小室淑恵「山積する社会問題をタダで解決する、たったひとつの方法」は素朴な啓蒙主義者の楽観に過ぎない件

こちらの日刊読むラジオの記事、小室淑恵「山積する社会問題をタダで解決する、たったひとつの方法」を、海部美知氏が「禿同」とリツイートしていたので読んでみた。

ひとことで言うと、考えが足りない。

日本社会が少子化、うつ病、ダイバーシティ(多様性)、介護問題、財政難などの山積する問題をタダで解決する、たったひとつの方法が「長時間労働をやめる」こと、というのが小室氏の結論だ。

小室氏の誤りは、まず論理階層の誤りだ。

長時間労働は、少子化、うつ病、ダイバーシティ等の問題の原因ではなく、それらの問題と同じ、単なる一つの問題にすぎない。

これらの問題のうち、長時間労働「だけ」をやめることはできない。これらの問題はすべてお互いがお互いの原因にもなり、結果にもなることで、いまの日本社会をかたち作っている。これらの事象の因果関係には、起点も終点もない。ヘビが自分の尾をかんでいるように、ぐるっと回っているだけだ。

僕らが問うべきなのは、なぜこれらの問題が解決されないままなのかというメタレベルの問題である。

その問題とは「合理主義の限界」とそれにともなう「社会の慣性」だ。

小室氏の議論は、日本社会を構成する全ての構成員、お年寄りから子供までが、全員十分に、少なくとも小室氏と同程度に、合理的に考えて判断する能力を持っていることを前提としなければ成り立たない。

しかし現実は残念ながら、人は物事をいちいち合理性によって判断するわけではない。

では何によって判断するか。「今までそうしていたから」というだけの理由だ。それが社会が必然的に持っている「慣性」である。

毎回合理的な意思決定をするためには、事前に十分な資源が必要だ。十分な時間、十分な情報、十分な知能、十分な体力等々の十分な資源がなければ、合理的な判断などできない。

というより、ふつうの人間はほとんどの場合、前例にならうことで意思決定に必要な資源を節約することの方を合理的と考えるので、結果として社会は「慣性」を持つ。

あなた自身、日々の生活の中で、自分自身の一挙手一投足について、いちいち「これが本当にもっとも合理的だろうか?」と考えなおすだろうか。

ふつうそんなことはしない。そんなことをしていると、日々の生活が前に進まないからだ。

まして日本社会全体が「長時間労働」という「慣性」をやめるなどということになると、日本社会を構成する全員を、ある意味一人ひとりの思想の自由に反して、強制的に「啓蒙」する必要がでてくる。

今までやっていたのと同じことを続けるのに特別な根拠付けはいらないが、変えることには特別な根拠付けだけではなく、実際に人々の行動を変えさせる「強制力」が必要になる。

いくら社会制度の設計を、一人ひとりが長時間労働を避けるようなインセンティブが生まれるようにしても、社会の構成員の側が、常に制度を設計した人と同程度に合理的な意思決定をする保証はない。

やっぱりここでも「啓蒙」の問題でつまずいてしまうのだ。そして小室氏はあまりに楽観的な啓蒙主義者だ。

「合理主義の限界」や「社会の慣性」が働いてしまうのは、人々の行動を変えさせるための啓蒙が、英米式のプラグマティズムの信奉者が思うほど簡単ではないからである。

啓蒙主義は、啓蒙する内容が合理的であれば、人々はおのずとその合理性に納得して啓蒙されるという、楽観的すぎる考えにもとづいている。合理的であれば人々を説得できるというのは、説得する側の単なる思い込みだ。

小室氏の議論の内容もたしかに合理的で、海部美知氏が「禿同(激しく同意)」するのも当然だし、僕自身も激しく同意する。

しかしそのことと、この議論で人々を「啓蒙」できるか、説得できるかということは全く別問題だ。人々は常に合理的に判断し、行動するわけではなく、ほとんどの場合慣性にしたがって行動するからである。

社会の慣性に抵抗して、常に合理的に判断し行動するというのは、じつは非常に禁欲主義的な生き方で、まさにマックス・ウェーバーが資本主義のエートスだと論じたプロテスタンティズムのような信仰と言ってもいい。そんな禁欲的な生き方を現代社会の構成員に期待するなど、楽観的すぎる。

人々がつねに慣性に反して合理的に行動するよう強制する、たったひとつの方法は「独裁」だ。

日本の社会制度を長時間労働をやめることが合理的になるように全面的に変更し、かつ、人々につねにそのように行動させるには、非合理的で慣性にもとづく判断と行動を、強制的にやめさせる必要がある。

ここに啓蒙の皮肉がある。啓蒙を実現するには、人々の自由を否定しなければならないという皮肉だ。

小室氏の主張には僕自身も激しく同意するが、本当にそれを社会に定着させようとすれば、100%民主的な方法では実現できない。

啓蒙とは、すでに「分かっている人」が、まだ「分かっていない人」の考えや行動を変えることを最終目標としている。

人々の考えだけでなく行動まで変えさせる啓蒙の最後の段階では、残念ながら民主的な方法は役に立たない。権力による強制が必要になる。例えば法律で禁止する、など。

だから僕はTEDのことを冷淡に見ている。

その理由は、TEDとは、すでに物事が「分かっている」エリートたちのガス抜きの場か、または、エリートによる強制力の行使によってのみ最善の社会を実現できると信じるエリートたちのサロンだと思うからだ。

その証拠に、小室氏の最後の呼びかけの何と無力なことか。

「ぜひ、皆さんも勿論実践して、そして周りの方にも広めていただきたいのです」
「ぜひ、皆さんの力をお貸しいただけたら、というふうに思います」

これでは単なるエリートのガス抜きだ。こんな強制力もなにもない呼びかけで、何十年も強力な「慣性」で動いてきた日本社会が変わるはずがない。

第二次大戦後、日本社会は米国による計算ずくの占領政策とプロパガンダという啓蒙のおかげで、やっとのことで軍国主義から中途半端な「民主主義」に変化した。小室氏が語っているような根本的な社会変革は、これと同程度の強制力が必要になる。

小室氏のスピーチは問題点を的確に指摘してはいるが、実現する段階で必要になる手段が実は強制力をともなう非合理性で理不尽なものにならざるを得ないという、啓蒙の皮肉まで考えが及んでいない。

小室氏の議論は、あまりに表面的で楽観的すぎる啓蒙主義だ。

非合理的な慣性にもとづいて日々動いている社会がそんなに簡単に変わるなら、誰も苦労はしない。