大阪繁華街の通り魔事件にみる「尊厳死施設」の必要性

2012/06/10、大阪の繁華街の通り魔事件で2人が亡くなった事件。
この種の無差別殺人の発生率は、日本は決して高くないので、今回の事件が起こったからといって、日本社会で新しい議論が起こる、ということはないだろう。
通り魔事件の容疑者の背景
ただ、僕個人としては、ふたたび「尊厳死施設」について考えずにはいられない。
たとえば2012/06/11のNHKニュースによれば、容疑者(といっても現行犯逮捕なので犯人と言っても差し支えないだろうが)は警察の調べに対し、次のように語っているらしい。

「自殺しようと思ったが死にきれず、人を殺せば死刑になると思った。誰でもよかった」
「先月下旬に服役していた新潟刑務所を出たあと、住む家も仕事もなかった。通帳に最後に残っていた20万円を引き出したところで、『もうこれだけしかないのか』と生きる意欲を失い、自殺を考えるようになった」

また、同日の読売新聞には、大阪府知事の報道陣向けコメントが掲載されている。

『死にたい』と言うんだったら自分で死ねよと(言いたい)。人を巻き込まずに自己完結してほしい
また、府が自殺予防対策を行う立場だが、知事は「(容疑者が必要とするなら)相談窓口に来ればいいし、『行政の支援を受けたくない、この世からいなくなりたい』と言うなら止め用がない」と述べている。

同日の毎日新聞には、容疑者の経歴も書かれている。

礒飛容疑者は栃木県那須塩原市などで育った。
親族の女性によると、父親が同市内で材木店を営み、裕福な家庭だった。3人兄弟の末っ子で、両親や親戚から特に可愛がられていたという。(略)
しかし、礒飛容疑者が小学生の時、母親が病気で死亡。父親も経営していた材木店を廃業し、生活は急変した。その後、父親の新しい勤め先に近い同県下野市に転居した。
中学時代の知人男性によると、礒飛容疑者は高校には進まなかった。地元の暴走族に入り、バイクで暴れ回るようになった。
次第に薬物に手を染めて逮捕されるなど、荒れた生活を送っていたという。

この経歴を読み、今回の通り魔犯行の直前まで、「覚醒剤取締法違反罪で新潟刑務所に服役し、5月下旬に出所した後、本籍地の栃木県内にしばらくいた」(産経新聞)ことからすると、容疑者は完全にこの社会に居場所を失っていたことは明らかだ。
容疑者はたぶん、社会制度について十分な知識もなく、刑務所生活が長ければ、「死にたい」と思ったときに「死刑」という短絡的な発想しかできなかったのだろう。
「死刑」になるためには他人を巻きぞえにしても仕方ないと考え、犯行に至ったのは、この容疑者が要するに頭が悪かったからだ。
自殺か、死刑になる犯罪かの、二者択一は倫理的か?
こういう事件を見るにつけて、もしも合法的な公営の「尊厳死施設」あるいは「安楽死施設」、つまり自分の意思で自殺ができる施設があれば、亡くなった2人が巻き添えにならずにすんだのにと、真剣に考えてしまう。
この容疑者のように、完全に社会からはじき出され、生計を立てる手段もなく、生きつづける意思も失っている人間に対して、十分な予算をつけて自殺予防対策も講じないし、自殺を合法的に幇助することもしない。
こういう社会制度では、社会から決定的に排除された人間に、自殺するか、死刑になるような犯罪をするかの、二者択一を迫っているのと同じようなものだ。
これでは、容疑者と似たような立場におちいった人間のうち、一定の人数が、「死刑が確実な犯罪をする」のを選ぶことは避けられない。だって、「自殺」と「死刑」以外の、第三の選択肢がないのだから。
僕は、これは明らかに社会制度の不備だと考える。
合法的な自殺幇助、つまり「安楽死施設」は、今回のような通り魔事件という最悪の結果を避けるために、制度として必要なものではないだろうか。
ただし、自殺幇助を処罰しないように刑法を変えるだけでは、それはそれで、自殺幇助に見せかけた殺人が続々と起こる結果になる。
したがって、「尊厳死施設」あるいは「安楽死施設」を、国が責任をもって運営するための法律を、刑法とは別に制定するのが望ましい。位置づけとしては厚労省の管轄だろう。
たとえば、憲法第二十五条の生存権は、本人が生存を望んでいる限りにおいて、さまざまな法制度によって守られるべきだが、本人が生存を望んでいない場合は、逆に尊厳死や安楽死を選べるようにすべきだと、僕は考える。
本人が生存を望んでいない場合は、主権者である国民の代表者が運営する、つまり国務大臣配下の省庁が運営する施設が、その自殺を幇助することは、違憲ではない(したがって刑法にも違反しない)、という法解釈ができないのだろうか。
生活保護制度と「尊厳死施設」
ところで、先日のお笑い芸人の問題をきっかけに、生活保護制度を見直そうという機運が高まっている。
不正受給は論外として、本当に生活保護が「最後の手段」になっている人たちの中には、「生活保護を受給してまで生きつづけたくない」と思っている人も、いくらかの割合でいるはずだ。
そういう人たちを、憲法の定める生存権にもとづいて、本人の意思に反して無理やり生き続けさせることが、はたして倫理的なのか。
現状、「尊厳死」あるいは「安楽死」が認められる状況は、あまりに限定されすぎている。
病気や事故で、医学的に打つ手がなくなった場合にしか認められておらず、その場合でも極めて慎重に判断される。
もちろん「尊厳死」にさえ反対している人たちもいる。
そもそも生命というものは、人間が作る社会制度の枠内におさまらないものだという倫理的な考え方も、僕には理解はできる。
ただし、それを言うなら、いくらコストがかかってでも、あらゆる人間が一秒でも長生きすることを「強制」するような社会制度を作るべきだが、果たしてそんな高コストな社会制度は現実的だろうか。
とくに人間自身が、世界中で自分たちの生きる環境をさまざまな方法で破壊せざるを得ないような状況が不可避であるような現実において。
人間は神のように全知全能ではない。
その人間が作る社会制度は、残念ながら、今回の通り魔事件の容疑者を含め、すべての人間が幸福に暮らせるようにすることは、原理的に不可能である。
であれば、人間は自分たちが全知全能ではないことを認めて、自分たちが作っている不完全な社会制度からの「出口」を用意するのが、不完全な存在としての、ある種の倫理的立場とは言えないだろうか。
つまり、こういうことだ。
われわれ人間には、完全な社会などそもそも作れません。なので、そんな不完全な社会ではどうしても生きていけないとなったら、無理に生き続けろとは言いません。自分の意思でこの「出口」から出ていくこともできますよ。
それが、僕のイメージする「尊厳死施設」あるいは「安楽死施設」である。
もし「尊厳死施設」が実際にできたら
この「尊厳死施設」の最大のメリットは、日本政府に本気で「尊厳死施設」へ行く人間を減らそうという動機づけを与えられる点にある。
現状、すでに日本では毎年3万人が自殺している。これは記録の上で公式に自殺と認定された人数なので、現実にはその数倍が自殺しているはずだ。
また、警視庁の統計によれば、3万人のうち約4分の1が被雇用者である。2011年の自殺者32,155人中、「無職者」は18,074人、「被雇用者・勤め人」は8,207人となっている。
国営の「尊厳死施設」を作れば、被雇用者が無職者になる前の段階で「尊厳死」を選ぶ可能性が高くなるので、労働人口が毎年10万人単位で、コンスタントに減るはずだ。
これは、当然の帰結として、日本社会の少子化にさらに拍車をかけることになる。
警視庁による2011年の自殺者の年齢構成を見ると、幸福な人生を送っていれば、子供を持ったかもしれない、20歳~39歳の男女は計7,759人。自殺者全体の約4分の1を占める。
「尊厳死施設」を利用するのに、たとえば未成年は利用を禁止するなどの年齢制限をするとしても、日本社会の労働力の数パーセントが、毎年「尊厳死施設」で安らかに死んでいくという事態は、ムリのある想定とは言えない。
日本社会の「生きづらさ」は、「尊厳死施設」を作ることで、労働人口の減少という結果をダイレクトに産みだすだろう。
合理的に考えれば、こうなることが分かっているのに、今回の通り魔事件の容疑者のように、完全に社会に居場所がなくなった人間を放置するのは、容疑者個人の問題というよりも、明らかに日本社会の制度上の欠陥である。
その対策はおそらく三つある。
一つめは、たとえ前科者であっても、あるいは社会に適応できない人間であっても、社会から完全には排除されないように、社会の包摂性を上げる何らかの制度を作ること。
二つめは、社会から完全に排除された人間が、安心して社会から退場できる「出口」を作ること。つまり「尊厳死施設」を建設すること。
三つめは、何もしないこと。
ただ、残念ながら一つめの「社会の包摂性を上げる」ことは、少なくとも今の日本社会を見ている限り不可能だと思われる。その典型が、先日のお笑い芸人の生活保護受給問題に対する世論の反応だ。
これだけ社会の許容度が下がっている状態で、社会の包摂性を上げるような制度改革などできるわけがない。
したがって、後者の「出口」を作る対策、つまり国営の「尊厳死施設」を作って、社会から完全に排除された人間が、自由意思で、苦痛なく自殺できるようにするのが、唯一の有効な対策になる。
言うまでもなく、現実の日本社会は、三つめの「何もしない」ことを選択している。
その結果が、秋葉原の無差別殺人だったり、今回の通り魔事件のように、無関係の第三者を巻きこんだ一種の「無理心中」である。
個人的には、国営の「尊厳死施設」については、早めに検討を始めた方がいいと考える。
少子高齢化と家族の解体、地方の高齢化などで、いったん社会から排除された人間を、一定水準の生活に復帰させるためのセーフティーネットは、年々失われていく。
すると、今回のような無関係の第三者を巻き添えにする「無理心中」は、老々介護の心中など、肉親どうしの「無理心中」とともに、少しずつ増えていくはずだ。
生き続けたい人たちの生存権を守るためにも、生き続けたくない人たちの「尊厳死」「安楽死」権を制度的に確立することが、そろそろ人間社会には必要なのではないか。
そうでなくても、人間社会は、地球規模で考えると、確実に緩慢な自殺をすでに選択しているのだから。