自らの「いじめ」に無自覚な大人たちの罪

いじめとは、強い者が弱い者におこなうことだ、という間違った考えはもうやめよう。いじめとは、同じ程度に弱い者どうしが、特定の人物を排除して集団を作ることで、自らの身を守る行為である。
学校でいじめ問題が起こったとき、いじめの犯人を探し出して、最近話題になっているように強制的に出席停止にしたところで、学校に残った集団の中で、また誰かが排除され、仲間の集団が形成される。そうやって子供たちは、集団の中で保身をはかる。
いじめに対する唯一の解決策は、以前ここにも書いたように、集団の構成員を固定化せず、一つの集団から別の集団にいつでも移動できるようにすることだ。
クラス制や学区制はやめる必要がある。
クラス制をやめて、例えば科目ごとに生徒たちが教室を移動するようにする。給食も、例えば直前に座っていた教室でそのまま食べるなど、学校の中で子供たちがつねにシャッフルされるようにする必要がある。
そして、特定の住所に住んでいるからと言って、通う小学校や中学校が一つに決められるという、子供にとって何のメリットもない制度はやめ、少なくとも3、4校から選べるようにすべきだろう。
構成員の流動性をあらかじめ上げておけば、そもそも、集団を形成してその中で自分の身を守る、ということが不可能になる。
特定の人物を排除するためには、その前提として、関係する人々が、ある固定された集団に所属している必要がある。「排除」が意味を持つのは、まず最初にある集団が存在し、その集団の構成員から外される、という場合に限る。
最初から固定された集団が存在しなければ、「排除」という行為が成立しなくなり、少なくとも集団に帰属することで自らの身を守るという方法でのいじめはなくなる。
数十年前に比べて、小中学校のいじめが仮にひどくなっているとすれば、昔は子供たちや、その親たちが、校区にしばられない交流をもつことができる、地域のコミュニティーがまだ残っていたからだろう。
つまり、学校という単位よりも大きな集団が存在したために、いじめがあまり過激にならずに済んでいた、ということだ。
ただ、学校でのいじめがなくなっても、社会人になってからの「集団への帰属による自己保身」はなくならない。
子供たちと違って、大人は生計を立てる必要があるので、いま働いている職場からかんたんに離れるわけにはいかない。したがって「排除」による「いじめ」が作動しやすい条件になる。
大人たちは、じぶんたちのやっていることを子供と同じレベルの行為だと認めたがらないので、「いじめ」ではなく「ハラスメント」というかっこいい名前で呼ぶが、やっていることは子供の「いじめ」と何ら変わらない。
ただ、大人社会のハラスメントは、嫌がらせを行う方が強者、被害を受ける方が弱者という図式で考えられがちだが、これも間違っている。
嫌がらせを行う方は、当然のことだが、その組織に入った瞬間から強者であったわけではなく、強者に成り上がった人物である。その強者に成り上がる過程の一つひとつに、実は、広い意味でのハラスメントが行われている。
組織に入りたての人間は、その組織の中では弱い立場にある。自らの立場を強化するには、組織の中の適切な集団に帰属する必要がある。この時点ですでに「排除」の方法による自己保身が作動している。
それは、社内の同好会であったり、ゴルフ仲間だったり、毎日昼食をいっしょに食べに行く仲間であったり、飲み友達であったり、表面上はごくありふれた「人付き合い」のかたちをとるが、実質的には組織内で特定の人々を排除し、「出世」するための集団形成という機能を持っている。
やっていることは、子供の「いじめ」と本質的に違いはない。
子供の場合は、あまりに素直すぎるので、「排除」の行為が直接的な暴力や、身体的ないやがらせなど、それこそ「子供っぽい」形で現れるが、大人は頭がいいので、多くの場合は無言の同調圧力、精神的に追いつめるなどの方法で、特定の人々の「排除」を行う。
重要なのは、ほとんどの大人が、こうした「人付き合い」を、大人社会では重要なことであり、むしろ望ましいことだと考えて疑わない点である。
子供のいじめ問題をとりあげるテレビ番組が、よく「大人がしっかりしなければ」「大人が子供たちをよく見てあげなければ」と、まるで大人社会が「いじめ」の構造から自由であるかのように語っているが、これはまったくの誤りである。
むしろ大人社会は、集団の同調圧力と、その結果、特定の人々を排除する行為を、「人付き合い」として肯定している。そんな大人たちが、子供たちのいじめの構造的な原因になっている、「集団への帰属による自己保身」を解消できるはずがない。
大人たちは、まさに自分たちが日々、特定の集団に所属することで、自分の身を守るのに汲々としているのだから。
大人社会の「いじめ」は組織の間でも起こる。
典型的なのは発注元企業の社員による、発注先企業の社員に対する、法律にはふれない程度の高圧的な態度。どちらも自分の属する組織の中では、実は弱い立場にある人々であり、一人ひとりは「いい人」である。
ところが、自分の組織で弱い立場であるがゆえに、かえって「自分が所属している組織の利益のため」という口実のもとに、相手の組織の構成員に、ときには無理な要求を突きつけたり、精神的になじるような言葉をくり返したりする。
「自社の利益のため」という立派な口実があるので、大人たちは自分が行なっている「いじめ」を完全に正当化することができる。したがって、ほとんどの大人たちは、日々、自分自身が「いじめ」を行なっているという自覚さえない。
そういう自分の行なっている「いじめ」、つまり「集団への帰属による自己保身」に無自覚な大人たちが、同じ構造で起こっている子供たちの間の「いじめ」を解決できるはずがない。
学校制度を実務レベルで成り立たせている教育現場や、教育委員会などの組織が、同じように「集団への帰属による自己保身」に汲々としている大人たちで構成されているとすれば、子供たちの間のいじめの解決など、望むべくもないのだ。
まずは大人たちが、自ら日々おこなっている「いじめ」を自覚し、その「いじめ」を、自分の所属する集団の利益のためだ、などという口実で正当化していることに気づく必要がある。
ただ、僕は個人的に、日本の大人たちが「組織のため」という口実で「いじめ=集団への帰属による自己保身」を日常的に続けることを、そう簡単にやめるとは思えない。そんな希望を持つほど、僕はおめでたい人間ではない。
なのでせめて、そういう現実に絶望した人間が、安寧な死を選べるような制度を整えてはどうだろうか。
自覚のない大人に自覚を持たせることに膨大な労力をつぎ込むくらいなら、この社会から自らの意思で退場したい人たちは安らかに退場できるようにする方がいいかもしれない。
そうすれば、何十年かたった後、いつの間にか自分たちの社会を動かすのに十分な数の人間がいなくなっていることに気づき、そのとき初めて、自分の「いじめ」に無自覚な大人たちが危機感を持つだろう。
そうでもしなければ、大人たちは目を覚まさないのではないかと思う。