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安倍政権の放送法についての誤解と「この国民にしてこの政権あり」

BPO(放送倫理・番組向上機構)がNHK番組のやらせ疑惑をめぐって、高市総務相が放送に介入したことを批判したことはご承知のとおり。

どうやら安倍政権は、放送法をわざと、意図的に、曲解しているらしいので、以下、かんたんにご説明。

放送法第四条、放送事業者に政治的公平性を求める条文の前提は、放送法第一条。

放送法第一条、放送の不偏不党、真実及び自律、表現の自由の確保を求める条文の前提は、日本国憲法第二十一条。

日本国憲法第二十一条は、表現の自由と検閲の禁止。

憲法は主権者(つまり国民)が、統治権力の権力乱用を制限するもの。

つまり憲法第二十一条は、「統治権力は、国民の表現の自由を制限したり、検閲してはいけない」という意味。

要は、国民の表現の自由に「統治権力は介入しちゃダメ!」という意味。

それを元にした放送法第一条も、「統治権力は、放送事業者の放送の不偏不党、真実及び自律を確保し、表現の自由を制限してはいけない」という意味。

要は、放送事業者の放送に「統治権力は介入しちゃダメ!」という意味。

それを元にした放送法第四条も、「統治権力は、放送事業者が自律的に政治的公平性を確保することを制限してはいけない」という意味。

要は、放送事業者が自律的に政治的公平性を確保することについて「統治権力は介入しちゃダメ!」という意味。

なのに安倍政権は、「統治権力は、放送事業の政治的公平性をチェックする権力を持っている」と意図的に曲解している。

もし安倍政権の放送法解釈が正しいのであれば、その前提となる放送法第一条も「統治権力は、放送事業者の不偏不党、真実及び自律をチェックし、そうなっていない場合には、表現の自由を制限する権力を持っている」という解釈になってしまう。

そうすると、憲法第二十一条と完全に矛盾する。

つまり、安倍政権は安保法制の問題でも同じことが言えるけれど、意図的に日本国憲法の性質を根本的に曲解している。

憲法はもともと統治権力の権力を制限するために、歴史上、考え出されたものなのに、それを、統治権力が国民の権利を制限するために存在するものだと、意図的に曲解している。

憲法は主権者である国民が、統治権力を縛るために考え出されたしくみなのに、安倍政権はそれを、統治権力が主権者である国民の権利や自由を縛るための原則だと、意図的に曲解している。

意図的に曲解しているのでなければ、安倍政権は自分たちが放送法について、憲法と完全に矛盾した解釈をしていることを分かっていないことになる。

いずれにせよ、そういう安倍政権を選挙で選んだのは、主権者である国民。

安倍政権が憲法について完全な曲解や誤解をしているのだとすれば、それを許している国民の方が、そもそも自分たちの「主権」をまったく理解していない証拠。

まさにこの国民にして、この政権あり。

安倍政権のような憲法観が許されつづけるとすれば、日本という国は、だんだんと中国っぽい、統治権力が国民の自由を制限して当然という国に変わっていくだろう。

大阪府民、大阪市民も、今回のダブル選挙で、どちらかというと「統治権力は強くて頼りになる方がいい(主権者である国民の自由は制限されてもかまわない)」という方向に傾いたようだし。

やっぱり、まさにこの国民にして、この政権あり。

たぶん日本のサラリーマンは、首相のことを、会社の社長くらいに思っているのだろう。国家においては、社長は自分たち国民自身で、首相は単なる業務執行役員であるにもかかわらず…。

「5年間滞在した日本を離れるドイツ人ジャーナリストの告白」全文日本語試訳

「5年間滞在した日本を離れるドイツ人ジャーナリストの告白」というtogetterで抄訳されていた記事が面白かったので、全文を日本語にしてみた。

英語の原文は、日本外国特派員協会の「NUMBER 1 SHIMBUN」というブログのこちらの記事

原題は「東京からドイツの読者へ5年間伝え続けた外国人記者の告白」。筆者はドイツのフランクフルター・アルゲマイネ紙の記者カーステン・ゲルミス氏。


荷物はまとめた、と歌はつづく。東京で5年間、ドイツの日刊紙『フランクフルター・アルゲマイネ』の特派員として過ごし、私は間もなく東京から故国へ旅立つ。

私が離れるこの国は、2010年1月に到着したときとは違っている。表面上は同じように見えるけれど、社会の雰囲気が―この12か月のあいだ私の仕事にだんだんと影響するようになったのだが―ゆっくりと、しかし、はっきりと変化している。

日本のエリートたちの認識と外国メディアが伝えることの間にあるギャップは広がりつつあって、ここで働くジャーナリストたちにとって問題になるかもしれないと心配している。

もちろん、日本は出版の自由のある民主主義の国だし、日本語の能力が低い特派員でさえ、情報にアクセスできる。

しかし、ギャップは存在する。というのは、安倍晋三首相のリーダーシップの下ではっきりとした変化(shift)が起こりつつあるからだ―つまり右派による歴史歪曲の動きだ。

日本の新しいエリートたちは、往々にして外国メディアが書き続ける反対意見や批判への対処に苦労しているので、そのことは問題になるかもしれない。

日経新聞は、今年2月にドイツのアンゲラ・メルケル首相が来日したことについて、ベルリン特派員のエッセーを発表した。その特派員は次のように書いている。

「メルケルの訪日は、友情というよりも日本批判に貢献した。彼女は日本の専門家たちと、ドイツの原子力発電停止政策について議論した。彼女は朝日新聞を訪問したとき、そして安倍首相に会ったとき、戦時の歴史について話した。

彼女は最大野党である民主党の党首、岡田克也氏とも話した….友情が示されたのは、彼女がドイツの会社の経営する工場を訪問して、ロボットのAsimoと握手したときだけだった。」

このエッセーは辛辣なように見える。しかし、前提を受け入れるとしても…友情とは何だろうか?友情とは単に同意することだけだろうか?

友情とは、友人が彼自身を害するような方向に動こうとしているとき、自分の信念を語る能力のことではないのか?そしてメルケルの訪日は、確かに単なる批判よりも複雑なものだった。

ここで私自身のスタンスをはっきりさせておこう。5年たっても、私の日本に対する愛情と愛着は壊れない。じっさい、私が出会ったたくさんのいい人たちのおかげで、私のこの気持は今まで以上に強くなっている。

私の日本人の友人たちやドイツの日本人読者たちのほとんどが、私の書いた記事に私の(日本に対する)愛を感じると言ってくれる。特に2011年3月11日の出来事の後は。

不幸にも、東京の外務省のお役人たちは完全に異なる見方をしており、日本のメディアも同じように感じているようだ。

彼らにとって私は―ドイツのメディアに属する私の同僚たちのほとんどもそうなのだが―辛辣な(日本)批判を書くことしかできない、日本たたきの張本人なのである。

日経新聞のベルリン特派員が書いているように、二国間の関係を「より友好的でない」ものにしている責任は、私たちにあるというのだ。

変化する関係

『フランクフルター・アルゲマイネ』紙は政治的には保守で、経済的には自由主義かつ市場主義だ。ところが、安倍氏の歴史修正主義についての記事が批判的だとクレームをつける人たちは、右派なのである。

ドイツでは、リベラルな民主主義者が、侵略戦争に対する責任を否定するなど、考えられないことである。もしドイツで日本の人気が落ち込むとすれば、それはメディアの記事のせいではなく、歴史修正主義に対するドイツの反感のせいだろう。

私が日本で仕事をし始めたころ、問題は大きく異なっていた。2010年、民主党が政権をとっていた。私が取材した3人の首相―鳩山、菅、野田の三氏は、外国の記者に自分たちの政策を説明しようとし、政治家たちが次のように言うのをよく耳にした。「私たちはもっと努力して国をもっとうまく治めなければならない」と。

外国人ジャーナリストたちは副首相の岡田克也氏にたびたび招かれて、例えば、意見交換を行った。首相の公邸である官邸では毎週ミーティングがあり、職員たちは現時点の問題について―場合によってオープンだったりそうでもなかったりしたが―すすんで議論した。ある問題について、私たちは政府のスタンスをためらわずに批判したが、職員たちは彼らの立場を理解してもらおうとし続けていた。

その巻き戻しは2012年12月の選挙の後、すぐにやって来た。

新しい首相は例えばFacebookといった新しいメディアを活用しながらも、行政において情報開示に積極的に取り組もうという証拠はどこにもない。財務相の麻生太郎氏は外国人ジャーナリストたちと一度も話そうとせず、政府の巨額の債務についての質問に答えようとしていない。

じっさい、外国人特派員たちが政府の公式見解を聞きたい問題は長大なリストになっていた。エネルギー政策、アベノミクスのリスク、憲法改正、若年層の就職機会、地方の過疎化。

しかし政府代表が外国の記者と話そうという意志は、ほぼゼロである。同時に、首相のいう素晴らしい新時代を批判する者は、誰もが日本叩きだと呼ばれている。

5年前と比べて新しくなったこと、そして5年前には考えられなかったことは、外務省からの攻撃を受けることだ。直接的な攻撃だけでなく、ドイツにいる新聞社の編集スタッフまで攻撃を受けるのである。

私が安倍内閣の歴史修正主義を批判する記事が発行されたとき、新聞社の外交問題にかんする編集長は、フランクフルトの日本総領事の訪問を受け、「東京」からの異議を伝えられた。日本総領事は、中国の反日プロパガンダに利用されてしまう、と苦情を言ってきた。

状況はさらに悪化した。

その後、凍りつくような90分間の会議で、編集長は日本総領事に、記事が間違いだと証明できる情報を求めたが、無駄だった。

日本総領事の外交官は、「金銭がからんでいると疑わざるを得ません」と言い、私と、編集長、そして『フランクフルター・アルゲマイネ』紙全体を侮辱したのだ。

私の記事の切り抜きを取り出しながら、その日本の外交官は私が中国のプロパガンダを支援する記事を書く必要があったことについて、延々と哀悼の意を表明した。その日本の外交官は、私が中国にビサを申請する必要があるからだろうと理解していたのだ。

私が?北京から金をもらったスパイだって?私は北京なんて行ったこともないし、(中国に)ビザを申請したことも一度もない。

もしこれが、新内閣が日本の目的を理解させるために取った手段なのだとすれば、その前にやるべきことはたくさんある。

もちろん私の編集長は、中国支持だという非難を受け入れなかったし、私に報告を続けるよう支援してくれた。それどころか、私の報告をより厳しいものに編集してくれた。

高圧的な態度は過去2年間で強まっている。

2012年、民主党がまだ政権にあったとき、私は韓国を訪問して、元慰安婦にインタビューし、紛争中の竹島(韓国人にとっては独島)を訪れた。もちろん(韓国側の)PRだったが、私にとっては論争の中心を見るめったにないチャンスだった。

私は外務省に食事と議論のために呼ばれて、その島が日本の領土であることを証明する数十ページの資料を受け取った。

2013年、安倍内閣が発足し、私は3人の元慰安婦にインタビューした後、再び(外務省に)呼ばれた。今回も昼食の招待付きで、首相の考えを理解する手助けになる資料を再び受け取った。

しかし2014年になって事情は変わったようだ。外務省はいまや批判的な記事をあからさまに攻撃しているようだ。私は首相のナショナリズムが中国との貿易に与える影響について書いた後(外務省に)呼ばれた。

私は公式の統計を引用しただけだと話したが、彼らの反論は、数字が間違っている、というものだった。

私の旅立ちのメッセージ

フランクフルト日本総領事と私の編集長の歴史的な会合の2週間後、私はもう一度外務省の職員と昼食をとった。その中で私の「歴史の歪曲」という言葉と、安倍氏の国家主義的な方向性が「東アジアだけでなく、日本を孤立させる」かもしれないという考えに対して、抗議を受けた。

抗議のトーンはさらに凍りつくようで、説明して説得しようというよりもむしろ、彼らの態度は怒りだった。なぜドイツのメディアが特に歴史修正主義について敏感なのか、私が説明しようとしても、誰も聞いてくれなかった。

政府の職員が外国特派員を昼食に招待する回数が増えていると聞いている。そして第二次世界大戦についての日本の見解を広める予算が増額され、(日本に対して)批判的と見なされた外国特派員の上司を招待するという新しいトレンドがあるらしい(もちろんビジネスクラスの飛行機だが)。

しかし私は(政府の政策を)主導する人たちは、注意深く歩んだ方がいいと思う。

外国特派員の編集長たちは、高級なもてなしやぎこちない努力で政治的なPRをされると―そしてそういったことには慣れているので―逆効果になる傾向があるからだ。

フランクフルトの日本総領事が私が中国からお金を受け取っているとコメントしたことに対し、私が公式に苦情を申し立てたとき、私は「誤解でした」と言われた。

そこで、私の旅立ちのメッセージ。私の同僚たちと違って、私は日本の報道の自由は脅かされていないと思う。民主党政権の時代より批判の声は静かになったけれども、まだ存在している―そしてたぶん以前よりも数は増えている。

日本の政治的エリートたちの精神が閉鎖的で、政権のリーダーたちが今のところ外国メディアとオープンな議論をあえてする能力がないからといって、報道の自由にじっさい影響しているわけではない。情報の収集源は他にもたくさんあるからだ。

しかし、そのことによってあらわになってしまっていることがある。

それは―民主主義においては―政策を民衆に対して、そして世界に対しても説明する必要があるということを、政府がいかに理解していないかが、あらわになってしまっている。

同僚が私に、自民党の広報部門に英語が話せて外国人ジャーナリストたちに情報提供する人間が一人もいないと言っても、私はもう笑えない。

今の首相が、世界中を飛び回っていると主張しているのに、(東京の)外国人記者クラブに来て私たちと話をする短い旅行さえ拒否している事実を聞いても、私はもう笑えない。

じっさい、政府が外国人記者だけでなく、自国の市民にもどれだけ秘密主義的になっているかということに、私は悲しみしか感じない。

過去5年間で、私は日本列島を行ったり来たりした。そして―東京とは違って―北海道から九州まで、私の書いたものが日本に敵対的だと非難する人には一人も出会わなかった。逆に、いたるところで面白い話や楽しい人々に恵まれた。

日本はやはり世界でもっとも豊かで、オープンな国家だ。外国特派員が楽しく住みながら報道できる場所だ。

私の希望は、外国人ジャーナリストたちが―そしてもっと重要なのは、日本の民衆が―自分の考えを話し続けられることだ。和(harmony)は、抑圧や無視からくるものではないと思う。

本当にオープンで健全な民主主義が、このすばらしい5年間、私の家となった日本にとって価値のある目標だと思う。


以上、日本語試訳おしまい。

小室淑恵「山積する社会問題をタダで解決する、たったひとつの方法」は素朴な啓蒙主義者の楽観に過ぎない件

こちらの日刊読むラジオの記事、小室淑恵「山積する社会問題をタダで解決する、たったひとつの方法」を、海部美知氏が「禿同」とリツイートしていたので読んでみた。

ひとことで言うと、考えが足りない。

日本社会が少子化、うつ病、ダイバーシティ(多様性)、介護問題、財政難などの山積する問題をタダで解決する、たったひとつの方法が「長時間労働をやめる」こと、というのが小室氏の結論だ。

小室氏の誤りは、まず論理階層の誤りだ。

長時間労働は、少子化、うつ病、ダイバーシティ等の問題の原因ではなく、それらの問題と同じ、単なる一つの問題にすぎない。

これらの問題のうち、長時間労働「だけ」をやめることはできない。これらの問題はすべてお互いがお互いの原因にもなり、結果にもなることで、いまの日本社会をかたち作っている。これらの事象の因果関係には、起点も終点もない。ヘビが自分の尾をかんでいるように、ぐるっと回っているだけだ。

僕らが問うべきなのは、なぜこれらの問題が解決されないままなのかというメタレベルの問題である。

その問題とは「合理主義の限界」とそれにともなう「社会の慣性」だ。

小室氏の議論は、日本社会を構成する全ての構成員、お年寄りから子供までが、全員十分に、少なくとも小室氏と同程度に、合理的に考えて判断する能力を持っていることを前提としなければ成り立たない。

しかし現実は残念ながら、人は物事をいちいち合理性によって判断するわけではない。

では何によって判断するか。「今までそうしていたから」というだけの理由だ。それが社会が必然的に持っている「慣性」である。

毎回合理的な意思決定をするためには、事前に十分な資源が必要だ。十分な時間、十分な情報、十分な知能、十分な体力等々の十分な資源がなければ、合理的な判断などできない。

というより、ふつうの人間はほとんどの場合、前例にならうことで意思決定に必要な資源を節約することの方を合理的と考えるので、結果として社会は「慣性」を持つ。

あなた自身、日々の生活の中で、自分自身の一挙手一投足について、いちいち「これが本当にもっとも合理的だろうか?」と考えなおすだろうか。

ふつうそんなことはしない。そんなことをしていると、日々の生活が前に進まないからだ。

まして日本社会全体が「長時間労働」という「慣性」をやめるなどということになると、日本社会を構成する全員を、ある意味一人ひとりの思想の自由に反して、強制的に「啓蒙」する必要がでてくる。

今までやっていたのと同じことを続けるのに特別な根拠付けはいらないが、変えることには特別な根拠付けだけではなく、実際に人々の行動を変えさせる「強制力」が必要になる。

いくら社会制度の設計を、一人ひとりが長時間労働を避けるようなインセンティブが生まれるようにしても、社会の構成員の側が、常に制度を設計した人と同程度に合理的な意思決定をする保証はない。

やっぱりここでも「啓蒙」の問題でつまずいてしまうのだ。そして小室氏はあまりに楽観的な啓蒙主義者だ。

「合理主義の限界」や「社会の慣性」が働いてしまうのは、人々の行動を変えさせるための啓蒙が、英米式のプラグマティズムの信奉者が思うほど簡単ではないからである。

啓蒙主義は、啓蒙する内容が合理的であれば、人々はおのずとその合理性に納得して啓蒙されるという、楽観的すぎる考えにもとづいている。合理的であれば人々を説得できるというのは、説得する側の単なる思い込みだ。

小室氏の議論の内容もたしかに合理的で、海部美知氏が「禿同(激しく同意)」するのも当然だし、僕自身も激しく同意する。

しかしそのことと、この議論で人々を「啓蒙」できるか、説得できるかということは全く別問題だ。人々は常に合理的に判断し、行動するわけではなく、ほとんどの場合慣性にしたがって行動するからである。

社会の慣性に抵抗して、常に合理的に判断し行動するというのは、じつは非常に禁欲主義的な生き方で、まさにマックス・ウェーバーが資本主義のエートスだと論じたプロテスタンティズムのような信仰と言ってもいい。そんな禁欲的な生き方を現代社会の構成員に期待するなど、楽観的すぎる。

人々がつねに慣性に反して合理的に行動するよう強制する、たったひとつの方法は「独裁」だ。

日本の社会制度を長時間労働をやめることが合理的になるように全面的に変更し、かつ、人々につねにそのように行動させるには、非合理的で慣性にもとづく判断と行動を、強制的にやめさせる必要がある。

ここに啓蒙の皮肉がある。啓蒙を実現するには、人々の自由を否定しなければならないという皮肉だ。

小室氏の主張には僕自身も激しく同意するが、本当にそれを社会に定着させようとすれば、100%民主的な方法では実現できない。

啓蒙とは、すでに「分かっている人」が、まだ「分かっていない人」の考えや行動を変えることを最終目標としている。

人々の考えだけでなく行動まで変えさせる啓蒙の最後の段階では、残念ながら民主的な方法は役に立たない。権力による強制が必要になる。例えば法律で禁止する、など。

だから僕はTEDのことを冷淡に見ている。

その理由は、TEDとは、すでに物事が「分かっている」エリートたちのガス抜きの場か、または、エリートによる強制力の行使によってのみ最善の社会を実現できると信じるエリートたちのサロンだと思うからだ。

その証拠に、小室氏の最後の呼びかけの何と無力なことか。

「ぜひ、皆さんも勿論実践して、そして周りの方にも広めていただきたいのです」
「ぜひ、皆さんの力をお貸しいただけたら、というふうに思います」

これでは単なるエリートのガス抜きだ。こんな強制力もなにもない呼びかけで、何十年も強力な「慣性」で動いてきた日本社会が変わるはずがない。

第二次大戦後、日本社会は米国による計算ずくの占領政策とプロパガンダという啓蒙のおかげで、やっとのことで軍国主義から中途半端な「民主主義」に変化した。小室氏が語っているような根本的な社会変革は、これと同程度の強制力が必要になる。

小室氏のスピーチは問題点を的確に指摘してはいるが、実現する段階で必要になる手段が実は強制力をともなう非合理性で理不尽なものにならざるを得ないという、啓蒙の皮肉まで考えが及んでいない。

小室氏の議論は、あまりに表面的で楽観的すぎる啓蒙主義だ。

非合理的な慣性にもとづいて日々動いている社会がそんなに簡単に変わるなら、誰も苦労はしない。

海部美知さんの思想は適切だが表現方法で失敗している件

たまたま海部美知さんのツイッターをフォローしている関係で、2ちゃんねるで炎上したらしい日経ビジネスオンラインの記事は既読だった。

『シリコンバレーに戻ってきた日本の企業たち 「ヨーロッパ並み」とはどういうことか』 (日経ビジネスオンライン)

なので途中、「(余談ながら、あの「おーいお茶」という男尊女卑的な響きのある商品名は何とかならないのか、と思うのだが…)」という部分も、個人的にはほくそ笑みながら読んだ。

ただ、これが2ちゃんねるの右寄りのみなさんにとって「カチン」と来る余計な傍白であることは、ちょっと考えれば分かることだが、海部美知さんご自身は「この点にこんなふうにムッとする人がいるとは思いもよらなかったので、勉強になりました。『あはは』で終わるかと思っておりましたので、確かに読者がどんな人であるかの自覚が足りませんでした」(筆者あての返信ツイート)とおっしゃっている。

海部美知さんはツイッターでもごくたまに、日本国内の政策や日本のテレビCMの女性差別的な側面に言及されるのだが、失礼ながらその指摘の仕方、表現方法が「古い」のだ。

何が「古い」のかと言えば、海部美知さんのフェミニズム言説の表現方法が啓蒙主義的すぎる点である。つまり、フェミニズムを理解している人々は無条件に、それを理解していない人々よりも優れているという「選良主義」がにじみ出てしまっているのだ。

でもそれは仕方ない。

海部美知さんはアメリカ西海岸在住でコンサルティングのお仕事をなさっているようなので、ただでさえ日本でガラパゴスな生活をしているコテコテの日本人を見下す「名誉白人」的な観点を、無意識のうちにとらざるをえない。

ちょうど外資系での勤務経験がある僕自身がそうであるように。

そこへフェミニズムが合わせ技で来るのだから、海部美知さんのフェミニズム言説の表現方法は、場合によっては日本人女性をも、彼女の主張に賛同できる女性とそうでない女性に分断する力を持っている。

差別に反対する言説が、かえって分断を産み出してしまうというのは、過去に反差別の左翼運動がイヤになるほど経験してきたことなのだが、海部美知さんはそのことに無自覚すぎる。

おそらく今後も海部美知さんは選良主義的な表現でフェミニズムを語り続け、反対意見の人々を納得させることに失敗し続けるだろう。

開沼博氏の、いかにも旧来の左翼運動的な知識人嫌悪

ニコニコニュースの記事にやや疑問があったので指摘しておく。
『福島に届かぬ”原発反対”の声 社会学者・開沼博さん<「どうする?原発」インタビュー第5回>』 (2012/08/21 14:45 ニコニコニュース)
社会学者の開沼博氏が、毎週金曜日に首相官邸前で行われている脱原発デモに、的外れな批判をしているのだ。

「私は、都会で行われる脱原発を唱える社会運動について『それ、福島に届いているとでも思っているんですか?』と常に問い続けてきました。」

まず脱原発デモは、ふつうに考えれば日本が原発に依存しなくてもいい社会の実現を訴えるのが第一の目的であって、別に福島県を含む原発のある地域に焦点をあてているわけではない。
なぜ開沼氏が、あらゆる脱原発デモは原発立地地域を第一に考えるものだ、ということを、暗黙の前提にしてしまっているのか、その理由が何も示されていない。
もちろん、脱原発を考えるとき、原発がなくなった後、原発立地地域の経済をどうするのかというのは当然ながら重要な問題である。
しかし、脱原発の意見も持つ人々が、「デモ」という行動を起こすのは、原発立地地域の経済振興を訴えるのが第一目的ではなく、まずその前提となる、国全体が脱原発へ向かうように訴えることが第一目的だ、と考えるのが自然だろう。
おそらく開沼氏は、福島でのフィールドワークに没入するあまり、逆に、都会の脱原発運動が何を第一目的に行われているか、誤った思い込みを持ってしまったのではないか。
脱原発デモは原発立地地域を軽視しているという誤った思い込みから、開沼氏は脱原発デモに手厳しい非難のことばを投げつけている。

「あなたは、震災後の日本社会をよくしたいのではなく、自分(たち)が認められたい・承認得たいがためにやっているんですか、と聞き返しちゃいますよ。」

ここで開沼氏は、脱原発デモの参加者は、単に自分が認められたいという自己承認欲求からデモに参加しているだけで、原発立地地域のことなど全く考えていないと主張している。これはあまりに偏った見方だろう。
開沼氏の脱原発デモ批判はさらに雄弁に展開され、脱原発デモが「旧来の社会運動」に変化しつつある兆しがあるという指摘にまでおよんでいる。

「現在の首相官邸前デモが、『必ず毎週金曜日に行う』という手法をとったことは、『これ、スケジュール闘争では?』と、興味深く思います。今までの社会運動とは違うんだといいながら、運動を続けようとすると、表面的な見た目は違っても、必然的に旧来型の運動に近づいていく側面は、他にも見えるように思っています。よしあしは別にして、この傾向がどうなっていくか興味深く見ています」

「よしあしは別にして」と価値中立を装っているが、これは有名な「東大話法」一種にすぎず、ここまでの開沼氏の言葉から、氏が脱原発デモを非難しているのは明白だ。
僕は、むしろ開沼氏のように、原発立地地域の住民は、抑圧された人々、それを無視して東京で脱原発デモに参加する人々は、単に自分を認めてもらいたいだけの有閑市民、とでも言いたい勢いで両者を分断する、この考え方こそ、いかにも「旧来の社会運動」的だと考える。
さらに、現状の脱原発デモは本来あるべき理想的なデモではないという、運動形態に関する理想主義も、やはり「旧来の社会運動」における左翼と新左翼の対立図式にそのまま当てはまる。
例えば次の一文を読むと、開沼氏が「旧来の社会運動」の対立図式を持ち出していることは明らかだ。

「そのような観点を、都会で社会運動を煽る『知識人』の多くが持つことはいつまでたってもできないでしょうね。他人事には興味ないでしょうから」

この典型的な知識人批判と、それに対比される、原発立地地元民擁護は、まさに、「旧来の社会運動」における知識人批判と軌を一にしている。
開沼氏は自分が批判している当の「旧来の社会運動」がもっていた、典型的な「知識人 vs 庶民」という対立構図を、そのまま自身の論に持ち込んでいるのだ。
そうやって知識人と庶民を意図的に分断して、それこそ原発立地地域に暮らす庶民の生活が救われるような方向に、世論を導けるとでも思っているのだろうか。
まさか文革時代の中国のように、知識人は庶民の生活を身をもって体験しろ、ということで、原発立地地域で生活すれば、知識人も改心するとでも考えているのだろうか。
ところでその改心とは、やはり原発は必要だという改心なのか、やはり脱原発だという改心なのか。開沼氏はどちらを望んでいるのか。
開沼氏の知識人憎悪とちょうど裏腹になっている、庶民に対するシンパシーは、次のような部分にもはっきりと現れている。

「関西で寝たきりの親の介護をしながら生活をしているという方から”介護の機器は電気がないと動かなくなる。自家発電とかバッテリーとかを準備するおカネもない。どこかにつれていくわけにもいかない。もし停電になったら、どうしよう、と。原発を止めよう、無くそうとするのに肯定的な話を見聞きするたびに本当に不安になった。でも、そういうことを外で言うわけにもいかなくて苦しい”という連絡も来ています。」

開沼氏の頭は、かなり時代遅れの左翼的な先入観で満たされているらしい。つまり「都会で社会運動を煽る『知識人』」は、こうした庶民の不安や苦しみを理解していない、という先入観だ。こうした知識人嫌悪は、旧来の左翼運動に典型的な考え方だ。
東大の社会学者は、旧来の左翼運動の「知識人vs庶民」という対立図式をかんたんに持ち出すようなことに、いつの間になってしまったのだろう。