カテゴリー別アーカイブ: アンチ勝間和代

勝間和代が公式ブログのコメント欄を閉じた件

勝間和代が公式ブログのコメント欄を閉じたようだ。BSジャパン『デキビジ』での自分の発言に対する、コメントによる非難轟々、つまり「炎上」にうんざりしたのだろう。
いちおう勝間和代は、公式ブログ上で謝罪してはいる。
「ひろゆきさんとの対談について、心から非礼をおわび申し上げます」
ただ、「インターネットの匿名性は悪意を増幅するだけ」という持論が実証できた!と、勝間和代はひそかに快哉を叫んでいるだろう。そして、インターネットの匿名性を規制するロビイング活動でも始めようとしているのではないか。
勝間和代の人間性が露呈し、多くの一般人の反感を買ってしまった今、彼女がマスメディアで活動するのは、もはや難しいだろう。

勝間和代とひろゆき氏のBSジャパン対談:勝間和代の救いようのなさ

勝間和代とひろゆき氏のBSジャパン『デキビジ』での対談の文字起こしを読んだ。
「デキビジ 勝間和代 VS ひろゆき を文字におこしてみる」
※ゲストに頭を下げさせる勝間和代の図。

※YouTube側が削除されたときのためにyoukuも埋め込んでおく。やはりどう読んでも、勝間和代の議論はおかしい。「議論」というものがなぜ成立するのか、その要件を理解していないからだ。
他者との議論が成立するのは、世の中に絶対的に正しい意見などなく、あらゆる意見に反論の可能性が開かれており、自分の意見も誤っている可能性がある、という大前提があるからだ。
しかし勝間和代は、対談の中で、それぞれの話題について、日本社会に関する自分の現状認識が無条件に正しいという前提で、ひろゆき氏との議論を始めている。
しかも、ひろゆき氏の異論を理解しようとせず、一方的にひろゆき氏を自分の意見に賛同させる努力しかしていない。これは「議論」ではなく「啓蒙」である。
勝間和代は、最初からひろゆき氏を「啓蒙」すべき人物、自分よりも下等な人間だと見なして対面しているようにしか読めない。
さらに、相手を見下して「啓蒙」しようとしているのは自分だけなのに、対談の最後で勝間和代は、ひろゆき氏も同じことをやっていると非難している。
勝間:「でもその(=ひろゆき氏の)質問の仕方が明らかに、『僕の言っていることは正しいけれども、あなたの言っていることは間違っている』みたいなこういう(ジェスチャーで上から下へ)ように聞こえるようなニュアンスの質問をお互いにしちゃってるんですよね。」
この勝間和代の指摘は完全な誤りだが、ひろゆき氏は、勝間和代にそう指摘されたことを甘受するだけの謙虚さを持っている。
ひろゆき氏:「お互いにしているってことは、じゃあ勝間さんも実は僕と同じタイプってことですか?」
勝間和代のスタイルは、持論を無条件に正しいとして示し、他者の感想だけ聞いて自己満足する「啓蒙」スタイルであり、対等な「議論」になっていない。
他者の異論を聞くことで、自分の意見が本当に正しいか検証し(=相対化し)、それによって初めて、自分の意見がより強固なものになる。これが本来的な「議論」のスタイルだ。(「弁証法的な」と言ってもいい)
勝間和代の救いようのなさは、彼女自身が自分の誤りに気付いていない点にある。きっと彼女は反論するだろう。「そんなことはない、私は他者の意見に謙虚に耳を傾けている」と。
しかし、文字起こしを読むと動かぬ証拠が見つかる。それは、勝間和代がひろゆき氏のような、彼女に根本的な異議を唱える人物に対して、過剰なまでに防衛的になっている事実だ。
どれくらい防衛的かというと、「防衛的なのはあなたの方だ」というふうに、自身の過剰防衛を、無意識のうちに相手に投影してしまうほどである。ここまで来ると、やや病的でさえある。
勝間:「何か言ったときに対して、すごくそのひろゆきさん防衛してそれに対して反撃する、しかもそれを見下すような反撃なんですよ。」
この部分までの議論を読むと、勝間和代が持論を防衛するために、ありとあらゆる手を使っていることがわかる。
例えば、ネット上の匿名性を論じているのに、突然、名刺の話を持ち出すなど、全く的はずれな例示をしたり、カタカナ専門用語を乱用したり、統計数字を引用したり、「写像」などの難解な用語をわざと使って相手を混乱させる等々、ひろゆき氏の異論から持論を守るのに、あらゆる手段を駆使している。
読んでいて、逆に勝間和代が痛々しく見えるほど、過剰な防衛ぶりだ。
ひろゆき氏の議論のスタイルは正反対で、あらゆる意見が相対的でしかないという、「議論」の本来的な前提を出発点にしている。
したがって、勝間和代のように過剰な防衛をする必要もなく、彼女の意見に対しても、そのつど楽々と反論の余地を指摘している。
ひろゆき氏は、勝間和代の持論の内容に反論しているというより、彼女の「啓蒙」スタイルに対して、それでは「議論」にならないからおかしい、と言っているのだ。
ところが勝間和代は、最初から最後まで、持論の内容に反論されていると勘違いしている。彼女が終始いら立っているようなのは、この勘違いのせいだ。そして彼女自身、この勘違いに気付いていない。
もちろん勝間和代が、持論を絶対に正しいと主張するのは自由だ。そして、いわゆるカツマーたちが、勝間和代を無条件に正しいと崇拝するのも自由だ。
ただ、そういった「カツマー・コミュニティー」内部では、勝間和代は持論の正しさを検証する「議論」のチャンスをみすみす逃しており、ただ「啓蒙」しかできない。
勝間和代はおそらく「啓蒙」スタイルの対話に、無意識のうちに慣れてしまっている。なので、勝間和代に根本的な反論ができる知的水準の高い人間(ひろゆき氏や香山リカなど)とは、対等な「議論」ができない。
勝間和代は、せいぜい、あまり知的水準の高くない、あるいは、知的水準の高くない演技ができるタレントたちを相手に、倹約生活の指南をする程度がよいのではないか。

勝間和代『つながる力』の根本的な間違いが10分でわかる本

勝間和代の『つながる力』は、やはりツイッターの本質を全く説明できていないことがわかった。勝間和代は分析力に優れた批評家ではなく、単なる扇動者だ。

今日、仕事帰りに書店で神田敏晶著『Twitter革命』(ソフトバンク新書)を立ち読みしたら、10分でツイッターの本質が理解できた。
ツイッターの本質は、個々のツイッター利用者のタイムライン(いろいろな人のつぶやきの一覧)が、全く違うことにあるのだ。
これは、ちょっと考えれば当たり前のことだ。
タイムラインの内容は、自分が誰のつぶやきをフォローするかで決まる。誰のつぶやきをフォローしたいかは、純粋に個人の好みなので、人によって異なる。その結果、個々のツイッター利用者のタイムラインは、全く違う内容になる。
つまり、ツイッターの本質は、勝間和代の言うような、人と人とをつなげる力ではなく、自分の欲しい情報(=他人のつぶやき)を、完全に自分の好きなようにアレンジできる点にあるのだ。
ツイッターは人と人とをつなげる道具ではなく、自分の欲しい情報「だけ」を効率的に選別・収集する道具なのである。
その意味で、ツイッターはRSSリーダーの延長線上で考えた方が良い。
RSSリーダーは、ウェブ上にあるブログやニュースサイトなどの無数の情報から、自分の欲しい情報だけを選別して、それらの抜粋を一つの画面にまとめる道具だ。
ツイッターは、集める対象となる情報が他のツイッター利用者(ボット含む)の「つぶやき」に限定されてしまう点で、RSSリーダーより劣る。
しかし、集めた情報に対して、こちらから返信(リプライ)や転送(リツイート)などの能動的な働きかけができる点で、RSSリーダーよりコミュニケーションの道具として優れている。
ここまで来て初めて、ツイッターという道具に、人と人とをつなげる可能性(ただし単なる可能性であって本質ではない)が生じる。
RSSリーダーに、電子メールの返信・転送の考え方を組み込み、かつ、文字数を制限することで、取っ付きやすくした、というのがツイッターということだ。
いずれにせよ、ツイッターがブログやSNSなどの、他のウェブ上の各種サービスと本質的に異なるのは、自分の欲しい情報だけを収集できる点、つまり、無数の「つぶやき」の中から、見たい情報だけを見、見たくない情報を無視できる点にある。
勝間和代の「人と人とをつなげる媒体」というツイッター観が、全く的外れだということが、10分の立ち読みだけで分かってしまった。やはり勝間和代は、的確な分析力をもつ理論家ではなく、単なるアジテーターでしかないのだ。
※勝間和代の『つながる力』批判は以下のページもご覧下さい。
勝間和代・広瀬香美『つながる力 ツイッターは「つながり」の何を変えるの?』の名誉白人感覚
勝間和代『つながる力』のウソ(1):ツイッターは「壁を作る」
勝間和代『つながる力』のウソ(2):ツイッターのリアルタイム性は単なる錯覚
勝間和代『つながる力』のウソ(3):ハッシュタグの日本的解釈

勝間和代『つながる力』のウソ(3):ハッシュタグの日本的解釈

勝間和代と広瀬香美のツイッター解説書『つながる力』のウソと言うより、取りこぼしている重要な論点の3つめが、ハッシュタグである。
『つながる力』での勝間和代の主張に反し、ツイッターはユーザ数が増えれば増えるほど、趣味や意見を同じくする人々の「小宇宙」に細分化され、つながりが分断されていく。
それは、ひとりの人間がフォローできるユーザ数には限界があるからだ。要は、勝間和代は自由業だから自分の時間を好きに使え、フォローするユーザ数を増やせるのかもしれないが、会社員(特に男性)や主婦はそれほどヒマ人ではない。
ただし、ツイッターがこのように壁を作りやすいメディアである点を、暴力的にブチ破る方法がある。それがハッシュタグだ。
勝間和代の本では、ハッシュタグはツイッター社自体のヘルプ文書どおり、各自のつぶやきをゆるく分類するためのもの、くらいにしか紹介されていない。
しかし、少なくとも日本人のツイッター利用者には、ハッシュタグを、ツイッター上の掲示板と、勝手に解釈している人が相当数存在する。
僕はツイッター上で、実験のためにあえて偽悪的に振る舞っているが、ハッシュタグをわざと「濫用」すると、多くの場合、そのハッシュタグを使っているユーザが文句をつぶやく。「ハッシュタグを荒らすな」という主旨の文句だ。
逆に言えば、「ハッシュタグを荒らすな」という文句が出てくることは、日本人のツイッター利用者の多くが、ハッシュタグを、2ちゃんねるのスレッドや、ミクシィのトピックと同じような、掲示板を作る手段と解釈していることを意味する。
その解釈を逆手にとれば、ツイッターが作りやすい「壁」を暴力的に破ることができる。つまり、ハッシュタグを意図的に濫用すればいいわけだ。
勝間和代の言う「つながる力」が、異質な人どうしもつなげる力を意味するなら、ハッシュタグの濫用は歓迎すべきだろう。
ところが僕の実験によれば、実際の日本人ツイッター利用者は、ハッシュタグを「荒らされる」ことを嫌っている。つまり、異質な人と「つながる」ことを拒否している。
僕は「#katsuma」というハッシュタグも、何度か意図的に濫用しているが、おそらくカツマーの皆さんは不愉快に思っているに違いない。それはアンチ・カツマーとはつながりたくないという意思のあらわれに他ならない。
結果、勝間和代の意に反して、ツイッターは、少なくとも日本人利用者の間では、「つながる力」どころか、ハッシュタグを掲示板と解釈することで、「壁を作る」ツールとして活用されているのが現実だろう。
勝間和代・広瀬香美『つながる力』については、これくらい批判しておけば十分だろうか。
(もどる)
※勝間和代の『つながる力』批判のつづきはこちら。
「勝間和代『つながる力』の根本的な間違いが10分でわかる本」

勝間和代『つながる力』のウソ(2):ツイッターのリアルタイム性は単なる錯覚

勝間和代と広瀬香美のツイッター解説書『つながる力』のウソの2点目は、ツイッターのリアルタイム性が、単なる錯覚であるということ。
これは簡単な理屈なので、短く済ませる。
ツイッター上で自分がフォローするユーザ数をどんどん増やしていけば、自分自身のタイムラインの流れる速度も、比例して上がっていく。
すると、あたかもツイッターという仕組みそのものが、世界で起こっている事象をリアルタイムに伝えているかのような錯覚に陥る。
これを検証するのも簡単だ。自分がフォローするユーザ数を、たとえば1人だけに減らしてみればよい。
そうすれば、自分がつぶやかない限り、タイムラインはほとんど流れなくなり、とてもリアルタイム性など体感できない。
つまり、ツイッターは本質的にリアルタイム性を属性として持っているのではなく、単にフォローするユーザ数を増やすことで、リアルタイム性を体感できるようになるだけのことだ。
勝間和代がツイッターを「リアルタイムに流れている」と感じているのは、彼女がフォローしているユーザ数が異様に多いので、そう錯覚しているに過ぎない。
自分の錯覚を、あたかもツイッターの本質であるかのように書かないで頂きたいものだ。
(もどる)
(つづく)