安倍政権の放送法についての誤解と「この国民にしてこの政権あり」

BPO(放送倫理・番組向上機構)がNHK番組のやらせ疑惑をめぐって、高市総務相が放送に介入したことを批判したことはご承知のとおり。

どうやら安倍政権は、放送法をわざと、意図的に、曲解しているらしいので、以下、かんたんにご説明。

放送法第四条、放送事業者に政治的公平性を求める条文の前提は、放送法第一条。

放送法第一条、放送の不偏不党、真実及び自律、表現の自由の確保を求める条文の前提は、日本国憲法第二十一条。

日本国憲法第二十一条は、表現の自由と検閲の禁止。

憲法は主権者(つまり国民)が、統治権力の権力乱用を制限するもの。

つまり憲法第二十一条は、「統治権力は、国民の表現の自由を制限したり、検閲してはいけない」という意味。

要は、国民の表現の自由に「統治権力は介入しちゃダメ!」という意味。

それを元にした放送法第一条も、「統治権力は、放送事業者の放送の不偏不党、真実及び自律を確保し、表現の自由を制限してはいけない」という意味。

要は、放送事業者の放送に「統治権力は介入しちゃダメ!」という意味。

それを元にした放送法第四条も、「統治権力は、放送事業者が自律的に政治的公平性を確保することを制限してはいけない」という意味。

要は、放送事業者が自律的に政治的公平性を確保することについて「統治権力は介入しちゃダメ!」という意味。

なのに安倍政権は、「統治権力は、放送事業の政治的公平性をチェックする権力を持っている」と意図的に曲解している。

もし安倍政権の放送法解釈が正しいのであれば、その前提となる放送法第一条も「統治権力は、放送事業者の不偏不党、真実及び自律をチェックし、そうなっていない場合には、表現の自由を制限する権力を持っている」という解釈になってしまう。

そうすると、憲法第二十一条と完全に矛盾する。

つまり、安倍政権は安保法制の問題でも同じことが言えるけれど、意図的に日本国憲法の性質を根本的に曲解している。

憲法はもともと統治権力の権力を制限するために、歴史上、考え出されたものなのに、それを、統治権力が国民の権利を制限するために存在するものだと、意図的に曲解している。

憲法は主権者である国民が、統治権力を縛るために考え出されたしくみなのに、安倍政権はそれを、統治権力が主権者である国民の権利や自由を縛るための原則だと、意図的に曲解している。

意図的に曲解しているのでなければ、安倍政権は自分たちが放送法について、憲法と完全に矛盾した解釈をしていることを分かっていないことになる。

いずれにせよ、そういう安倍政権を選挙で選んだのは、主権者である国民。

安倍政権が憲法について完全な曲解や誤解をしているのだとすれば、それを許している国民の方が、そもそも自分たちの「主権」をまったく理解していない証拠。

まさにこの国民にして、この政権あり。

安倍政権のような憲法観が許されつづけるとすれば、日本という国は、だんだんと中国っぽい、統治権力が国民の自由を制限して当然という国に変わっていくだろう。

大阪府民、大阪市民も、今回のダブル選挙で、どちらかというと「統治権力は強くて頼りになる方がいい(主権者である国民の自由は制限されてもかまわない)」という方向に傾いたようだし。

やっぱり、まさにこの国民にして、この政権あり。

たぶん日本のサラリーマンは、首相のことを、会社の社長くらいに思っているのだろう。国家においては、社長は自分たち国民自身で、首相は単なる業務執行役員であるにもかかわらず…。