企業の健康管理努力について究極の経済合理性を考えてみる

企業が従業員の健康管理に努力することに、経済合理性があるとすれば、その企業の健康保険組合の財政状況の改善、その企業の社員の業務効率が下がることによる機会損失の回避などだろう。

たしかにこれは、一つの企業というミクロの単位で見れば合理的だが、国全体というマクロの視点で見るとかならずしも経済合理性があるとは限らない。

ある人間が死ぬまでにかかる医療費は、誰かが負担しなければならない。

企業が従業員の健康管理に努力することは、その医療費のうち、企業が自分の負担分をできるだけ先延ばしする努力にすぎない。

その企業に勤務している間は健康であったとしても、任意継続などの経過措置があるにせよ、最終的には国民健康保険がその人の医療費を負担することになる。それは国民全体の税負担にはねかえる。

各企業が従業員の健康管理に努力すればするほど、その「元」従業員の寿命は伸びる可能性が高い。

寿命が伸びて社会全体の高齢化が進めば、国民全体の健康状態が確実に改善する見込みがあるのでないかぎり、国民健康保険が負担すべき医療費の総額は確実に増える。

ただし、今の日本で実際に起こっているのは、身体的な健康状態は全体として改善しているが、ある意味、必要以上に身体が健康になったため、自分で自分の身のまわりの世話ができない状態でも生き続けている高齢者の介護コストや、痴呆症などの認知的な健康状態の悪化による社会的コストが増加しているという状況だろう。

昔であれば、寝たきりになる前に、または、認知的な健康が悪化する前に、身体的な健康が悪化して亡くなっていた人たちが、ある意味、必要以上に長生き「させられている」とも言える。

医療の進歩や、在職中の厳しい健康管理によって、必要以上に長生き「させられた」人たちの面倒をみるために、まさに企業で働くべき労働人口が、今後ますます高齢者の介護に時間をとられ、正規の労働ができなくなることになる。

いってみればこの状態は、企業が従業員の健康管理に力を入れれば入れるほど、従業員のうち、自分の両親の介護のために退職したり、フルタイムで勤務できなくなったりする従業員が増えるという、皮肉な結果になる、ということを意味する。

適切な健康管理をすれば、すべての高齢者が「ピンピンコロリ」式に、認知症にも寝たきりにもならず寿命をまっとうできるというのは、実現性を真剣に考えない、単なる理想論だ。

長生きが無条件に「良いこと」だという価値観は、単純すぎる。

どの国家においても、将来のどこかの時点で、健康について根本的に価値観を見直すべきときが来るはずだ。

極端な話、次のような考えが、かならずしも「悪いこと」とは言えないのではないか。

つまり、在職中の不摂生はさせるだけさせて、各企業負担分の医療費は上がるかもしれないが、在職中、または、退職後間もなく当人は亡くなり、結果として国全体の医療費負担は軽減される、という考え方だ。