「GOVERNANCE INNOVATION: Society5.0の時代における法とアーキテクチャのリ・デザイン」報告書(案)の無意味さを東浩紀のポンチ絵一枚で無理やり説明する

問題の経産省がパブコメを募集した「GOVERNANCE INNOVATION: Society5.0の時代における法とアーキテクチャのリ・デザイン」報告書(案)はこちら。

https://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=595219066&Mode=0

この報告書(案)がいかに無意味かを、東浩紀『動物化するポストモダン』(昔読んだ)のポンチ絵一枚で説明してみる。

上の「近代の世界像」は、世の中のいろんな出来事はその背後にある大きな理論で説明できる、という世界像のこと。

ふつうの人はあまり意識せずこちらの世界像を持っている。

情報技術の発展にともなって社会全体の姿が変わり、それによって僕らの自身の生活も変わる(私は物語を通して決定される)的な。

世界の歴史、経済、文化、政治、技術などなどの変化を何かの理論で説明しようとする発想は、すべて上図の「近代の世界像」にあてはまる。

その発想の背後には、世界で起こるだいたいの出来事を説明できるような理論、公理のようなものがあるという、暗黙の前提がある。(宗教家にとっては神様がそれ)

そういう大きな理論のことを、ポストモダン思想家は気取って「大きな物語」と呼んでいる。

いっぽうポンチ絵の下半分、「ポストモダンの世界像」は世界全体を説明できるような理論や神様が存在するかどうかなんてどうでもいい、という世界像のことを言っている。

重要なのは、「世界全体を説明できる理論なんて無い」ではなく、「あっても無くてもどうでもいい」という点。けっして「大きな物語」を否定しているわけではない。どうでもいいのだ。

そういう「ポストモダンの世界像」に出てくる「データベース・モデル」は、IT業界でいうデータベースとは無関係で、単なる比喩だ。

上半分の「近代の世界像」では、世の中の出来事は大きな理論でだいたい説明できると見なすので、秩序立って見える。

「ポストモダンの世界像」では、世の中の出来事の背後に大きな理論があるかどうかどうでもいいので、そもそも「私」は出来事のあいだに秩序を見出す気がない。

たぶん東浩紀が「データベース・モデル」で言いたかったのは、無数にある出来事(小さな物語)には秩序がなく、「私」は欲望にまかせて好きなものをピックアップするのだ、ということ。

つまり、背後に大きな理論がある秩序立った世界だと、何かが起こると、次に起こることはだいたいいくつかの条件分岐で予測できるので、私はあたかもツリー構造、もしくはそれをタテにすれば階層構造で出来事を見ている(見させられている)。

一つの根本(大きな物語)から、いくつもの小さな物語が枝分かれしているイメージだ。

いっぽう、背後に大きな理論があろうがなかろうがどうでもいい世界だと、私の方から欲望のままに好きな物語を取り上げて、その深読みにのめりこむ。

みんながそうやって自分の好きなものを漁っている様子を横から見ていると、それぞれがランダム・アクセスしているように見える。

小さな物語というネタがずらりと並んでいるのを前に、どこからでも好きなものをピックアップしている様子を、東浩紀は「データベース・モデル」という言葉で表現したかったんだろうと思う。

たとえばリレーショナルデータベースのテーブルなら厳密な階層構造はないので、どのレコードを読みに行こうが勝手、というニュアンスで「データベース・モデル」と言えなくもない。

そして、私の方から好きなものだけとりに行き、かつ、出来事の背後に大きな理論があろうがどうでもいいので、自分の好きなようにその背後の「深層」を深読みできる。

政治的な陰謀論から、エヴァンゲリオンの解説本まで、自分の好きな出来事(小さな物語)について、勝手にその背後を深読みできる。

それぞれの人が自分の好きなネタだけピックアップして深読みをすると、偶然同じような裏読みをすることもありうる。エヴァンゲリオンのファンが深読みするうちに、いつの間にかパヨクの陰謀論と同じことを考えてたとか。

さて、ここまでくると経産省情報経済課の報告書(案)の無意味さが説明できる。

この報告書は「Society 5.0」というタイトルからすぐに分かるように、社会全体を説明できる枠組み(大きな物語)とそれに対応する法制度(ガバナンスモデル)を描き出そうとしている。

社会は「Society 1.0(?)」から、経済や技術の発達にともなって変化し、「Society 5.0」になるという、どうしようもなく古くさい進歩史観も「近代の世界像」の典型だ。

ところが、彼らは「大きな物語」を描き出そうとして、最近流行のありとあらゆるIT界隈の小道具を寄せ集めてきて、それらの小道具が相互につながることで「Society 5.0」が成立するという書き味になっている。

「Society 5.0」が本当に世界全体を裏付けるような「大きな物語」であれば、それが「サイバー空間」と「フィジカル空間」の二項対立だけで説明できるはずがない。

この報告書(案)を書いた人たちの関心は、経済格差でもなく、人口動態でもなく、環境問題でもなく、「サイバー空間」という自分たちの大好きな「小さな物語」にあった。

そこで、自分の欲望にしたがってそれだけをピックアップし、それをつかって背後にある「深層」を深読みした。その結果がこの報告書(案)だ。

つまり、この報告書(案)と、エヴァンゲリオンの解説本に、本質的な差はない。

彼らは、自分たちが「ポストモダンの世界像」の枠組みにはまっていて、自分たちの大好きなネタだけをピックアップして深読みをしているにすぎない、ということに気づいていない。

本来彼らがやりたかったことは「Society 5.0」という大きな物語を描き出すことだったのに、ゼーレが人類を補完しようとしてました、みたいな単なるマニアックな深読みになっている。

やろうとしていることと、実際に出来上がったもののギャップに、僕らは苦笑するしかない。

以上、東浩紀のポンチ絵(これ自体が正しいかどうかはどうでもいい)を使うと、「GOVERNANCE INNOVATION: Society5.0の時代における法とアーキテクチャのリ・デザイン」報告書(案)の壮大な勘違いと無意味さを、かなりうまく説明できる。

こういうふうに、世の中で起こっている出来事をうまく説明できれば、ポストモダン思想にも一定の価値はあることになる。

ただ、それってポストモダン思想も「大きな物語」を目指してるってことになり、「ポストモダンの世界像」そのものと矛盾してるんじゃないの?というツッコミはありうる。

なので、東浩紀とはちがう本物の(?)ポストモダン思想は、ジャック・デリダのように、最終的に何が言いたいのか、何のためにそんなおしゃべりを延々とやっているのか、よく分からないものになるのが「正しい」姿かも。