長谷川豊が分かっていない自分自身のバカさ加減

長谷川豊がブログの記事をきっかけにレギュラー番組の仕事を失ったそうだが、たぶん彼はまだ自分のバカさ加減を分かっていない。

彼の議論を要約すると、以下のようになる。

・世の中には「良い」高齢者と「悪い」高齢者、「良い」透析患者と「悪い」透析患者がいる。

・前者が受けるべき社会保障が、後者がいるために十分受けられない。

・高齢者のうち誰が「悪い」高齢者で、透析患者のうち誰が「悪い」透析患者かは、民間に任せれれば自動的に振り分けられる。

・だから社会保障の運用を民営化することで、「悪い」高齢者と「悪い」透析患者の社会保障が自動的に削減されるようにし、国の借金を減らせ。

以上が長谷川豊の論旨だ。

長谷川豊のような思考回路が単純でバカなリバタリアンの議論はだいたい「高齢者」や「透析患者」の部分を入れ替えれば、同型になる。(リバタリアンの全てがバカなわけではなく、少数のバカなリバタリアンがいるだけだ)

たとえば「透析患者」の代わりに「生活保護受給者」を当てはめれば、バカなリバタリアンの生活保護改善の主張が出来上がる。

バカでない人間なら考えればすぐに分かるが、誰が「良い」高齢者や透析患者や生活保護受給者で、誰が「悪い」高齢者や透析患者や生活保護受給者かを、いったい誰がどうやって決めれば、社会の合意が得られるのだろうか。

長谷川豊のようなバカなリバタリアンは、(1)そんなの常識的に考えればわかる、(2)市場原理に任せれば自然に最適化される、この(1)と(2)のいずれかの考え方、または(1)と(2)の入り混じった考え方を持っている。

まず(1)のような「常識」に頼る考え方が、明らかに社会的な合意が得られそうにないのは言うまでもない。

さすがの長谷川豊も、自分の価値観で「良い」「悪い」をふるい分ければ、それで社会の合意が得られると言い張るほど思い上がっていないだろう。たぶん…。

では(2)民営化して市場原理に任せれば社会保障は市場原理によって自然に最適化されるか、つまり市場原理に任せれば本当に必要な人に給付され、不要な人には給付されないという、公正さが実現するか。

答えはもちろんノーだ。

なぜなら、そもそも社会保障という考え方が出てきたのは、市場原理にすべてを任せると、本当に社会保障を必要とする人に給付が行きとどかなくなり、経済格差が固定化され、世代が下るにしたがって格差が拡大してしまうからだ。

なのでわざわざ国家が市場原理を一部制限し、誰に受給資格があり、誰に受給資格がないかを決める基準も国家が法律で定めて、国家が徴収した税金を再配分する方式を取り入れた。

それが社会保障だ。長谷川豊はそのことさえ分からずに、社会保障の批判をしている。

国家が法律で決める給付基準は、どのように決めても、国民全員が賛成できるものにならない。かならず誰かは反対するような基準になってしまう。かならず反論の余地がある。

また、国家が法律で決める給付基準は、どのように決めても、かならず誰かがその基準の裏をかいて「不正受給」する。絶対に誰も「不正受給」できない制度など、原理上、設計不可能だ。

誰も「不正受給」できない完璧な制度が原理上作れない理由は、国民一人ひとりの生活に、一つとして同じ生活がないからだ。

人によって生活事情は細かく審査しようとすればするほど違いがあり、多様である。

なので、どうしても最大公約数をとって、いくつかのパターンに無理やり分類して法律を作り、このパターンに当てはまれば法律にしたがって自動的に給付します、という制度にするしかない。

受給者一人ひとりの生活を、いちいち長い時間かけて審査していたのでは、その審査だけで社会保障給付以上の費用がかかってしまう。

制度の運用自体に費用がかからないように合理化するには、事情が異なる国民一人ひとりの生活を、どうしてもいくつかのパターンに類型化せざるを得なくなる。

その結果、受給資格を得られるように、それに合わせて自分の生活状況を「偽装」する「不正受給」者が必ず出てきてしまう。

しかし、そういう「不正受給」は、どういうふうに社会保障制度を作っても、原理上逃れられない費用であり、社会保障制度が最初から見越していることである。

「不正受給」を100%無くしたいのであれば、給付前の審査に膨大な費用をかけなければならない。それはそれで社会保障制度全体の費用を押し上げることになる。

「不正受給」されるのをあらかじめ分かった上で、あえて割り切った制度運用をする。それによって「不正受給」という費用と、制度運用にかかる費用の間の最適解を見つけ、社会保障を運用するしかないのだ。

そうすると、当然、国民の誰かは「不正受給」の方に費用がかかりすぎだ!と文句を言う。長谷川豊もその一人だ。

しかし「不正受給」を完全に無くそうとすれば、そもそも社会保障制度を完全に無くすか、給付前の審査に無限の費用をかけるか、そのどちらかの方法しかない。

長谷川豊はバカなので、このように社会保障制度そのものが、「不正受給」の存在を最初から計算に入れていることを全く分かっていない。

社会保障制度は、「不正受給」のコストと、制度運用自体のコスト(=不正かどうかの審査にかかるコスト)の合計が、最小になるように設計する必要がある。

以上の意味で、長谷川豊がブログで書いていることは、完全に矛盾している。

長谷川豊は、「良い」受給者は受けるべき給付を受ける必要があると言い、「悪い」受給者は給付を受けるべきでないと言う。

しかし長谷川豊は、「良い」「悪い」を判別するにも費用がかかるという、ごくごく当たり前の事実を分かっていない。

したがって、もし長谷川豊が自分の議論をあくまで押し通したいのなら、社会保障制度を完全に撤廃するしかなくなる。

つまり、「良い」「悪い」の判別を完全に市場原理に任せることだ。

すると人類の歴史を、社会保障制度の誕生以前の資本主義社会まで、巻き戻すことになる。

長谷川豊は、人類がもう一度同じことを繰り返しても、今度こそ人類は資本主義や市場原理を賢く運用できると信じているのだろうか?

だとしたら誰がそれをできるのか?

誰が運用すれば、人類が過去に犯した過ちを、二度と繰り返さずに済むのか?

そんな神のような全知全能の制度設計の天才の出現を期待しろとでも言うのか?

まさか長谷川豊自身が、自分こそその制度設計の天才だ!と思ってはいないだろう。

ただ、長谷川豊が霞が関の官僚を平然とバカよばわりしていることからすると、官僚たちより自分のほうがましな社会制度の設計ができると思いこんでいるようだ。

長谷川豊を、そこまで思い上がらせているものは何だろうか?

これまで日本だけでなく、すべての先進国が、市場に任せる部分と、国家がコントロールする部分のバランスをとるべく、さまざまな社会制度を設計しつつ試行錯誤してきた。

その200年近くの試行錯誤を経て、今の社会保障制度は、欠点だらけでありながらも、いちおう民主主義の意思決定プロセスにしたがって社会の合意を経た上で、やっとのことで今の姿にたどりついているわけだ。

あらゆる制度は不完全である。したがって必ず反論の余地がある。

しかし何らかの制度を作って、運用せざるをえない。

こうした状況の全体を、長谷川豊は「バカ」というひとことで済ませてしまう。

社会保障制度がそんな簡単に最適解が見つかる方程式なら、誰も苦労しない。

誰の利権にも左右されない完全に公正な社会保障制度がそんなに簡単に作れるなら、誰も苦労しない。

残念ながら、社会は長谷川豊が思っているよりはるかに多様で複雑だ。ただそれだけのことだ。

長谷川豊の主張は、「バカと言う奴がバカだ」の典型的な事例だが、全く笑えない事例だ。