嫌なことのない世界にあこがれ、空を仰ぎながら歌うJudy Garlandの歌に。
でも結局Dorothyは「やっぱりお家がいいわ」と、家に戻ってくる。苦悩にあふれたこの世界に戻ってきたことが本当に良かったのか。『オズの魔法使』は本当に観客に夢を与えてくれる映画なのか。
日本語版ウィキペディアで初めて知ったが、この映画で一躍人気女優になったJudy Garlandは典型的な破滅型の人生を送ったらしく、薬物依存症、セックス依存症、バイセクシャル。47歳で睡眠薬の大量服用で死んだという。
夢のような作品は破滅的な現実に支えられている。美は常に既に汚染されている。そうでない美は存在しないということか。