痴呆症になってもなお合理的な人間の悲しさ

ある人から聞いた話だ。
その人の知人であるところの初老の男性が、昔からの男友達の家をたずねたらしい。
その男友達も同年輩で、いまは田舎に隠遁して農業生活を送っているという。昔から田舎暮らしがしたかったかららしいが、実は離婚を経験している。
結婚していた女性は、彼とは逆に都会での生活を好んでいたが、離婚の主因はそのことではない。彼が異常なほど妻の行動を束縛したためだ。
結婚前、その女性は快活で活動的だったが、この男性と結婚した後、ことあるごとに外出や旅行などを禁じられ、あるいは非難され、性格も内向的に変わってしまい、ある時、耐えかねて離婚に至ったらしい。
そして男性は本来の望みどおり田舎暮らしを始め、女性は都会で生活するようになった。
ただ男性は隠遁生活のせいなのか、離婚する前からその兆候があったのか、痴呆症の傾向があるという。
男性の友人がたずねて行ったとき、不注意から男性の田舎家の玄関に紙くずを落としてしまった。その紙くずを見つけた男性は、「こうして誰かが嫌がらせをするのだ」と気色ばんだらしい。
ただ不注意で玄関に落ちていた紙くずを、誰かが嫌がらせのためにわざとそこへ捨てたのだ、というのは、痴呆症ゆえの被害妄想ではないか。これは、この話をしてくれた人の推測だ。
つまり、彼の失敗した結婚生活からして、もともとその男性は心の狭い人物だったかもしれない。妻の行動に細かく口をはさみ、ついには離婚にまで至った。
妻に対する疑心暗鬼と、単なる不注意で玄関に落ちていた紙くずにまで、誰かの悪意を読みとる「被害妄想」は、たしかに通じるものがある。
しかし、僕はこの話を聞いたとき、この男性がなぜ、たずねてきた知人を真っ先に、嫌がらせの犯人だと疑わなかったのか、不思議に思った。
痴呆症であっても、人間の思考は悲しいことに合理的だ。
玄関に落ちていた紙くず一つにまで、なぜそこに紙くずが落ちているのかについて、無意識のうちに合理的な説明をつけようとする。
仮にこの男性が、本当に人間不信に陥っていたのだとすれば、田舎家をおとずれてきた、目の前にいる友人を真っ先に「犯人」と疑うのがむしろ自然だろう。
何しろ彼は、結婚した妻という、もっとも身近な人間の行動さえ束縛するような性格だったのだから、それよりは疎遠な男友達をまず「犯人」と疑って当然だ。
ところが彼は自分の家をたずねてきた友人を疑わなかった。まるで友人を疑うなんて、当然できっこないというかのように、「誰かの嫌がらせ」という説明をつけた。
このことから、彼は軽度の痴呆症ではあるが、親しい人間が自分に迷惑のかかるようなことをするはずがないという、とても合理的な判断をしたことが分かる。
つまり、彼は人間一般に対する人間不信に陥っているわけではないのだ。軽度の痴呆にあっても、友人を疑うべきではないという、倫理的かつ合理的な判断ができているのだから。
とすると、彼の離婚の原因についても、はたして彼が悪意から妻の行動を細かく束縛していたのか、疑わしくなってくる。
たぶん彼は活発な性格だった妻が、自分のような、どちらかと言えば人間嫌いで、田舎暮らしにあこがれるような人間のもとから、いつかは離れてしまうのではないかと、恐れていたのではないか。
彼はひとり取り残されることを、もっとも恐れていたのではないか。逆に言えば、彼は彼女をどうしても手放したくなかったのではないか。
皮肉なことに彼の恐れは、その恐れを解消するという目的にかなった、きわめて合理的な彼の行動を通じて、現実のものになってしまった。つまり彼女は彼のもとから離れてしまった。
それは彼女が悪かったのではない。自分のやり方が悪かったのだ、ということを、彼は理解していた。だからこそ離婚を受け入れた。
彼は人間関係を失いたくがないために、かえってその人間関係を失うことになってしまう。そういう経験をたびたび繰り返していた可能性がある。そして、それがすべて自分の責任であることも理解していたかもしれない。
もし彼が、何か自分に不都合なことがあれば、真っ先に他人の責任にする考えの人間なら、玄関に紙くずを捨てたのは、目の前にいる友人だと責めるのが自然だ。
それをわざわざ「誰か」の嫌がらせという「妄想」に仕立て上げたのは、自分の知っている「誰にも」責任を押し付けたくないという、彼の無意識の望みの現れでなくて、いったい何だろうか。
彼は軽度の痴呆症にあっても、友人の「無罪」を当然のこととして信じている。嫌がらせをしたのは友人ではなく、「誰か」なのだ。痴呆症の彼にとっての「誰か」は、論理的には、誰でもない。誰も悪くない。悪いのは自分なのである。
冒頭のエピソードを何気なく聞いただけでは、「誰かの嫌がらせ」というのは、軽度の痴呆症ゆえの被害妄想であり、痴呆症って怖くて悲しい病気だ、という感想になる。
しかし、彼の離婚のエピソードと合わせて考えてみれば、そこには痴呆症になってさえ彼の中に残っている、ある種の合理的一貫性というか、信念のようなものが見いだせる。
身近な人が自分に悪いことをするはずがない。何か悪いことが起これば、それはまったく知らない誰かのせい、つまり、誰のせいでもなく、自分自身のせいだ。
痴呆症になることが悲しいのではなくて、痴呆症になってもなお、目の前の現象に合理的な説明をつけようとすることの方が、僕にとっては悲しいことに思える。
その説明は何気なく聞くだけでは「妄想」に聞こえるかもしれないが、その人の過去の経験から演繹された、きわめて合理的な結論になっているはずなのだ。