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残念なことになっていた小説版『輪るピングドラム(上)』

アニメ『輪るピングドラム』小説版の「上」の古書を、アマゾンで購入して読み始めてみたが、村上春樹『1Q84』を読んだ直後ということもあり、恐れていた通りかなりがっかりさせられた。

アマゾンの商品説明には「原作小説」とあるが、アニメの放送開始に先立つこと、ほんの数日前の発売であり、アニメの脚本より小説が本当に先に書かれたとは考えづらい。
上巻の4分の1ほどを読んで分かったのは、これは小説ではなくアニメ脚本の下書きである、ということだ。
アニメ版『輪るピングドラム』はご覧になった方はお分かりのように、幾原邦彦の原作らしい前衛的で抽象的な表現が散りばめられた作品だ。
例えば有名な「生存戦略!」のシーケンス。主人公の少女・陽毬がペンギンの帽子をかぶって「生存戦略!」と叫ぶと、アニメの上では現実の世界が一瞬にして隠喩的な異空間に切りかわる、という演出になっている。
これを小説で書く場合、本来なら文体がガラッと変わるはずだ。
小説版『輪るピングドラム』は、ほぼ一貫して登場人物のうち高倉晶馬を語り手として書かれている。そのため「生存戦略!」の異空間も、晶馬の目線で、突然の出来事にあわてふためくというように書かれている。
しかし、その文体は、晶馬があわてふためく様子を客観的に書いている。
小説を読む場合、「本当は誰が語っているか」ということが極めて重要になる。
小説版『輪るピングドラム』は普通に読めば晶馬が語っているということになる。いや、実際には語り手は一定せず、荻野目苹果という少女が主役になる章では、彼女が語り手に切り替わってしまう。
語り手がかんたんに入れ替わるということは、逆に言えばその背後に、高倉晶馬でも荻野目苹果でもなく、すべての登場人物を超越した第三者が、ときには晶馬、ときには苹果のふりをして語っている、ということになる。
よほど前衛的な小説でない限り、ふつうの小説はこうした超越的な第三者が語り手になっている。
村上春樹の『1Q84』も、マジック・リアリズム的な道具立てにもかかわらず、やはり超越的な第三者がときには天吾となり、ときには青豆となり、ときには天河となって語っている。
BOOK 3の天吾と青豆と天河がニアミスする部分だけは、例外的に超越的な第三者が前面に出てきてしまっており、やや奇異な感じを与えるけれども。
一方『輪るピングドラム』の「生存戦略」の場面は、アニメでは日常の世界とまったく異なる空間として表現されている。
このような空間を、日常の世界を語るときと同じ文体で語るのは、小説としての「演出」上、明らかにおかしい。小説で「演出」に区別をつけようと思えば、利用できる手段は文体しかないからだ。
『1Q84』の分かりやすい例で言えば、フカエリの話す言葉だけが、漢字を使わずにひらがなとカタカナだけ、かつ、不自然に短いセンテンスで書かれている。
このように、小説が使う言葉には、れっきとした「物質性」がある。言葉は何らかの意味をつたえるための道具ではない。言葉そのものが「モノ」としての存在感をもつ。
たとえて言えば、マンガの中で登場人物の叫び声が、ときどき文字のかたちをした岩になって、別の登場人物の頭に大きなたんこぶを作るように、言葉は意味とは独立した「モノ」としてのかたちや重量がある。
「生存戦略」の場面も、小説という表現手法を取るかぎりは、それ以外の日常生活(その日常さえ実際には日常ではないのだが)を書いている部分と、本のページを開いたとき、物理的に違っている必要がある。
まず晶馬視点で語るのは明らかに不適切だ。その上で、例えば、ゴシック体にする、改行をしない、逆に、韻文のように頻繁に改行する、句読点を使わない、雅語を多用する、などなど、使える方法はいくらでもあるはずだ。

つまり小説を書くなら、文体に意識的でなければならない。ことばの物質性に意識的でなければならない。
ここでいう「文体」には、改行や句読点の利用頻度、漢字の利用頻度、ひらがなかカタカナか、「です・ます」体か「だ・である」体か、古語が現代語か、主観的感情表現を含めるか客観的描写を徹底するかなどなど、さまざまな表現のバリエーションが含まれる。
アニメや映画などの映像作品にも「文体」はある。
例えばカラーかモノクロか、画面の粒度の粗密、彩度や明度の調整、カットが長いか短いか、写実的か漫画的か、無音か劇伴がつくかなどなど、無数のバリエーションがある。
小説版『輪るピングドラム』には、アニメ版で見られるような表現の前衛性に見合うような「文体」の幅がまったく存在しない。
すべてが同じ文体で、しかもライトノベル的なカジュアル過ぎる文体で書かれており、アニメ版の前衛性を目にした後で小説版を読むと、完全に気持ちが萎えてしまう。
そういうわけで、小説版『輪るピングドラム(上)』はとても残念なことになっていた、という報告だった。もちろん小説版の続きを読む気は完全に失せた。未見の方にはブルーレイでアニメ版の視聴をおすすめする。

アニメを見下す大人は鑑賞能力がないだけ

アニメについてブログを書こうとすると、前提となる説明が長くなるが、あえて書いてみる。
先日、録画してあった『スマイルプリキュア』を初めて見た。本当は第1話から観たかったのだが、予約録画を忘れていたためにようやく観ることができたのだ。
アニメに関心のない読者の方々は、ここまでで頭の中が疑問符だらけに違いない。
『プリキュア』というのは日曜日の朝に放送されている女児向けTVアニメシリーズで毎年新シリーズが1年間の放送予定で開始される。詳細はウィキペディアの「プリキュアシリーズ」をご覧いただきたい。
いずれにせよ、40代で子供のいない僕のような既婚男性が観る番組ではない。では僕が登場人物の中学2年生という設定の少女たちに「萌え」ているのかと言えば、そうではない。
録画を観た理由は、今年の『スマイルプリキュア』シリーズの主人公を福圓美里(ふくえん・みさと)という声優が担当しているからだ。福圓美里という声優を知っている人はほぼ皆無だろうが、彼女は水樹奈々という声優と関係が深い。
水樹奈々は声優出身の歌手として初めて、NHK紅白歌合戦に2009年から3年連続出場を果たし、いま活躍している声優の中では歴史的な人気をほこっている。2011年末は東京ドームを2日連続で満員にしている。それでも一般的な知名度は極めて低い。
水樹奈々はブレイクする以前から、文化放送で週一回のレギュラー番組『水樹奈々のスマイルギャング』を持っている。2002年4月放送開始で、もう10年になるラジオ番組だ。この番組で初回から水樹奈々のアシスタントを務めているのが、福圓美里である。
『プリキュア』シリーズのアフレコを担当するのは、『ドラえもん』ほどではないにしても、声優としては一種のステイタスであり、大きなキャリアになる。深夜時間帯に放送されている多くのアニメ作品が、3か月か、長くても半年で終わるのに対して、『プリキュア』は1シリーズ1年間の長期レギュラーだ。
水樹奈々もプリキュアシリーズを担当したことはあるが、福圓美里にとって今回の『スマイルプリキュア』は初めての長期間レギュラー、しかも主役担当ということで、彼女にとって人生のメルクマールといえる大事件なのだ。
最近ではあるが水樹奈々のファンになった僕として、売れない時代から『スマイルギャング』を2人3脚で続けてきた福圓美里が、TVアニメの大型作品で初の主役とあっては、観ないわけにはいかない。
そういうわけで録画してあった『スマイルプリキュア』を観た。なお『スマイルギャング』と『スマイルプリキュア』はどちらも「スマイル」で始まるが、これは偶然の一致だ。
2012/02/26放送分の一回を観ただけだが、昨年放送の『スイートプリキュア』とかなり作風が異なる。日曜日の朝は、スポーツ全般に関心のない僕にとって、『サンデーモーニング』のスポーツコーナーの時間帯に、他の局をザッピングしていると、イヤでも『プリキュア』シリーズが目に入ってしまう。
昨年の『スイートプリキュア』が思わず目に入ってしまったのは、まず、音楽を主題とするシリーズであったことと、女児向けのアニメであるにもかかわらず、ストーリーが意外に哲学的だったからだ。
例えば、極度の人見知りで友人となかなか親しくなれないキャラクター(キュアビート)を登場させることで、子供たちの決して単純ではない人間関係をきっちり描いている点。
また、敵であるはずのノイズが、自分自身の絶望が悪としての役割の自己正当化になっていることに気づくことで、最終的には日常の世界で「元」プリキュアたちと平凡な日常生活を送るようになるという、弁証法的な物語の展開など。(悪が対自によって止揚されたと読める)
女児向けアニメとはいえ、ウルトラマンや仮面ライダーといった男児向けの特撮ものと同じように、当然のことながら制作者側はすべて大人で、その時代の社会問題が作品に色濃く反映する。
今年の『スマイルプリキュア』は昨年の東日本大震災を受けて、「絆」がテーマの一つになっているらしい。
作品中に登場する「バンドエンド王国」が、人間の持つ否定的な価値の具現化になっている。例えばその王国の住人であるアカオーニ(=赤鬼)は、人と人の絆などいつかは壊れてしまうという考えからプリキュアたちと対決する。
僕が面白いと思ったのは、プリキュアの敵たちにも「バッドエンド王国」という共同体の中での生活があり、絆を否定しつつも、否定的価値観の共有することで一つの共同体を形成している点だ。アカオーニというキャラクターが自分で「鬼のパンツ」を洗濯する場面も登場する。
否定的な価値観を持つ人々にも、彼らなりの日常生活があり、彼らなりの共同体がある。『スマイルプリキュア』はそれを否定していない。
しかも悪者たちと正義の味方であるプリキュアたちの間には、敵対関係や戦闘だけでなく、不思議なことにふつうの対話も成立している。(キュアピースとじゃんけんをして負けて悔しがる等)
すると大人としては、一体なぜ主人公の星空みゆき(変身後はキュアハッピー。声は上述のように福圓美里)が全部で5人いるプリキュアを一人ずつスカウトし、悪者たちと戦う必要があるのか、疑問に感じてしまう。
プリキュアシリーズは、善悪の対立そのものが、絶対的な善と絶対的な悪の対立ではなく、特定の観点に立ったときにしか成立しない相対的な状況であることを、作品の中でバラしてしまっている。
これはプリキュアシリーズが初めて行ったことではなく、ウルトラマンの時代から子供向け特撮ものやアニメの主題になっている。
ウルトラマンや仮面ライダー、プリキュアが子供向けであり、大人には無関係だという考え方は、一見、いかにも大人らしく分別のある考え方のようだが、単にそれらの番組を見ていた子供の頃の自分が、制作者側の大人としての制作意図を理解していなかったからに過ぎない。
子供向けアニメや特撮ものをバカにしている人たちは、制作者である大人たちが込めた大人の思想や視点を見逃しているか、頭脳が子供のころから全く成長していないか、のどちらかである。
もちろん子供向けアニメの楽しみ方は、そうした物語に込められた思想だけではない。純粋に「動く絵」として観たときの演出技法を堪能する楽しみ方もある。
『スマイルプリキュア』が昨年の『スイートプリキュア』と大きく異なるのは、作品の演出全体がとにかく明るく躍動的である点だ。
そのため、特に戦闘シーンでの「止め絵」(=歌舞伎における「みえ」に該当するカット)は、ハイビジョンの16:9の画面をいっぱいに使い、超広角レンズを使ったようにパースが極端に強調された、迫力のある絵になっている。とても中学2年生の少女とは思えない力強さだ。
東映アニメだからかもしれないが、逆に戦闘シーンなどでの「動画」に特筆すべきものはない。
例えば昨年の『スイートプリキュア』もそうだが、エンディングはプリキュアたちが曲に合わせて軽快にダンスを踊る動画になっている。ところがこれが3DのCG制作で、あまりに動きがぬるぬるとなめらか過ぎて、見ていてやや気味が悪い。
エンディングは1年間使うのだから、京都アニメーションという『けいおん!』などで有名なアニメーション制作会社のように、なぜ時間をかけてでも手書きの動画にしなかったのかと思う。
いずれにせよ、子供向けのアニメは、大人たちが作ったものであり、僕のように黄金時代のハリウッドの名画や、フランスの批判的な映画、小津安二郎や溝口健二などの日本の名画を大量に観ている大人にとって、じゅうぶん鑑賞に耐える作品であることに間違いはない。
アニメを観ても子供っぽくて何が面白いのか分からないという大人たちは、単にアニメを批判的に鑑賞する能力がないだけである。

深夜時間帯アニメ作品の多様性

TVアニメ『侵略!?イカ娘』のオリジナル・サウンドトラック2のジャケットが面白い理由が分からない人がいるといけないので、比較画像をアップしておく。
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要は1990年代にカリスマ的な人気を誇ったロックグループ、ニルヴァーナの大ヒットアルバムのジャケットのパロディでした、というわけだ。
ところで『侵略イカ娘』というTVアニメだが、単なる「スクール水着少女萌え」作品だと完全無視していたが、実際見てみると意外に良かった。
24分間に3つのエピソードからなるという、番組フォーマットとしては『サザエさん』と同じで、脚本の内容も実は『サザエさん』なみに平凡な笑いに満ちている。
深夜時間帯に放送されているアニメを、生まれて初めて、ここ半年くらい集中して見ているが、ほとんどの作品には男性視聴者をひきつけるための「釣り」要素として、エッチな場面が散りばめられている。女性の水着姿や入浴シーン、なぜか途中で半裸になる変身シーンなどだ。
『イカ娘』もオープニングに、主人公のイカ娘の水着シーンはあるが、本編で「釣り」としてのエッチな場面が出てくることはほとんどない。
『イカ娘』の物語はよくある貴種流離譚のコメディ版だ。異界人が突然、人間のごく普通の日常生活に放り込まれ、あたふたしながら人間たちとの親交を深めていくという、心温まるな物語である。
当然、深夜時間帯のアニメということで、オタク向けの設定や引用は随所に散りばめられている。例えばイカ娘に「百合萌え」している女子の登場人物など。
それらをはぎ取ると、NHK教育テレビ(ETV)で放送してもいいのではないか、というくらい、『イカ娘』はほのぼのしたエピソードばかりだ。
些細なことからいがみ合ってしまった友だちどうしが、実はお互いのことを大事に思っていることに気づく、とか、平凡な日常の風景に自然の美しさや小さな冒険を見つける幸福とか、意外に普遍的なテーマが『イカ娘』のエピソードの背骨になっている。
もちろんイカ娘という可愛らしいキャラクター設定の妙もあるが、この作品の本質は何よりも脚本の良さにある。40男が不覚にも泣いてしまうエピソードもある。
「スクール水着少女萌え」という外見のせいで、この『侵略イカ娘』という作品が、深夜時間帯アニメファンのものだけになっているのは、かなり惜しい気がする。
ところで、深夜時間帯アニメのファンにとって、この種の「癒し系」作品が必須であるということは、他の深夜時間帯アニメを見ると分かる。
戦闘シーンで大量の血が噴き出すような「グロ」作品や、他人を身体的・心理的に虐待することを好むキャラクター、神経症のキャラクターなどが登場する「メンタル系」物語など、とにかく「精神衛生上悪い」作品が多い。
最近ではアニメ版『ブラックロックシューター』や、『未来日記』。その他『魔法少女まどかマギカ』や『輪るピングドラム』も後半になるほど神経症的な物語になった。
そういうものばかり見ていると『日常』や『イカ娘』、『けいおん!』『らきすた』『キルミーベイベー』といった「癒し系」アニメ作品を見ずにはいられなくなるのだ。
癒し系作品とは別に、『TIGER&BUNNY』や『輪廻のラグランジェ』など、友情というテーマを軸に視聴者を引きこむ「元気系」アニメ作品もある。その他、ほぼ純然たる「エロ」アニメもある。
今の日本のアニメは、そうした多様な性格をもつアニメ作品群がお互いを補完する一つの大きな体系を形成することで成り立っている。海外での日本のアニメ作品受容も、個別作品というよりは、その体系全体が受容されていると思われる。
ところが、深夜時間帯のアニメを見たことがない人は、一部の「エロ系」作品のせいで先入観をもち、多様なアニメ作品の全体を否定し、最初から見ようとしない。それが個人的には非常にもったいないなぁと思う。
少しでも興味を持たれた方は、バンダイチャンネルで、月額1,000円でほとんどの作品が見放題になっているし、第1話限定で無料という作品も多数あるので、ご覧になってはいかがだろうか。
『侵略!?イカ娘』第1話(視聴無料)

公式英語版『魔法少女まどか☆マギカ』の声優さんまとめ

どうやらアニプレックスは『魔法少女まどか☆マギカ』の英語版を作成して、米国やカナダなどの英語圏への展開をするらしい。
MADOKA MAGICA(英語版『魔法少女まどか☆マギカ』公式サイト)
声優は当然、英語ネイティブになるが、海外であっても「真性」ヲタクはオリジナルキャストにこだわるはずで、おそらく英語ネイティブの声優版を受け付けないだろう。
アニプレックスの狙いも、英語圏のコアなヲタク層にはなく、たぶんあまり日本の最先端のアニメ表現にあまり関心はないが、日本文化には興味がある、といった若者にあるはずだ。(もしコアなヲタク層を狙っていたとしたら完全な英語圏展開戦略ミス)
自分のメモとして、英語版『魔法少女まどか☆マギカ』の主な声優さんの公式サイトへのリンク集を作っておく。
鹿目まどか役のChristine Marie Cabanosさん公式サイト。
http://www.christinemariecabanos.com/
Christine Marie Cabanos (Wikipedia)
バンダイ英語版YouTube公式チャンネルより、Christine Marie Cabanosさん出演の英語版『けいおん!』トレーラー。

暁美ほむら役のCristina Vee (Cristina Valenzuela)さん公式サイト。ご本人もクールビューティー的な。他には『けいおん!』の秋山澪、『ゼロの使い魔』のルイズ、『サクラ大戦』の吉野杏里など。
http://www.cristinavee.com/
Cristina Vee (Google+)
Cristina Valenzuela (Wikipedia)
Cristinavee20120211
このCristina VeeさんはGoogle+を見ると、コスプレイヤーでもあるらしい。また、個人的にアニソンの英語版をYouTubeにアップしていて面白い。例えば『らき☆すた』のオープニング。

巴マミ役のCarrie Keranenさん公式サイト。ご本人も頼れるお姉様的な。
http://carriekeranen.com/
Carrie Keranen (Wikipedia)
Carriekeranen20120211
キュゥべえ役のCassandra Lee Morisさん公式サイトはこちら。お願いされなくても契約してしまいそう、とか言わないの。
http://cassandrasvoice.wordpress.com/
Cassandra Lee Morris (Wikipedia)
Cassandraleemorris20120211
美樹さやか役のSarah Williamsさんだけ、公式サイトが見つからない。こちらのサイトによれば、他には英語版『侵略!イカ娘』の常田鮎美役など。
以上、全く趣味的な、どうでもいい人にとってはどうでもいい情報。

『輪るピングドラム』における作為の契機と愛と共同性

『輪るピングドラム』がTBSでは昨晩最終回をむかえたので、とりあえず最初のレビューを書いてみる。表現技法については置いておいて、物語についてのレビューだ。
この物語は、要約すると次のようなことだと思う。
いま自分が生きている世界は、別の姿でもありえたが、その別の世界で起こったかもしれない大きな不幸をなくすために犠牲になった誰かのおかげで、いまの自分がある。この世界は、運命が決めたものでもなく、自分一人の意思で変えられるものでもなく、みんながいっしょに作っているものだ。
でも、最終回を見て、次のように思った人もいるかもしれない。
『輪るピングドラム』は並行世界についてのお話である。こうであったかもしれない世界もあれば、ああであったかもしれない世界もある。複数の可能な世界が、地下鉄のように入り組みながら走っている。
登場人物たちは、主人公の少女(高倉陽毬)の命を救うために、一つの世界から別の世界へジャンプした。その結果、元の世界で三人でいっしょに暮らしていた幸福を失ったが、少女の命は救われた。
こんなふうに解釈することもたしかにできそうだ。
でも『輪るピングドラム』は複数の並行世界を、SF的に客観的かつ平等にあつかっているお話ではない。そうではなく、いま自分が生きている世界がいかに理不尽であっても、それを引き受けなければならないというお話だ。
三人がいっしょに暮らしていた世界は、あくまでこの世界を説明するための単なる仮定、単なる手段である。
自分が生きている世界は自分で選んだわけでもないのに、どうして押し付けられなきゃならないのか、と言いたくなるかもしれない。
その素朴な疑問に対して、いやいや引き受けなければならない理由があって、それはこういうことだよ、と語りかけてくるのが『輪るピングドラム』である。
もう少しくわしく説明しよう。
自分が生きている世界は、たしかに自分が複数の選択肢から自分の意思で選んだものではない。SFの並行世界のように、一つの世界から別の世界へ自分の意思でジャンプできるようなものではない。
しかし、自分が選んだものではないからといって、この世界は神様のような人間を超えた存在が作ったものではないし、自分が「この」世界に生まれたのは、運命のような抗しがたい力によるものでもない。
この世界は自分と同じ、不完全で説得可能な人間たちが作り上げた、あくまで人為的なものである。神が創ったものでも、運命が決めたものでもない。
僕らがまず自覚しなきゃいけないのは、この世界で僕らが受ける不幸も幸福も、僕らと同じ人間が作り出したものということだ。
そういう不幸や幸福を、神様や運命といった人智を超えたものの責任にするのは、この世界に生きている人間は自分一人だけだという、とんでもない思い上がりか、自分は何ものでもないという、とんでもない自己否定かの、どちらかだ。
『輪るピングドラム』によく登場する、運命という言葉が嫌いだ、というセリフは、この世界が人間の作った不完全なものであることを引き受けよう、というメッセージである。
また、「何ものにもなれないお前たち」というセリフは、この世界が神様や運命といった人智を超えたものの産物だと思い込んでいる人たちに向けられている。この世界は人間の作ったものだ。
ただ、この世界が人間の作ったものであることを認めるのは、大変だけれど、死ぬほどではない。
主人公の少女(高倉陽毬)と、血のつながらない二人の兄(高倉冠葉、高倉晶馬)の三人がいっしょに暮らしていた世界は、『輪るピングドラム』の中では実在するものとしてではなく、この世界が人間の作ったものだということを説明するための、単なる手段として描かれている。
ふつうに考えれば、あの三人、高倉冠葉、高倉晶馬、高倉陽毬の血のつながらない三兄弟の生活こそ、理想的な世界のように思える。
しかし、あの三人の共同生活がある世界は、世界は自分の自由意志で選ぶことができると考えた人々が起こした、大きな不幸の上に成り立っていた。
物語の中で「企鵝の会」という、オウム真理教を思い出させる宗教団体が、地下鉄で起こした爆破テロ事件がそれだ。
しかし爆破テロという主体的な行為によって、世界は天国のような場所にはならなかった。世界は特定の人たちの自由意志だけで、一発逆転みたいに天国に変えられるほど単純ではない。
ところが、テロ行為を起こした家族に生まれた息子である高倉冠葉は、中途半端な幸福しかない世界を、両親と同じ考え方で、一気に幸福な世界に変えようとする。
愛すべき妹の高倉陽毬が不治の病であるという設定は、この世界の幸福がどこまで行っても完璧ではなく、不幸とうらはらで、不完全であることの象徴だ。
高倉冠葉は、そんな中途半端な世界を、完璧な世界に変えるために、つまり、高倉陽毬の不治の病を完全に治すために、自分の両親がかつて使った「世界を一気に変える方法」を再び使おうとする。つまり地下鉄の爆破テロだ。
しかし、その高倉冠葉の血のつながらない弟である高倉晶馬は、自分の命が高倉冠葉のくれた「半分のリンゴ」で救われたことを、やっとのことで思い出す。
この「半分のリンゴ」は、自分の生きている世界が、人智を超えた存在によって保たれたのではなく、人間のささやかな優しさ、たった半分だけのリンゴのようなものによって作られたことを示している。
たしかにそうして作られた世界は、完璧に幸福というには程遠いかもしれない。むしろ不幸の方が多いと感じるかもしれない。しかし、不幸を運命のように思ってもいけないし、テロのような行為で一発逆転できるようなものだと思ってもいけない。
世界の不完全さを受けいれることで初めて、僕らはこの世界にささやかな幸福を感じながら、生き続けていけるのではないか。そうすることで初めて、僕らは「何ものか」になれるのではないか。
高倉晶馬が半分のリンゴを思い出したことで、高倉冠葉もようやく、この世界の不完全さと、この世界が自分たちと同じ人間の作ったものであることを受け入れ、「何ものか」になる。
「何ものか」になるということは、言い換えると、他の可能性、他の世界をあきらめるということだ。何かをあきらめなければ、この不完全な世界で生き続けることはできない。それが「生存戦略」である。
高倉冠葉が高倉陽毬の命を救うためにあきらめたのは、この世界を一発逆転で完全なものに変えられるという、まったく間違った狂信と、高倉陽毬が自分の愛すべき妹であるということだった。
そうすることで、高倉冠葉、高倉晶馬、高倉陽毬は、三人とも、ほんとうの意味での世界、つまり、不完全だけれどもささやかな幸せのある世界に戻ることができた。
その結果、高倉冠葉と高倉晶馬の兄弟は、結局、自分の愛すべき妹である高倉陽毬を失ったことになる。不完全なこの世界では、高倉陽毬はもはや、冠葉や晶馬の妹ではなく、見ず知らずの他人になってしまう。
でも、以前の世界でも、テロを決行して世界を失う代わりに、陽毬を救ったところで、そんな世界で三人とも生き延びることはできなかっただろう。
三人は、世界の完全性をあきらめたことで、初めて世界の中で生き延びることができた。生存戦略。
陽毬は、高倉冠葉と高倉晶馬の妹ではなく、知り合いでさえない、見ず知らずの他人になってしまうことで、実質的には二人の兄を失った。
それでも、三人ともが生き延びたこの不完全な世界には、世界がたしかに人間の作ったものだという「痕跡」がちゃんと残っているのだ。
「大スキだよ!!お兄ちゃんより」という、ぬいぐるみのお腹の中に入っていた手書きのメモ。
あのメモは、不幸なこともたくさんあるけれど、自分が「何ものか」としてこの世界を生き延びさせてくれた人々、この世界を作っている人々が、この世界に残した「痕跡」だ。
たとえこの世界で、たくさんの不幸や理不尽なことに出会っても、自分が「何ものか」として生きていけるのは、あのメモのように、この世界を作っている人々が、自分のために残してくれた「痕跡」があるからだ。
その「痕跡」を「愛」と呼んでもいいだろう。
すべてが運命で決められているのでもなく、すべてを自分の意思で一発逆転できるわけでもない、そんな不完全な世界には、逆に、自分に向けられた「愛」が至るところに散らばっている。
その「痕跡」は、この世界が人間の作ったがゆえに不完全であることの証拠でもあり、自分が愛されていることの証拠でもある。
幸福なことも不幸なこともふくめて、この世界は自分と同じような人間たちが、いっしょに作り上げたものだからこそ、至るところに自分に向けられた「愛」を見つけることができる。
僕らはこの世界が自分の選んだものではないこと、自分の意思だけではどうにもならないことを嘆く必要はない。
この世界が人々が共同で作っている不完全なものであることを受け入れれば、至るところに愛の痕跡を見いだすことができ、そのおかげで、この世界を紡ぎつづける作業に加わることができる。つまり「何ものか」になることができる。
運命の果実をいっしょに食べるということは、この不完全な世界が、自分ひとりではなく、人々がいっしょに作り上げているということだ。運命と呼ばれているものは、実は人々がいっしょに作り上げ、紡ぎつづけているこの世界そのものであるということだ。
この世界の人々がいっしょになって、この不完全な世界を作り上げ、紡ぎつづけていることに気づけたからこそ、三人は運命の果実を飲み下し、この世界が一冊のノートによってあらかじめ決められているといったような、運命の呪縛から解き放たれる。
運命の呪縛から解き放たれたとき、最終回までずっと、この世界を説明するための手段として描かれてきた架空の世界は、くるりと回転した。
そして、不完全だけれど、至るところに愛の痕跡を見いだせるこの世界、まさに僕らが生きているこの世界に、もどってくることができたのだ。