福島香織氏の「紫陽花革命」コラムがあまりに的外れな件

日経ビジネスオンラインにある福島香織氏のコラムが、日本の反原発デモについて、まったく的はずれな非難をしているので、ここで反論しておきたい。
『「紫陽花革命」は通用するか 中国の革命の歴史が示唆する限界』 (2012/07/04 福島香織・日経ビジネスオンライン連載コラム『中国新聞趣聞』)
前半は中国映画『让子弹飞』についてのものだが、この映画を中国の革命史に適切に位置づける知識は僕にはないので、この部分は福島氏の論評を興味深く拝読した。
しかし、後半の日本の「紫陽花革命」、つまり毎週金曜日に首相官邸前で行われている反原発デモについての福島香織氏の非難は、的外れもはなはだしい。
まず福島香織氏の論を引用しつつ追ってみる。

「デモというのは民主主義的な権利の1つではあるが、無数の人が公共のスペースを占拠しシュプレヒコールを上げると言う点で、いつ何時、無秩序化するかわからないリスクをはらむ。普段冷静な人でも暴力的になり得る。警備側の警察と衝突も予想され、そこから思わぬ形で暴徒化することがある」

まず、福島香織氏のこのような「デモ観」が、香港や中国大陸、中東諸国などのデモだけでなく、日本の社会にも当てはまるとする根拠がどこにも示されていない。
また、日本のデモが無秩序化・暴徒化するリスクは、ゼロではないだろうが、日本の「紫陽花革命」が無秩序化・暴徒化するとすれば、それは参加者の中に、もともと無秩序化を辞さない人々、具体的には極左や極右の団体の構成員が混じっている場合だけだろう。
「普通の日本人」ならそう考えるはずだ。
そういった極左や極右の団体とは無関係な「普通の日本人」が、「紫陽花革命」のデモに参加するうちに興奮してきて、警備側と衝突する、などと想像している福島香織氏の考え方は、明らかに「普通の日本人」と感覚がズレている。
「普通の日本人」が興奮して噴き上がるとすれば、せいぜい2ちゃんねるなどのネットで噴き上がるのが関の山だろう。じっさいにデモに参加して、自分の身体をつかって警察や警備と物理的に衝突するなどということはやらない。
極左や極右以外で、自分の身体を使って物理的に警察と衝突すると言えば、あとは政治的なものと無関係なところで、かつて「ヤンキー」「暴走族」「ギャング」と呼ばれたような一部の若者たちくらいだろう。
「普通の日本人が暴徒化しうる」などという「普通の日本人」観を持っている点で、福島香織氏の日本人に対する見方はかなり偏っている、としか言いようがない。
そういうかなり偏った「普通の日本人」観を持っている福島香織氏は、その誤った前提で論を続けている。

「そういう手法を取るということは、ある種の暴力に身をさらす覚悟が求められる」

これも、デモが暴力的になり得るという、日本においては非常に低い可能性を前提条件にした、かなり無理のある断定だ。
あなたが「普通の日本人」なら、首相官邸前の反原発デモに参加している人たちが、「暴力的になり得る」人たちであり、あの人たちには「ある種の暴力に身をさらす覚悟が求められる」などという、突拍子もない扇動的な発想はもたない。
だって、官邸前のデモにしても、先日の代々木公園のいわゆる「十万人デモ」にしても、赤ん坊を抱いた母親や、家族連れで参加している人もいたわけだ。
また、企業の労働組合ののぼりを掲げて参加した組合員もいたそうで、僕もデモには参加しなかったものの、組合員の一人として十年以上前に民主党の選挙活動にかりだされた経験がある。
事実上の「御用組合」と化しており、かつ、組織率もかなり低くなっているような、現代のひ弱な労組の組合員に、いったい警備側と物理的に衝突するような勇気があるだろうか。
普通に考えれば、ありえない。
赤ん坊を抱いた母親にも家族連れにも、なかばレジャー感覚でデモに参加している日本人たちにも、無秩序化したり暴力的になるつもりは、これっぽっちもない。
むしろ、暴力的になるつもり満々の人たちがデモに参加してきたら、なんとか排除したいと思うだろう。彼らがじっさいに警備側と衝突するような騒動になったら、「普通の日本人」はすぐにデモから退散するだろう。
それが「普通の日本人」観ではないだろうか。僕の考え方のほうが、福島香織氏の考え方よりもはるかに「普通の日本人」を的確にとらえていると思うが、違うだろうか。
そして、福島香織氏は、見当はずれな「普通の日本人」観をベースにしているがゆえに、見当はずれな「デモ観」を導き出す。

「そういう手法を取らざるを得ない切羽詰まった社会情勢がないと、デモに参加していないマジョリティの応援や理解は得られない」

前提が間違っているので、結論も間違うのは当然だ。
正しくはこうだろう。
日本のデモ参加者は、他の参加者も自分と同様、デモが無秩序化することを望んでいないことを「空気」で感じとっている。だからこそデモに参加している。
そして、デモに参加していないマジョリティの応援や支援を得ようという意思はあまりない。デモに参加することで、自分が納得できればいいと考えているだけである。
これが日本社会におけるデモに対する、より妥当な見方だろう。
この点については、なぜか福島香織氏は続きの部分で正確にとらえている。間違った前提から、いったんは日本におけるデモについて間違った考え方を導き出して、こんどはそれを自分でひっくり返している。論理性の弱いコラムだ。

「おそらく一般的な日本人は、デモに参加している人が暴力に身をさらす覚悟でいるとも思っていないし、デモ参加者自身もそんな覚悟はないだろう」

うん、そのとおりである。
「普通の日本人」はそれを分かっているからこそ、官邸前の「紫陽花革命」は、マジョリティの応援や支持を得られない代わりに、マジョリティから決定的に忌避されることもないのである。
いわばマジョリティの「空気」をうまく読んだ、適度にぬるいデモになっているのだ。
僕は、ぬるいデモだからこそ日本社会でうまく機能しているので、それの何が悪いのか、と考えるのだが、福島香織氏はぬるいデモがお気に入りでないらしい。

「こういうとお叱りを受けそうだが、その程度のデモが原発稼働を阻止できるとは考えにくい。政府がデモに怯えて政治的決定を覆す状況というのは、暴動化のリスクがあって初めて選択肢に上るのである」

この部分で福島香織氏は、日本の政治的文脈をまったく読み間違えている。日本では暴動化のリスクをおかさない、ぬるい政治的な動きでなければ、逆に、政治的決定を覆す状況を作れないのだ。
そのことは極左や極右の政治団体を見ればわかる。
日本で暴動化のリスクをおかすようなデモを含む政治活動を行えば、「普通の日本人」は公権力がそれらの団体を抑えこむことを大歓迎する。
かつ、上に書いたように、万が一、自分の参加しているデモが暴動化すれば、「普通の日本人」は間違いなくそのデモから逃げ出すだろう。
つまり、暴動化のリスクをおかすような行動をとれば、そもそも日本の政治的決定のプロセスそのものから排除されてしまうのだ。そんな日本社会で暴動化のリスクをおかすようなデモをおこなうのは、単なるバカである。
デモに参加するのも「普通の日本人」だし、デモを傍観するのも「普通の日本人」だし、デモに参加するしないにかかわらず、選挙で投票をおこなうのも「普通の日本人」である。
そして暴動化するリスクをいとわないような政治的活動をする人たちは、そういった「普通の日本人」によって構成される社会からは、排除されるのだ。
このように、デモというものの社会における位置づけが、香港や中国大陸、中東諸国のようなところと日本とでは、まったく違う、ということを福島香織氏は、まったく分かっていない。
福島香織氏は次のように続けている。

「なにも暴動化しそうな激しいデモを行え、と言っているのではない。日本人はリスクを伴うデモ式革命を行わずとも、選挙という民主的手続きで意思を示す手段が与えられている。」

「普通の日本人」はリスクを指向してデモをおこなっているのではない。「普通の日本人」がおこなうデモはリスクを伴わない。というよりリスクを慎重に回避している。
そういったデモは、福島香織氏の主張とは反対に、非暴力的な、ぬるいデモであるからこそ、選挙という民主的手続きと完全に両立する。
「デモか民主的手続きか」という二者択一は、福島香織氏の単なる思い込みである。
日本社会ではこの二つは両立する。というよりむしろ、日本が民主的であるために、非暴力的なデモは必要とされている。
なぜなら、デモの日本社会における位置づけとは、次のようなものだからである。
「普通の日本人」は、ふだんの生活圏、つまり、職場、学校、友だち付き合い、隣近所のお付き合いといった場では、ほとんど政治的な議論をしない。というより、そういう場の「空気」が政治的な議論をすることを許さない。
そのせいで、たまたま原発問題のように、「普通の日本人」であっても政治的な意見表明をしたいと思ったとき、あの官邸前の反原発デモのような、ぬる~いデモは、最適な場なのである。
「普通の日本人」が周囲の参加者の「空気」を読みつつ、自分の政治的意見を表明できる場としては、「紫陽花革命」のような非暴力的でぬる~いデモは、もってこいの場であり、ほぼ唯一の場なのである。
日本社会において「紫陽花革命」は、そういう位置づけにあるのだが、どうやら福島香織氏はあまりに中国の取材歴が長いので、香港や中国の社会におけるデモの位置づけを、誤って、そのまま日本社会におけるデモにも当てはめてしまっている。
そのことは、このコラムの最後の段落に見事に現れている。

「それとも日本も、香港くらい中国化が進み、もはや御用学者や御用コメンテーターしかおらず、良心ある士林は絶え、大衆は革命を扇動する梟雄の登場を待っているというのだろうか。しかし、そのやり方では、当初の理想は荒野に独り取り残されるだけだと、姜文の映画は言っているのだが」

この結びに対しては、「普通の日本人」としては「はぁ?」としか言いようがないだろう。
「普通の日本人」が革命を煽動するような人物の登場を待っているわけがないでしょ、等々。
「紫陽花革命」に参加している「普通の日本人」は、誰も最初からそんなことをまったく望んでいないんですが、等々。
勝手に中国社会におけるデモの位置づけを、日本社会におけるデモの位置づけに当てはめて、まったく見当はずれな分析をしないで欲しいんですが、等々。
(宮台真司の社会システム論の用語を借りると、福島香織氏はデモの機能分析がまったくできていない。デモという事象が、ある社会においてどう機能するかは、社会の構成要素のうち、デモとそれ以外の部分の相互作用によって変動するのであって、デモがそれ自体で、どのような社会においてもつねに同じ機能を果たすわけではない。たぶん福島香織氏は、いわゆる「構造主義」以降の政治学、社会学、哲学などをまったく理解していない)
「普通の日本人」としては、福島香織氏のはなはだしい勘違いに対して、ただただ唖然とするしかない。
追記:
僕と似たような主旨のコラムを、小田嶋隆氏が2012/07/20付けの日経ビジネスオンラインのコラム「ア・ピース・オブ・警句」に書かれているので、ぜひそちらもご一読を。
『官邸前のデモは「無難」。だから効く』 (2012/07/20 小田嶋隆 日経ビジネスオンライン「ア・ピース・オブ・警句」)