今後は何を書いても一種の「遺書」にしかならない

自分でもなぜこれほど現実に失望しなければならないのか合理的に説明できない。

でも、ともかく僕がいま生活している社会環境には、これから20年も30年も生き続ける意味がなさそうに思える。

なのでこれからは何を書いても一種の「遺言」になってしまう気がする。

たとえば自分が70歳にもなれば、長年服用している安定剤の副作用その他のせいで、健康な人よりも健忘や、悪くすると痴呆が進んでいるのではという不安がある。

それ以前に、この敵意に満ちた世界から毎日受ける圧力に自分の胃腸が耐えられず、ガンになる可能性のほうが高そうな気もする。

それ以前に、あっさり正規雇用から非正規雇用になり、つぶしの効かない労働者になり、最後には路上に放り出され、自分の健康を心配する余裕さえなくなるかもしれない。

僕には自分自身が、英語や中国語、ITのスキルはあるが、「仲良くすること」「波風を立てないこと」がもっとも重んじられる日本企業では利用価値の高くない労働力だという自覚はある。

日々生きていくのに必死という状況にまで追い詰められる前に、病院の管理された環境下で生命を終えるのが、どう考えても最もましな選択肢であることに間違いなさそうなのだ。

周囲の人たちを見ていると、いったい何が面白くてそんなに笑うのか、何を未来に期待して健康管理に精を出しているのか、まったく分からない。

たしかに数か月後くらいに、死ぬよりは生きていた方がいいかもと思えるイベントくらいは、いくつかあるかもしれない。

しかしその日までに毎日経験するイヤなことや日本的組織の同調圧力が、そのイベントを待つのに釣り合わないほど大きいことがほとんどだ。

まして僕が老人になる頃には、日本を含む先進諸国の高齢化が進行して、糞尿垂れ流しのまま放置される恵まれない側の老人になっている可能性が高い。

ふつうの人は物事の暗い側面から目を背けすぎで、明るい面しかみようとしない。その結果、自然災害や病気で突然状況が変わったとき、まさか自分がと思う。

ただこれからの社会は、よほどのお金持ちでない限り、誰もが悲惨な老後を送ることになる。先進諸国の国家単位の社会保障制度が破綻することは目に見えている。最後には国が何とかしてくれるというのは、夢物語もいいところだ。

そういう状況下で、生き続ける意味はどこにあるのだろうか。

…といった疑問を切実に感じずに、毎日を生きられる人たちは幸せでうらやましい、としか言いようがない。