「ゆる~い」テツガク的なもの、例えば「断捨離」のような

いつものように日経ビジネスオンラインの小田嶋隆氏のコラムを読んでいたら、画面右側の広告枠に大きく「断捨離」の文字があったので、思わずクリックしてしまった。
トップページを見ても意味不明なので、下記のページでメールマガジンのバックナンバーをいくつか読んでみた。
『新着情報 断捨離 やましたひでこ公式サイト』
書かれてあることは、とてもまともだ。
僕は「断捨離」というのは単なる「片付け術」だと思っていたが、メールマガジンには、「質問の中にちゃんと【答え】がある」とか、「他人は自分の心を映す鏡である」とか、とてもテツガク的なことが書いてある。
問題は、多くの日本の大人が、こういうごく基本的なテツガク的知識を教育されないまま、大人になっていることにある。
「断捨離」のメールマガジンに書いてあるようなことは、たとえば岩波文庫の「青」シリーズから、西洋哲学の古典とされるものをいくつか読めば書いてある。
西洋哲学の例をあげたのは、僕が個人的に西洋哲学以外の哲学に詳しくないからだけで、きっと、仏教やイスラム教などの哲学書にも、同じようなことが書いてあるはずだ。
古代以来のさまざまな哲学思想は、人類にとって貴重な財産だ。大人になる前に、それらにひととおりふれておくことは、生きるための基本的な「技術」を身につけることである。
哲学の実際的な効用は、「断捨離」のメールマガジンで書かれている「俯瞰」の視点を身につけられることだ。
僕が学んでいた西洋哲学のことばを使えば、自分がじっさいに生きているこの世界での、さまざまな体験、感覚、知覚、判断、意見などなどを、すべていったん「かっこに入れる」ことだ。
常識的にどう考えても「悪」であることも、いったん「善」か「悪」かの判断をやめる。個人的に腹立たしい出来事も、いったん個人的な怒りの感情を留保する。その出来事そのものをよくよく観察してみる、などなど。
そうすると、「かっこに入れた」自分の体験、感覚、知覚、判断、意見などを、まるで他人の視点から見ているかのように、見つめなおすことができる。
ただし、その「他人の視点」というのは、「客観的」な視点ではない。一人の人間はどこまで行ってもほんとうに「客観的」な視点など手に入れられない。
せいぜい、無数の可能性を考えてみることで、だんだんとほんとうの「客観性」に近づくことができるだけだ。誰もほんとうの「客観性」を主張することはできない。
あらゆる個人的な「考え」を、かたっぱしから「かっこに入れる」ことで、自分の考えに明らかに限界があることを知る。そしてある種の「あきらめ」の境地に達した後、またふつうの日常生活にもどってくる。

こういった思考の訓練が、哲学の実際的な効用だ。
その結果、必ずしもまともな大人になれるとは限らない。しかし、少なくとも「自分はまともではない」ということを自覚をしつつ「まともでない大人」になることができる。「自分はまともだ」と信じ込んでいる「まともでない大人」ほど、やっかいな存在はない。
「断捨離」について僕が危ないと思うのは、次のような点だ。
大人になる前なら、そうした哲学的な思考の訓練をくりかえすことで、個人的な「考え」をほんとうに「かっこに入れる」ことができる。
しかし、大人になるまでその訓練を一度もしたことのない人が、大人になってから「断捨離」のような「ゆる~い」テツガク的なものに触れると、間違った使い方をしてしまうおそれがある、という点だ。
この「ゆる~い」テツガク的なものには、「断捨離」だけではなく、テレビのバラエティー番組に登場する占い師や僧侶の言葉もふくまれる。
間違った使い方とは、本来は自分の個人的な「考え」を徹底して「かっこに入れる」べきであるのに、逆に、自分の個人的な「考え」を正当化するために、それらのテツガク的なものを利用する、ということだ。
ほんとうの哲学が、個人的な「考え」を徹底して「かっこに入れ」ていくと、その果てにあるのは、自分が現実に生きているということさえ疑わしくなるような、一歩間違えば、自殺したくなるほどの絶望のとなりにある場所だ。
しかし、「断捨離」のようなテツガク的なものは、そこまで厳しくない。とても「ゆる~い」。自分が生きているという事実まで疑わせるようなところまで、人を追いつめない。
それは当然と言えば当然だ。「断捨離」にしても、テレビのバラエティー番組で語る占い師や僧侶にしても、基本的に聞く人たちを安心させるために語っている。
「なるほどそういうことか」「肩の荷が下りた」「楽になりました」などなど、そういう反応を期待して、彼らは語ったり書いたりしている。
でも、ほんとうの哲学は容赦ない。読者を安心させることが目的ではない。かんたんに答えを与えてくれない。永遠に解答を与えられない質問の中に、読者を放り込んだままにする。安易ななぐさめはない。
ただ、そうした哲学を大人になるまでに教養として学ぶことで、そうした救いようのない深淵が、自分が生きている現実のすぐとなりに、黒々と口を開けていることを前もって体験できる。
その深淵を前にすると、「ゆる~い」テツガク的な考えを利用して自分の個人的な「考え」を正当化し、安心すること、肩の荷をおろすこと、楽になることが、単なるごまかしであることがわかる。
もし「断捨離」がほんものの哲学なら、かならず「断捨離」は最終的に「断捨離」そのものを否定するところまで行く。または、何らかの「神さま」のようなもので自分を根拠づけるところまで行く。哲学の言葉でいえば、かならずどこかで「無限」にふれる。
しかし「断捨離」はそうなっていない。
「モノへの執着を捨てるが最大のコンセプト」「心もストレスから解放されてスッキリする」など、テツガク的な見かけをしているけれども、人々に安心を与えることが目的で、答えのない問題を考えさせることはない。
テツガク的な見かけをしたもので、人々は安心を得る。少し考えを変えるだけで、自分は正しく考えられるようになったと、自信を得る。
一方、ほんとうの哲学は、永遠に答えのでない問いを、死ぬまで問いつづけなければいけない。自分自身をかんたんに肯定することなどできない。
「断捨離」のようなテツガク的な見かけをしたものに熱心になるのは、もちろん人それぞれの自由だけれど、それが正しい答えを与えてくれるわけでもないし、それによってほんとうに「俯瞰」的な見方を得られるわけでもない。
一時的ななぐさめに過ぎないし、ともすると、まったく根拠のない自信をもつ、やっかいな人になってしまう危険がある。
不要なものを片付けているつもりで、じっさいにはタンスにあったものをクローゼットに移し、クローゼットにあったものを押入れに移し、押入れにあったものをタンスに移し、結局、モノの配置が変わっただけで、まったく片付いていない、というハメになるかもしれない。(これは村上春樹の小説『1Q84』の中に出てくる表現を借りている)
ストレスから解放されるつもりで、じっさいには無意味にモノの配置を入れ替えているだけで、ストレスを維持しているだけになっているかもしれない。
この種の「ゆる~い」テツガク的なものを、単なる生活の知恵だと割り切ることができず、そこに何か深い思想のようなものを見てしまう人は、できるだけ早く遠ざかるべきだ。
自分で自分を凝り固まった考え方に「洗脳」し、わざわざ視野を狭くするようなものだから。