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残念なことになっていた小説版『輪るピングドラム(上)』

アニメ『輪るピングドラム』小説版の「上」の古書を、アマゾンで購入して読み始めてみたが、村上春樹『1Q84』を読んだ直後ということもあり、恐れていた通りかなりがっかりさせられた。

アマゾンの商品説明には「原作小説」とあるが、アニメの放送開始に先立つこと、ほんの数日前の発売であり、アニメの脚本より小説が本当に先に書かれたとは考えづらい。
上巻の4分の1ほどを読んで分かったのは、これは小説ではなくアニメ脚本の下書きである、ということだ。
アニメ版『輪るピングドラム』はご覧になった方はお分かりのように、幾原邦彦の原作らしい前衛的で抽象的な表現が散りばめられた作品だ。
例えば有名な「生存戦略!」のシーケンス。主人公の少女・陽毬がペンギンの帽子をかぶって「生存戦略!」と叫ぶと、アニメの上では現実の世界が一瞬にして隠喩的な異空間に切りかわる、という演出になっている。
これを小説で書く場合、本来なら文体がガラッと変わるはずだ。
小説版『輪るピングドラム』は、ほぼ一貫して登場人物のうち高倉晶馬を語り手として書かれている。そのため「生存戦略!」の異空間も、晶馬の目線で、突然の出来事にあわてふためくというように書かれている。
しかし、その文体は、晶馬があわてふためく様子を客観的に書いている。
小説を読む場合、「本当は誰が語っているか」ということが極めて重要になる。
小説版『輪るピングドラム』は普通に読めば晶馬が語っているということになる。いや、実際には語り手は一定せず、荻野目苹果という少女が主役になる章では、彼女が語り手に切り替わってしまう。
語り手がかんたんに入れ替わるということは、逆に言えばその背後に、高倉晶馬でも荻野目苹果でもなく、すべての登場人物を超越した第三者が、ときには晶馬、ときには苹果のふりをして語っている、ということになる。
よほど前衛的な小説でない限り、ふつうの小説はこうした超越的な第三者が語り手になっている。
村上春樹の『1Q84』も、マジック・リアリズム的な道具立てにもかかわらず、やはり超越的な第三者がときには天吾となり、ときには青豆となり、ときには天河となって語っている。
BOOK 3の天吾と青豆と天河がニアミスする部分だけは、例外的に超越的な第三者が前面に出てきてしまっており、やや奇異な感じを与えるけれども。
一方『輪るピングドラム』の「生存戦略」の場面は、アニメでは日常の世界とまったく異なる空間として表現されている。
このような空間を、日常の世界を語るときと同じ文体で語るのは、小説としての「演出」上、明らかにおかしい。小説で「演出」に区別をつけようと思えば、利用できる手段は文体しかないからだ。
『1Q84』の分かりやすい例で言えば、フカエリの話す言葉だけが、漢字を使わずにひらがなとカタカナだけ、かつ、不自然に短いセンテンスで書かれている。
このように、小説が使う言葉には、れっきとした「物質性」がある。言葉は何らかの意味をつたえるための道具ではない。言葉そのものが「モノ」としての存在感をもつ。
たとえて言えば、マンガの中で登場人物の叫び声が、ときどき文字のかたちをした岩になって、別の登場人物の頭に大きなたんこぶを作るように、言葉は意味とは独立した「モノ」としてのかたちや重量がある。
「生存戦略」の場面も、小説という表現手法を取るかぎりは、それ以外の日常生活(その日常さえ実際には日常ではないのだが)を書いている部分と、本のページを開いたとき、物理的に違っている必要がある。
まず晶馬視点で語るのは明らかに不適切だ。その上で、例えば、ゴシック体にする、改行をしない、逆に、韻文のように頻繁に改行する、句読点を使わない、雅語を多用する、などなど、使える方法はいくらでもあるはずだ。

つまり小説を書くなら、文体に意識的でなければならない。ことばの物質性に意識的でなければならない。
ここでいう「文体」には、改行や句読点の利用頻度、漢字の利用頻度、ひらがなかカタカナか、「です・ます」体か「だ・である」体か、古語が現代語か、主観的感情表現を含めるか客観的描写を徹底するかなどなど、さまざまな表現のバリエーションが含まれる。
アニメや映画などの映像作品にも「文体」はある。
例えばカラーかモノクロか、画面の粒度の粗密、彩度や明度の調整、カットが長いか短いか、写実的か漫画的か、無音か劇伴がつくかなどなど、無数のバリエーションがある。
小説版『輪るピングドラム』には、アニメ版で見られるような表現の前衛性に見合うような「文体」の幅がまったく存在しない。
すべてが同じ文体で、しかもライトノベル的なカジュアル過ぎる文体で書かれており、アニメ版の前衛性を目にした後で小説版を読むと、完全に気持ちが萎えてしまう。
そういうわけで、小説版『輪るピングドラム(上)』はとても残念なことになっていた、という報告だった。もちろん小説版の続きを読む気は完全に失せた。未見の方にはブルーレイでアニメ版の視聴をおすすめする。

アニメを見下す大人は鑑賞能力がないだけ

アニメについてブログを書こうとすると、前提となる説明が長くなるが、あえて書いてみる。
先日、録画してあった『スマイルプリキュア』を初めて見た。本当は第1話から観たかったのだが、予約録画を忘れていたためにようやく観ることができたのだ。
アニメに関心のない読者の方々は、ここまでで頭の中が疑問符だらけに違いない。
『プリキュア』というのは日曜日の朝に放送されている女児向けTVアニメシリーズで毎年新シリーズが1年間の放送予定で開始される。詳細はウィキペディアの「プリキュアシリーズ」をご覧いただきたい。
いずれにせよ、40代で子供のいない僕のような既婚男性が観る番組ではない。では僕が登場人物の中学2年生という設定の少女たちに「萌え」ているのかと言えば、そうではない。
録画を観た理由は、今年の『スマイルプリキュア』シリーズの主人公を福圓美里(ふくえん・みさと)という声優が担当しているからだ。福圓美里という声優を知っている人はほぼ皆無だろうが、彼女は水樹奈々という声優と関係が深い。
水樹奈々は声優出身の歌手として初めて、NHK紅白歌合戦に2009年から3年連続出場を果たし、いま活躍している声優の中では歴史的な人気をほこっている。2011年末は東京ドームを2日連続で満員にしている。それでも一般的な知名度は極めて低い。
水樹奈々はブレイクする以前から、文化放送で週一回のレギュラー番組『水樹奈々のスマイルギャング』を持っている。2002年4月放送開始で、もう10年になるラジオ番組だ。この番組で初回から水樹奈々のアシスタントを務めているのが、福圓美里である。
『プリキュア』シリーズのアフレコを担当するのは、『ドラえもん』ほどではないにしても、声優としては一種のステイタスであり、大きなキャリアになる。深夜時間帯に放送されている多くのアニメ作品が、3か月か、長くても半年で終わるのに対して、『プリキュア』は1シリーズ1年間の長期レギュラーだ。
水樹奈々もプリキュアシリーズを担当したことはあるが、福圓美里にとって今回の『スマイルプリキュア』は初めての長期間レギュラー、しかも主役担当ということで、彼女にとって人生のメルクマールといえる大事件なのだ。
最近ではあるが水樹奈々のファンになった僕として、売れない時代から『スマイルギャング』を2人3脚で続けてきた福圓美里が、TVアニメの大型作品で初の主役とあっては、観ないわけにはいかない。
そういうわけで録画してあった『スマイルプリキュア』を観た。なお『スマイルギャング』と『スマイルプリキュア』はどちらも「スマイル」で始まるが、これは偶然の一致だ。
2012/02/26放送分の一回を観ただけだが、昨年放送の『スイートプリキュア』とかなり作風が異なる。日曜日の朝は、スポーツ全般に関心のない僕にとって、『サンデーモーニング』のスポーツコーナーの時間帯に、他の局をザッピングしていると、イヤでも『プリキュア』シリーズが目に入ってしまう。
昨年の『スイートプリキュア』が思わず目に入ってしまったのは、まず、音楽を主題とするシリーズであったことと、女児向けのアニメであるにもかかわらず、ストーリーが意外に哲学的だったからだ。
例えば、極度の人見知りで友人となかなか親しくなれないキャラクター(キュアビート)を登場させることで、子供たちの決して単純ではない人間関係をきっちり描いている点。
また、敵であるはずのノイズが、自分自身の絶望が悪としての役割の自己正当化になっていることに気づくことで、最終的には日常の世界で「元」プリキュアたちと平凡な日常生活を送るようになるという、弁証法的な物語の展開など。(悪が対自によって止揚されたと読める)
女児向けアニメとはいえ、ウルトラマンや仮面ライダーといった男児向けの特撮ものと同じように、当然のことながら制作者側はすべて大人で、その時代の社会問題が作品に色濃く反映する。
今年の『スマイルプリキュア』は昨年の東日本大震災を受けて、「絆」がテーマの一つになっているらしい。
作品中に登場する「バンドエンド王国」が、人間の持つ否定的な価値の具現化になっている。例えばその王国の住人であるアカオーニ(=赤鬼)は、人と人の絆などいつかは壊れてしまうという考えからプリキュアたちと対決する。
僕が面白いと思ったのは、プリキュアの敵たちにも「バッドエンド王国」という共同体の中での生活があり、絆を否定しつつも、否定的価値観の共有することで一つの共同体を形成している点だ。アカオーニというキャラクターが自分で「鬼のパンツ」を洗濯する場面も登場する。
否定的な価値観を持つ人々にも、彼らなりの日常生活があり、彼らなりの共同体がある。『スマイルプリキュア』はそれを否定していない。
しかも悪者たちと正義の味方であるプリキュアたちの間には、敵対関係や戦闘だけでなく、不思議なことにふつうの対話も成立している。(キュアピースとじゃんけんをして負けて悔しがる等)
すると大人としては、一体なぜ主人公の星空みゆき(変身後はキュアハッピー。声は上述のように福圓美里)が全部で5人いるプリキュアを一人ずつスカウトし、悪者たちと戦う必要があるのか、疑問に感じてしまう。
プリキュアシリーズは、善悪の対立そのものが、絶対的な善と絶対的な悪の対立ではなく、特定の観点に立ったときにしか成立しない相対的な状況であることを、作品の中でバラしてしまっている。
これはプリキュアシリーズが初めて行ったことではなく、ウルトラマンの時代から子供向け特撮ものやアニメの主題になっている。
ウルトラマンや仮面ライダー、プリキュアが子供向けであり、大人には無関係だという考え方は、一見、いかにも大人らしく分別のある考え方のようだが、単にそれらの番組を見ていた子供の頃の自分が、制作者側の大人としての制作意図を理解していなかったからに過ぎない。
子供向けアニメや特撮ものをバカにしている人たちは、制作者である大人たちが込めた大人の思想や視点を見逃しているか、頭脳が子供のころから全く成長していないか、のどちらかである。
もちろん子供向けアニメの楽しみ方は、そうした物語に込められた思想だけではない。純粋に「動く絵」として観たときの演出技法を堪能する楽しみ方もある。
『スマイルプリキュア』が昨年の『スイートプリキュア』と大きく異なるのは、作品の演出全体がとにかく明るく躍動的である点だ。
そのため、特に戦闘シーンでの「止め絵」(=歌舞伎における「みえ」に該当するカット)は、ハイビジョンの16:9の画面をいっぱいに使い、超広角レンズを使ったようにパースが極端に強調された、迫力のある絵になっている。とても中学2年生の少女とは思えない力強さだ。
東映アニメだからかもしれないが、逆に戦闘シーンなどでの「動画」に特筆すべきものはない。
例えば昨年の『スイートプリキュア』もそうだが、エンディングはプリキュアたちが曲に合わせて軽快にダンスを踊る動画になっている。ところがこれが3DのCG制作で、あまりに動きがぬるぬるとなめらか過ぎて、見ていてやや気味が悪い。
エンディングは1年間使うのだから、京都アニメーションという『けいおん!』などで有名なアニメーション制作会社のように、なぜ時間をかけてでも手書きの動画にしなかったのかと思う。
いずれにせよ、子供向けのアニメは、大人たちが作ったものであり、僕のように黄金時代のハリウッドの名画や、フランスの批判的な映画、小津安二郎や溝口健二などの日本の名画を大量に観ている大人にとって、じゅうぶん鑑賞に耐える作品であることに間違いはない。
アニメを観ても子供っぽくて何が面白いのか分からないという大人たちは、単にアニメを批判的に鑑賞する能力がないだけである。

深夜時間帯アニメ作品の多様性

TVアニメ『侵略!?イカ娘』のオリジナル・サウンドトラック2のジャケットが面白い理由が分からない人がいるといけないので、比較画像をアップしておく。
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要は1990年代にカリスマ的な人気を誇ったロックグループ、ニルヴァーナの大ヒットアルバムのジャケットのパロディでした、というわけだ。
ところで『侵略イカ娘』というTVアニメだが、単なる「スクール水着少女萌え」作品だと完全無視していたが、実際見てみると意外に良かった。
24分間に3つのエピソードからなるという、番組フォーマットとしては『サザエさん』と同じで、脚本の内容も実は『サザエさん』なみに平凡な笑いに満ちている。
深夜時間帯に放送されているアニメを、生まれて初めて、ここ半年くらい集中して見ているが、ほとんどの作品には男性視聴者をひきつけるための「釣り」要素として、エッチな場面が散りばめられている。女性の水着姿や入浴シーン、なぜか途中で半裸になる変身シーンなどだ。
『イカ娘』もオープニングに、主人公のイカ娘の水着シーンはあるが、本編で「釣り」としてのエッチな場面が出てくることはほとんどない。
『イカ娘』の物語はよくある貴種流離譚のコメディ版だ。異界人が突然、人間のごく普通の日常生活に放り込まれ、あたふたしながら人間たちとの親交を深めていくという、心温まるな物語である。
当然、深夜時間帯のアニメということで、オタク向けの設定や引用は随所に散りばめられている。例えばイカ娘に「百合萌え」している女子の登場人物など。
それらをはぎ取ると、NHK教育テレビ(ETV)で放送してもいいのではないか、というくらい、『イカ娘』はほのぼのしたエピソードばかりだ。
些細なことからいがみ合ってしまった友だちどうしが、実はお互いのことを大事に思っていることに気づく、とか、平凡な日常の風景に自然の美しさや小さな冒険を見つける幸福とか、意外に普遍的なテーマが『イカ娘』のエピソードの背骨になっている。
もちろんイカ娘という可愛らしいキャラクター設定の妙もあるが、この作品の本質は何よりも脚本の良さにある。40男が不覚にも泣いてしまうエピソードもある。
「スクール水着少女萌え」という外見のせいで、この『侵略イカ娘』という作品が、深夜時間帯アニメファンのものだけになっているのは、かなり惜しい気がする。
ところで、深夜時間帯アニメのファンにとって、この種の「癒し系」作品が必須であるということは、他の深夜時間帯アニメを見ると分かる。
戦闘シーンで大量の血が噴き出すような「グロ」作品や、他人を身体的・心理的に虐待することを好むキャラクター、神経症のキャラクターなどが登場する「メンタル系」物語など、とにかく「精神衛生上悪い」作品が多い。
最近ではアニメ版『ブラックロックシューター』や、『未来日記』。その他『魔法少女まどかマギカ』や『輪るピングドラム』も後半になるほど神経症的な物語になった。
そういうものばかり見ていると『日常』や『イカ娘』、『けいおん!』『らきすた』『キルミーベイベー』といった「癒し系」アニメ作品を見ずにはいられなくなるのだ。
癒し系作品とは別に、『TIGER&BUNNY』や『輪廻のラグランジェ』など、友情というテーマを軸に視聴者を引きこむ「元気系」アニメ作品もある。その他、ほぼ純然たる「エロ」アニメもある。
今の日本のアニメは、そうした多様な性格をもつアニメ作品群がお互いを補完する一つの大きな体系を形成することで成り立っている。海外での日本のアニメ作品受容も、個別作品というよりは、その体系全体が受容されていると思われる。
ところが、深夜時間帯のアニメを見たことがない人は、一部の「エロ系」作品のせいで先入観をもち、多様なアニメ作品の全体を否定し、最初から見ようとしない。それが個人的には非常にもったいないなぁと思う。
少しでも興味を持たれた方は、バンダイチャンネルで、月額1,000円でほとんどの作品が見放題になっているし、第1話限定で無料という作品も多数あるので、ご覧になってはいかがだろうか。
『侵略!?イカ娘』第1話(視聴無料)