鬼束ちひろの着地点はあるか?

今回は、鬼束ちひろの着地点について書いてみたい。
2012/05/30に鬼束ちひろによる洋楽カバーアルバム『FAMOUS MICROPHONE』が発売される。その発売に彼女は以下のようなコメントを寄せている。

このアルバムには、タイトルのとおり、「有名なマイク」が収められています。批判するわけではないけれど、サブ・カルチャーが流行りとされているこの世間で、王道を行く。私、鬼束ちひろはいつの時でもそういう歌を歌い、そういう歌のように生きています。

このコメントの「王道」は「サブ・カルチャー」に対するメイン・カルチャーと理解していいだろう。鬼束ちひろは、自分があくまで「王道」であるメイン・カルチャー側のアーティストだと語っている。
しかし現代に「王道」と言えるメイン・カルチャーはもはや存在しない。無数の「サブ・カルチャー」どうしが横並びで存在しているだけだ。
おそらく鬼束ちひろが想定する「王道」とは、西洋の、それも主に英国と米国のポップカルチャーのことで、そこには典型的にはディズニーやハリウッド映画が中心的な位置を占める。また『SEX AND THE CITY』や『LOST』などの米国のTVドラマも含まれるだろう。

日本国内の具体的な場所で言えば、次のようなものになるだろう。
ディズニー・ランドやユニバーサル・スタジオのようなテーマパーク。costcoのような会員制ホールセール・ストア。マクドナルドやバーガー・キングのようなファストフード店。米国資本の映画会社が経営するシネマコンプレックス。スターバックスのようなカフェ、などなど。
これら米国文化は、確かに1980年代後半くらいまでは、日本国内のポップカルチャーの「王道」だったかもしれない。
映画で言えば、米国ハリウッドだけでなく、英国発の『007』シリーズも日本国内で高い興行収入をあげていた時代までである(ちなみに僕は小学生のころ『007』シリーズの大ファンだった)。
しかし、1990年代以降、英米発の映画、音楽、TVドラマなどは、1980年代以前にこれら英米系のポップカルチャーで育った人たちの懐古趣味、「かつての王道」になってしまう。
映画では水野晴郎(1931年生)が語るハリウッド映画の魅力、音楽では小林克也(1941年生)が語る1980年代以降のビルボード・チャートが、「かつての王道」だった英米系ポップカルチャーの代弁者だ。
「王道」は懐古趣味になった途端、「王道」ではなくサブ・カルチャーになる。
マドンナなどの例外は存在するにしても、シンディ・ローパーなど1980年代以前のビルボード・チャートをいろどったアーティストは、もはや現役で生き生きと活躍する存在ではない。
ニルヴァーナなどのオルタナ以降のロック全般、ポップスのなかでもレディー・ガガなどに至っては、明らかに限られた聴衆にしか受け入れられない「サブカルチャー」のアイコンであることは明らかだ。
その最大の理由は、1990年代以降、音楽では日本国内で英米系のポップスとは違うJ-POPの巨大な市場が成立し、国内需要だけで成立するアーティストが無数に生まれたことにある。
1980年代までの日本の音楽シーンは、1970年代以前から活躍をつづけるフォークやニューミュージック系のアーティストと、国民的アイドルと、国民的演歌歌手が支配していた。
しかし1990年代以降は、それらのどこにも属さない「アーティスト」として、さまざまなソロ歌手やバンドが次々にミリオンヒットを出す時代になった。Mr. Children、ドリカム、浜崎あゆみ、ZARDなどなど。
J-POPというジャンルの登場で、ビルボードのヒットチャートに代表される英米系ポップスやロックを聴かない層が生まれ、英米系の音楽全体がサブカルチャー・シーンに後退した。
映画にも同じことがいえる。
それまで主にハリウッド映画と、巨額の予算と広告費を投じた角川映画を典型とする国内映画作品の、ほぼ二種類しかなかった映画に、二つの新しい流れが生まれた。
一つはミニシアターで上映される英米以外の国の外国映画作品。
もう一つは周防正行(1956年生)や矢口史靖(1967年生)などを典型とする、角川の手法を小ぶりにしたような、TVドラマとも連動したメディアミックス展開をする国内映画作品が多数製作されるようになったこと、である。
メディアミックス展開する国内映画には、アニメ作品も含まれる。
スタジオ・ジブリ作品はもちろんのこと、1980年代から劇場版が作られた『ドラえもん』をはじめ、『クレヨンしんちゃん』や『セーラームーン』など、1990年代以降、劇場版が制作されるTVアニメシリーズが増えている。
ハリウッド映画が「王道」たりえた時代は、日本各地の繁華街にある巨大スクリーンに、その時期の主要作品がドカンと上映される、というパターンだった。だからこそ英米系の映画が「王道」たりえたとも言える。
しかしミニシアターの登場や、シネマコンプレックスの普及によって、ハリウッド作品は、小さなスクリーンで上映される無数の作品のうちの一つに過ぎなくなる。
このように、音楽にしても映画にしても、かつてメインカルチャーだった英米系のポップカルチャーは、今ではすっかり多数の選択肢のうちの一つになってしまった。
日本のポップカルチャーだけでなく、韓国発のポップカルチャーなども含めた選択肢の中の一つにすぎない。
多くの選択肢の一つにすぎなくなった英米系のポップカルチャーは、もはや「王道」とは呼べない。
鬼束ちひろの『FAMOUS MICROPHONE』の収録曲を見ても、明らかに今となってはサブカルチャーとなってしまった、かつての「王道」以外のなにものでもない。
そもそも現代のポップカルチャーに「王道」という中心は存在しない。当然といえば当然だ。
問題は、鬼束ちひろが「王道」が現代にも実在すると信じていることにある。
無数のサブカルチャーの島宇宙が、横ならびで存在する現代に、もはや「王道」など存在しないのに、支配的な「王道」(=「王」とはまさに支配者なわけだが)が存在すると誤解していることが問題なのだ。
それは、鬼束ちひろ自身の最近のファッションが、「王道」の自己否定であることからもわかる。エキセントリックな洋服や体中のタトゥーは、「王道」ではなく完全にサブカルチャーだ。
ウソでも「王道」を標榜するなら、鬼束ちひろのファッションは、少なくとも最近のシンディー・ローパー程度には物わかりのいいもののはずである。
もちろん、僕は鬼束ちひろの今のファッションがダメだと言いたいのではない。徹底してサブカルチャーを追求するのは、鬼束ちひろの自由だ。
しかし、実際にはサブカルチャーであるものを、「王道」だと言い張って、自分自身や潜在的なリスナーたちにウソをつくのはやめた方がいい。
自分が正しいと思って選択したものに、いちいち「サブカルチャー」ではなく「王道」だなどと語り、まるで外部の権威を借りて理由づけをするようなやり方は、いさぎよくない。
なぜシンプルに「私の大好きな曲たち」と言い切らないのだろうか。
わざわざ、まるでそれが今なお「王道」として世界を支配していると言いたげに「FAMOUS」という形容詞をつける必要があるのか。
そこに、いまだに残る鬼束ちひろの屈折があると思う。もちろん屈折があること自体、悪いことではないが、屈折がある限り、鬼束ちひろが今の音楽シーンにうまく着地できる場所は存在しないだろう。