宇宙的な時間枠では、人間は生きていると言いがたい

今日は金環日蝕ということで、会社が自社ビルの屋上を定時の1時間半前から特別に開放するという通知が以前から出ていた。
会社の付き合いだけならさらさら行く気はなかったが、自宅の窓やベランダよりはるかに高くて観察に向いていることは明らかだし、いつも会社には定時の20分前に着くので、少し早起きすればいいだけだ。
そういうわけで先週買っておいた観察用フィルムをもって屋上で、すでに金環日蝕の終わった日蝕を観察した。金環日蝕は7時台にすでに終わっていたが、朝一番に来てしっかり観察した人もいたらしい。
日本の広い範囲で金環日蝕が観察できる状態は、100年単位でしか実現しないらしい。
去年の福島第一原発事故の後、放射性物質の半減期ということを何度も聞かされて考えたことだが、例えば放射性セシウムが人間にまったく害を及ぼさなくなるまで、数百年の単位で時間を俯瞰すると、ほとんどの人間は存在しないことになる。
というのは、数百年のスパンで見ると、ほとんどの人間はその間に生まれて死んで行き、その時間枠の両端に引っかからないからだ。
宇宙のもっと長い時間枠で考えると、人間は生きているのかどうかさえ分からないくらい、一瞬にして生まれて死んでしまう。
太陽が空の同じ位置に戻ってくるまでを1日とし、それを86,400に分けた1秒を、ふつうの生活の最小の時間単位として生きるルールにしたのは、まったく人間の主観的な都合にすぎない。(特殊な仕事をしている人たちや、アスリートは、さらに細かい単位の時間に生きているけれど)
人間として生きていて、一生がイヤに長く感じるのは、わざわざそうやって時間を小刻みにしているからだけのことだ。宇宙的な時間の尺度で見れば、すべての人間はほとんど生きているとさえ言えない。
生きているとさえ言えないような一瞬の時間について、なぜここまでわずらわしい思いをしなければいけないのか。それが最大の謎だ。