「鬼束ちひろ」の過去の虚像から最も不自由なのは誰か

今月発売の『BARFOUT!』巻末に鬼束ちひろのニューカバーアルバム『FAMOUS MICROPHONE』についてのインタビュー記事が掲載されている。
先日このブログで、鬼束ちひろの言う「王道」はもはら無数の「サブカルチャー」の一つでしかなく、現代に「王道」と呼べる「メインカルチャー」はいかなるかたちでも存在しえない、と書いた。

それを証明するかのように、彼女の今回のカバーアルバムを大々的にインタビューでフィーチャーしている雑誌は、れっきとしたサブカルチャー誌である『BARFOUT!』のみ。
同じ201号には、平野綾、May’n、カジヒデキまで登場する。そういう『BARFOUT!』がサブカル誌ではなく、「王道」のメインカルチャー誌だと言いはるのは詭弁だ。
まして同じく5月発売の「本邦初のタトゥー専門情報誌」『TATTOO BURST』の巻頭を、女優であり写真家でもある松田美由紀の撮影・インタビューによる鬼束ちひろの記事が飾っている。
「本邦初のタトゥー専門情報誌」も絶対に「王道」のメインカルチャー誌とは言えない。出版社はボーイズラブから、グラビア誌や、いわゆる「実話」誌まで、さまざまな筋金入りサブカルチャー誌を出版しているコアマガジン社だ。
『BARFOUT!』のインタビューで、鬼束ちひろが『FAMOUS MICROPHONE』に寄せたことば「批判するわけではないけれど、/サブ・カルチャーが流行りとされている/この世間で、王道を行く。/私、鬼束ちひろはいつの時でも/そういう歌を歌い、そういう歌のように/生きています。」について、彼女は同じ趣旨のことをくりかえしている。
そして立派なサブカル誌である『BARFOUT!』の編集長・山崎二郎氏は「耳が痛い」と謙遜している。
鬼束ちひろは、その聞き手としての編集長の謙遜に、気づかないフリをしているのか、本気で自分が「王道」であるメインカルチャーを歩んでいると信じているのか、僕には分からない。
しかし、本物のタトゥーを入れるということは、少なくとも日本ではいかなる意味でもメインカルチャーとは言えない。
僕はタトゥーを入れる行為そのものが悪だと言いたいのではない。タトゥーを入れるのは完全に個人の自由で、誰にもそれを止める権利はない。
しかし、タトゥーを入れるというやや特殊な行為だけでなく、たとえば僕らが単にいつものように朝食をとるとか、休日に友だちに船を出してもらって釣りに出るとか、量販店で50インチの液晶テレビを買うとか、そうしたすべての行為は、自分自身だけで完結せず、必ず何らかの社会的な意味を否応なく帯びてしまう。
僕らの食べる朝食の食パンが、代官山で買った一斤350円のものか、100円ショップで買った105円のものか。牛乳が高温殺菌されたものだとすれば、なぜ低温殺菌の牛乳が手に入りにくくなったのか。
休日に友だちに船を出してもらう、その船を運転している友だちが、なぜ船舶免許をとることができたのか。
量販店で買った50インチの液晶テレビは、国産か、韓国産か、それ以外の国のメーカーのものか、そしてじっさいにどこで生産されたものか。そもそもなぜ19インチではなく、50インチでなくてはならないのか。
そうしたことはすべて、自分と社会との関係において、かならず何らかの原因を持ち、帰結をもたらす。
原因とよべるほど因果関係がはっきりしなくても、僕らの日常の一挙手一投足は、それに先立つ社会と自分との相互作用がある。「考えるのが面倒だったので、ただ何となく」という理由もふくめて。
そして、僕らの地上の一挙手一投足は、その後に起こる社会と自分との相互作用を必ずともなう。社会に何の反応も起こさなかった、という作用もふくめて。
タトゥーを入れるという行為には、とても残念ではあるけれども、現代の日本社会では行動が否応なしに狭められるという結果を生む。
たとえ社会の不寛容の側に非があると文句を言ったところで、現実として認めざるを得ない帰結だ。社会通念はたった一人の人間に、かんたんに変えられるようなものではない。
大阪市の職員も、職員である前に一人の市民であり、タトゥーを入れるのは完全に個人の自由だ。ただ、橋下という人物が市長である事実をかんたんに変えることはできない。変えるのであれば、それなりの戦略や狡猾さが必要だ。
それを持ち合わせていないなら、より寛容なコミュニティーに移住するか、社会の寛容さを獲得するための「運動」をするしかない。
残念ではあるけれども、まことに残念ではあるけれども、いまの日本社会で体のあちこちにタトゥーのある女性歌手が「王道」を歩むことはできない。
くり返しになるが、そういう日本社会の不寛容を恨むなら、その社会を変えるよう努力をしなければならない。
ただ「自分は王道を行くアーティストだ」と宣言するだけでは、単に、自分しか見えておらず、社会が見えていない人物という評価をうけるだけだ。
あるいは、「自分はかつて王道だったサブカルチャーを生きるアーティストだ」と、正直に宣言するのがよい。
鬼束ちひろが『月光』でスターダムにのし上がって、その後再起を果たすまでに失ったものは、作り上げられた虚構としての「鬼束ちひろ」の名声だ。
鬼束ちひろがよく言う「Aラインの洋服ばかり着せられて『清楚』なイメージをつくられた虚像」としての「鬼束ちひろ」は、まさに彼女の言うとおり、単なる虚像である。
鬼束ちひろは彼女自身の個性を失ったわけではない。実体のあるものを失ったわけではなく、単に他人の作った虚像を失っただけである。
つまり彼女自身は、実は何一つ失っていないのだ。逆に、彼女自身を取り戻したのである。
にもかかわらず、鬼束ちひろは、いまだに自分自身が何か実体のあるものを失い、それを取り返すために何かをしなければならないと、誤って思いこんでいる。
例えば、彼女がもともと、デビュー時に作られた虚像とは無関係な仕方で音楽を愛していたのなら、歌うためのエネルギーの通り道として、自分の体に新たなものを付け足す必要はまったくないはずである。
なのに彼女は、そのために左腕にタトゥーが必要だったと、いまだに語りつづけている。
結局のところ、他人が作り上げた虚像を、いまだに実体のあるものだったと、もっとも強く信じ続けているのは、鬼束ちひろ自身ではないのか。
いまだに『月光』ころのイメージを、鬼束ちひろの実体だと勘違いしている人々とまったく同じように、鬼束ちひろ自身もその虚構を実体だといまだに信じて、それが「失われた」という喪失感を抱いている。
喪失感がないのであれば、鬼束ちひろはただデビュー前の自分にもどれば十分であって、そこに何かを付け足す必要はないはずだからだ。
僕が今の鬼束ちひろについて、よく理解できないのはこの点なのである。
単にデビュー前の彼女にもどって、彼女の原点であるさまざまな洋楽を歌い、それらにインスピレーションを得た曲を作ればよい。彼女がなすべきことは、きわめてシンプルであるはずだ。
それを、なぜわざわざ日本の多くの聴衆に嫌悪されるような、余計な装飾、つまりエキセントリックなファッションやアイメイク、タトゥーのようなものを、意図的に付け加える必要があるのだろうか。
あるいは彼女はやはり真面目すぎるのかもしれない。
虚像であっても、それがいったん聴衆に受け入れられれば、それを実体として甘受するのがアーティストである。
真面目な鬼束ちひろはそう考えてしまうからこそ、かつての「鬼束ちひろ」を実体とみなして、それをふり払うために余分な力をふりしぼらなければならないのかもしれない。
でも、自分が過去の虚像に縛られていることを、エキセントリックなファッションやアイメイク、タトゥーのような「目に見えるもの」で、わざわざ今の聴衆に見せる必要はないだろう。
例えば今回のカバーアルバム『FAMOUS MICROPHONE』で、初めて鬼束ちひろというアーティストに出会う若者もいるかもしれないではないか。
そういう若者が目にする鬼束ちひろが、過去の虚像からの離脱しようともがいているアーティストである必要はまったくない。ありのままに、そこで歌っているアーティストであればよい。
過去の「鬼束ちひろ」という虚像にいちばんこだわっているのは、昔からの鬼束ちひろファンでもなく、これから鬼束ちひろと出会うかもしれない若者でもなく、ほかならぬ鬼束ちひろ自身のような気がするのだ。