例の友人のによれば、もうツッコミを入れる気力もないとのことです

例の友人(といってもネットでからんでるだけだが)はまだいろいろ問題を抱えているらしく、以下、友人の「言い分」の要約。本当に友人の意見が正しいのかは微妙。


最近は何かを提言すれば、無視されるか反対されるかなので、何も言う気がしなくなっている。

しかも、無視するにしても反対するにしても、その根拠が合理性に欠ける。

いや、無視する側、反対する側は、自分たちは十分に合理的だと思っているのだが、こちらから見るとその理論は穴だらけで、反論する気力さえなくなるほどグダグダなのだ。

今まで複数回転職して、とある会社では責任者の立場にもなったことのある僕が、会社全体の資源配分やリスク管理、企業統治(ガバナンス)の視点から物を考えず、自分の担当業務の枠内だけで物を考えるだろうか。

ただ、僕に決定的に欠けているのは、コミュニケーション能力だけだ。いわゆる「声の大きさ」や「人付き合い」。

結局のところ典型的な日本企業の多くは、合理性や法(ルール)によって統治(ガバナンス)が成り立つのではなく、人の顔によって統治されているのが実情だ。

意見の中身に合理性があるかどうかではなく、その意見を誰が言ったかによって、無視されたり採用されたりされる。

にもかかわらず、無視したり採用したりする側は、自分たちは合理性にもとづいて判断したのだと言い張る。人を見て判断はしていないと言い張る。

自分たちが何を根拠に判断を下しているのかさえ自覚できないのだとすれば、企業統治(ガバナンス)の統治する側の病状としては末期的だ。

その組織が成立の経緯からして、統治(ガバナンス)の根拠を「人」ではなく「法」に置いているなら、誰かの意見をその合理性ではなく発言者で判断しておきながら、いや、自分たちは合理性で判断していると勘違いするのも、まだ治療の見込みがある。

しかし、そもそもその組織が統治(ガバナンス)の根拠を「人」に置いている場合、たとえば組織のトップが創業者だったり、世襲だったり、社内の業務が属人的である場合には、治癒の見込みはない。

そもそも自分の組織のトップが、集団による意思決定で決まる組織で働いたことのない人間に、「人治」ではなく「法治」の組織がどんなものか、分かるはずがない。

治癒の見込みがない末期症状なら、「人治」をやっておきながら「法治」だと言い張る自己欺瞞は少なくともやめるべきだろう。

あきらかに「人治」でありながら「法治」だと言いはる自己欺瞞からは、組織の中に混乱しか生まれない。統治する側に一貫性(integrity)がないからだ。Aと言いながらBをやっている人の言葉を、他の組織を知っている社員が、どうして信じられるだろうか。

数年後にどうなっているか、見てみなくてもほぼ予測できる。おそらく依然として「人治」でありながら「法治」と言い張っているだろう。


いつもながら悲観的すぎる。合理的に考えすぎると、世の中について悲観的になるのは必然的な帰結だ。

まったく。