まとめ「めいろま ‏@May_Romaさんを中心として介護の実態を語る経験者達」を敷衍して「自殺パーラー」のことを考えた

正月休みの最終日にtogetterの「めいろま ‏@May_Romaさんを中心として介護の実態を語る経験者達」というツイッターのまとめを読んでテンションが一気に下がったが、めいろまさんの体験者としての主張は全くおっしゃるとおりだと感じた。

また、短期的な問題解決が不可能であることも事実だ。

めいろまさんの挙げている例では、海外ではフィリピンなどから安価な外国人労働者を介護要員として積極的に受け入れて、問題を緩和している国もあるとあったが、日本では既得権益をもつ圧力団体だけでなく、日本語の壁や、そもそも移民を受け入れる素地が社会にないという限界もあるだろう。

ただ一点気になったのは、途中の議論で、子供に手がかかるのは期限付きで、かつ、成長していくという希望があるが、老人の介護は当人が亡くなるまで終わりなく続き、衰えていく一方で絶望しか無い、という論旨の部分だ。

このまとめの一連の議論は、ほぼ老人の介護に論点がしぼられているが、難病患者など他の例も少しだけ触れられている。

当人が亡くなるまで終わりなく続き、衰えていく一方の、何の希望もない介護は、老人だけでなく、治療方法のない難病や、同じく治療方法のない心身の障害を持つの患者さんも含まれる。

うつ病など再発の確率が高く、結果的に無職に追い込まれる神経症も、他人に金銭的負担を強い、自身は何も生産できなくなるという意味では同じだろう。

めいろまさんご本人が意図しているかどうかにかかわらず、この議論の射程には、老人だけでなく、そうした人々も必然的に含まれてしまう。

するとこの議論は、自分は何も生産せず、将来も生産可能な状態に回復せず、他人に金銭的負担を強いるすべての病人について、その存在意義を疑問に付すことになる。

僕自身は、めいろまさんよりもラディカルな考え方で、高齢化が進むすべての先進諸国は「尊厳死」どころか、カート・ヴォネガットJrの小説に登場する「自殺パーラー」を制度化すべきだとさえ考えている。

自分が老人になったときの介護問題を悲観して、死にたくなったら若くても自分の意思で安楽死を選択できる「自殺パーラー」を作れば、自殺したいと思った健康体の人間が、自殺未遂で社会のお荷物になるリスクなく確実に自殺できる。

もちろんその結果、ますます社会全体として高齢化が進むおそれはあるが、それは単に過渡的な現象で、「それでも生き続けたい」という生産意欲の高い人間だけが生き残り、全体として経済規模は縮小しても、単位人口あたりの生産性は確実に上がる。

もっと直接的に言えば、「社会のお荷物」は「自殺パーラー」で安楽死するのが、上記のツイッターのまとめで展開されている議論に対する、もっとも抜本的で身も蓋もない解決策だ。

しかし一方では、どんな生命でもこの世に生まれた以上、生き続ける価値がある、という道徳的価値観がある。痴呆症で暴れまわる老人の命にも、治療不可能な難病患者にも、生きているだけで価値があるという考え方だ。

めいろまさんは、どんな生命にも生き続ける価値があるという価値観を、ばっさり否定するだろうか。この点が個人的に非常に興味がある。

僕はばっさり否定する。少なくとも本人が死にたければ、安楽死の権利と具体的手段(自殺パーラーのようなもの)を与えるべきだと以前からずっと考えている。

他人がどう評価するかにかかわらず、本人が自分のことを社会のお荷物で何の生産性もないとか、生きている意味が無いと考えれば、いつでも安楽死できるような制度をととのえるべきだ。

いや、それは間違っている、痴呆老人にも難病患者にも生きる価値があるというなら、老人介護の実態の悲惨さをさらけ出して悲観的に論じるのは、単なる露悪趣味でしかない。

悲観するなら徹底的に悲観すべきだ。そうやって徹底して悲観した先にたどり着くのは、「自殺パーラー」という解決策以外にないはずだ。

無理やり兵役に行かされるとか、原発事故の後処理に駆り出されるとかではなく、自分の意志で安楽死を選択し、実行できる「自殺パーラー」こそが、徹底した悲観の先にある、ある意味もっとも「道徳的」な解決策のはずだ。

僕自身、仮に「自殺パーラー」が実現したら、ためらうことなく安楽死しに行く。

以上の僕の意見に誤りがあれば、どこがどう間違っているのか指摘してほしい。