午堂登紀雄氏の『金持ちになれる人は、サービス残業でチャンスを掴む』はなぜ不適切な議論なのか

これだけブラック企業が批判されている中で、「サービス残業は社会悪だという見方は一面的で、サービス残業を利用してチャンスをつかむという考え方もある」と論じている人物がいる。

『金持ちになれる人は、サービス残業でチャンスを掴む』 (All About Japan, 午堂登紀雄氏 2014/08/19のコラム)

この記事についてBLOGOSで反論を受けて、午堂氏はさらに3回にわたって反論を続けている。

『金持ちになるための戦略としての「サビ残」論』
『金持ち体質と「サビ残」の関係、徹底的に考えてみた』
『「サビ残」を活用してハッピーにつなげる金持ちの法則』

午堂氏の論旨は、意図的にサービス残業をすることで同僚との差別化をすれば、結果として正社員への登用などより有利な労働環境を手に入れるチャンスが生まれる、ということだが、完全に部分最適の考え方だ。

仮に午堂氏の考え方が正しいとしよう。

そうすればある職場で、すべての従業員がサービス残業で同僚との差別化を始めることになる。午堂氏の考え方によれば、すべての上司はサービス残業をする従業員を肯定的に評価し、必ずしも金銭的なものではないが、より有利な条件を与える。

しかしすべての従業員が、例えば毎日15分のサービス残業をした時点で、一人の従業員の15分のサービス残業は他の従業員に対する差別化要因ではなくなる。上司はすべての従業員が15分ずつサービス残業をした場合、サービス残業を全く評価しなくなる。

なぜなら、仮に上司が、すべての従業員が15分ずつサービス残業をするようになった後もなお、すべてのサービス残業を肯定的に評価するとすれば、そもそもサービス残業がゼロであっても、すべての従業員の労働を肯定的に評価していたはずだからだ。

そうすると、午堂氏の考え方によれば、すべての従業員が15分ずつサービス残業をするようになった職場環境で、ある従業員がサービス残業を利用して他の従業員と差別化するには、サービス残業の時間を増やすしか選択肢がなくなる。

このようにして、すべての従業員のサービス残業は、午堂氏の考え方に忠実になれば、理論的に際限なく長くなっていくことになる。そうしなければ他の従業員とサービス残業を利用することで差別化し、他の従業員より有利な条件(例えば正社員への登用など)を獲得できないからだ。

ところが、このような状況を誘発する午堂氏の考え方は、雇用者(経営者)を危機に陥れる。なぜなら、こういった職場環境は経営者の法令違反リスクを高めるからだ。

法令違反リスクが高まれば、経営者が経営を続けることができなくなるリスクも高まる。その結果、従業員(被雇用者)たちも、少なくともその企業では仕事を続けられなくなるリスクも高まる。

そこで、被雇用者は転職する必要に迫られるリスクが高まる。

ただし今ここでは午堂氏の考え方が正しいという前提に立っているので、転職したその被雇用者は転職先の企業でもサービス残業を利用して他の被雇用者と差別化しようとする。

その結果、転職先の企業でも同じことが起こる。

つまり午堂氏の考え方は、一人の被雇用者にとって合理性はあるけれども、すべての被雇用者がそのような考え方にもとづいて行動すると、結果として雇用者(経営者)の法令違反リスクを高める結果になる。

ところで、日本の企業社会で起こっていることは、まさにこういう事態ではないだろうか。

午堂氏の考え方は、第二次大戦後、大規模な労働争議がなくなったあとの、日本企業の被雇用者の基本的な考え方をなぞっているだけであり、新しい考え方ではない。むしろ「ザ・昭和」「ザ・高度経済成長期」の王道の考え方である。

高度経済成長期の日本企業のほぼ全ての被雇用者は、まさに午堂氏の言うように、自らすすんでサービス残業をしてきた結果、日本社会全体に大きな成長をもたらし、日本の経済を世界第2位の地位までに押し上げた。

しかし、そのような労働慣習は、欧米諸国から見れば労働力を不当に安く経営者に売る「ダンピング」であり、それが国際的に貿易摩擦などの問題を生み出した。

その結果として欧米諸国は日本企業に法令遵守を強制する国際的な枠組みを、少しずつ強化していった。それは労働時間に関する法制度であったり、男女雇用機会均等法のようなダイバーシティに関する法制度であったりする。

国際会計基準やJ-SOX法も、日本企業を欧米基準のルールに従わせるための強制的な枠組みと言っていい。最近ではTPPもその一環だ。

日本企業は国際市場に参加しつづけるために、好むと好まざるとにかかわらず、欧米諸国によってますます強化されていく国際的な法制度の枠組みを受け入れざるをえなくなっている。

その流れの中で、日本の「ブラック企業」問題が出てきているわけだ。

午堂氏の考え方は、戦後、日本企業の経営者たちが国際市場で生き残るために、いやいやながらのまされてきた制度的な枠組みを、まるで被雇用者一人ひとりの努力で無効にできるかのような、とんでもない幻想にもとづいている。

いま日本企業の女性の管理職登用率の低さや、「ブラック企業」の長時間労働が批判されているのは、日本の被雇用者の権利意識が高まったからではない。ましてや日本企業の雇用者(経営者)の法令遵守意識が高まったからでもない。

そうではなく、「日本企業が国際的な法制度の枠組みを無視することで不当に安く製品やサービスを輸出している」という、欧米諸国の非難に譲歩しなければ、国際市場で事業を続けることができないからだ。

午堂氏の考え方は、そうした大きな背景を(意図的にだろうか?)無視して、サービス残業の問題を、個々の被雇用者が他の被雇用者と差別化する手段という、部分最適の問題へ矮小化している。

一人ひとりの被雇用者にとっては合理的な行動でも、すべての被雇用者がそのような行動をとればどうなるかは、以上に論じたとおりだ。

国際的な枠組みで考えると、日本の被雇用者が午堂氏の考え方にしたがえば、「合成の誤謬」によって日本企業をふたたび1980年代のような「日本バッシング」の状況へ連れ戻すことになる。

しかも、本来日本企業の経営者が考えなければいけないことは、被雇用者の単位時間あたりの労働生産性をいかに高めるかであるのに、午堂氏の考え方は「合成の誤謬」によって、経営者からこの問題を考えるインセンティブを奪ってしまう。

以上、午堂氏の考え方は、日本が鎖国状態であれば「合成の誤謬」にならないが、すでに否応なしに国際経済に組み込まれている現在の環境下ではまさに「合成の誤謬」を引き起こすものであることを、あらためて強調しておく。