情報システムは自らの統治の正当性を自分で説明してはくれない

昔から、情報システムは単なる道具だという言葉がある。企業内で情報システムを利用するのは、本来何かの目的を実現するための手段であって、情報システムを導入すること自体が目的ではないという意味だ。

ただ、あえて情報システムの導入を自己目的化することで、本来の目的を半ば強制的に実現してしまうことが、たくみな戦術であるかのように誤解している人が多いことも事実だ。

どんな日本企業でも起こりうることなのだが、例えば基幹業務システムを再構築するとき、本来の目的はシステムの標準化や業務プロセスの標準化といった企業統治(ガバナンス)の実現であるのに、基幹業務システム再構築自体を目的として設定することで、強制的に企業統治を実現してしまおうというアイデアが出てくることがある。

しかしこの奇策が成功するためには、実際にはあらかじめ企業統治が実現されていなければならない。

企業の中で一定の範囲内の組織、たとえば日本国内だけなどに限定すれば、もともと組織文化が均質なのでガバナンスの問題は顕在化しない。日本国内であれば「あうんの呼吸」が存在し、経営層が合理的な根拠を説明できなくても、組織全体が経営層の考えを「忖度」して同じ方向に進む。

そのためシステムの標準化であれ業務の標準化であれ、何らかの「強制力」、つまり統治(ガバナンス)をはたらかせたいときも、それほど強く働きかけなくても結果として統治(ガバナンス)が実現してしまう。

日本企業の場合は、組織内部が「法の支配」ではなく実質的に「人の支配」で動いていることがほとんどなので、経営層は組織内部に対しては十分な説明責任を果たさなくても、自分の「顔」だけで組織を動かすことができる。十分合理的な説明を尽くさなくても統治(ガバナンス)が実現してしまう。

ただこのことは、あらかじめ企業統治が容易に実現する「均質的」な組織にしか当てはまらない。

企業の中で考慮すべき組織の範囲を広げ、異質な文化を持つ部分まで含めた時には、「人の支配」や「あうんの呼吸」による統治(ガバナンス)は無効になり、「顔」が効かなくなる。

例えば十分に現地化された海外法人の従業員には、日本的な「人の支配」は無効であり、すでに統治(ガバナンス)が存在する前提で何かを強制することはできない。

その場合、統治(ガバナンス)は自分自身の正当性を理論的に説明する必要がでてくる。そしてその説明そのものが、異なる文化の組織にとって説得力のあるものでなければならない。もちろん日本語自体のあいまいさも排除しなければならない。

ところが、である。

最大の問題は、ほとんどの日本の組織人が、自分がいかに日本の組織文化にどっぷりつかっているかの自覚がないことだ。自分では十分合理的に考え、十分合理的に説明しているつもりでも、そうなっていないことがほとんどだ。

筆者が過去に勤務した企業の日本人「サラリーマン」が、何らかの統治(ガバナンス)を効かせるとき、つまり何かを強制させようとするとき、合理的な説得をしている場面に一度も出会ったことがない。

「人の支配」や「顔」、「声の大きさ」による統治(ガバナンス)をしているか、あるいは、統治(ガバナンス)をあきらめて現場の声に屈し、強制することをあきらめるかのどちらかだ。

異なる文化をもつ組織の間で、統治(ガバナンス)の正当性を成り立たせるのは、それくらい難しいことなのだが、今まで日本企業の組織の中で純粋培養された「ガラパゴス」な「サラリーマン」は、その難しさを自覚していない。

ある国の従業員は、正当性のない統治(ガバナンス)に対して、自分の権利を主張し、はっきり反対の声をあげてその組織から去るだろう。

ある国の従業員は、反論もしないが、サボタージュに出て統治を無効化するだろう。

ある国の従業員は、面従腹背で、統治がうまくいっているかのように偽装するだろう。

結局のところ、統治が効いていなければ、統治を効かせるために情報システムの導入を自己目的化するという奇策も効かない。

世界で事実上の標準になっている情報システムであれば、自分で自分の統治の正当性を説明してくれるだろうというのは、情報システムにも「顔」があるという、いかにも日本的な発想である。

いかに自分の考え方が日本的か、自分自身がいかに「人の支配」や「顔」による統治に頼っているか、周囲の人間がいかに自分が言葉にしない部分を「忖度」してくれているかの自覚がない人間は、日本以外の国で自分の統治の正当性を説明することは残念ながらできないだろう。