池上彰氏と齊藤誠氏の、原発ついての虚しい理想論

日経ビジネスオンラインの下記の記事、正論だけれど、完全にムダな議論だと思う。
『再開にせよ撤廃にせよ、未来のため原子力技術の蓄積が不可欠 経済学者・齊籐誠さんに聞く~「原発事故」編【その3】』(2012/05/07 日経ビジネスオンライン「池上彰の『学問のススメ』」)
なぜ完全にムダかといえば、いわゆる「原子力ムラ」だけを日本の社会から切り離して、根本的な改革ができるという前提に立っているからだ。
この池上彰氏と齊藤誠氏の対談は、原子力発電そのものがブラックボックス化してしまい、外部からの適切なチェックがはたらかなかったことが、去年の福島第一原発事故をまねいたと論じている。
例えば東京電力に融資していたメガバンクは、東京電力の内部で、原発についてのリスクマネジメントがしっかりしているか、チェックしていなかった。
東京電力の内部でも、原子力関係の部門は専門分野として孤立した状態にあり、他部門が意見しづらい状況があった。
別の例として、オリンパスの損失隠し事件でも、財務部と技術系部門がばらばらに孤立しており、財務部の人たちに対する社内のチェックさえはたらかなかった側面があったのではないか。
企業がリスクマネジメントを徹底する上では、専門的な技術だけでなく、誰もが想定できるような「常識的な疑問を、組織の中でおたがいにぶつけ合える風土があるかどうかが重要だ。
…などといったことが論じられている。
齊藤誠氏は、使用済み核燃料については、再処理をあきらめ、全量を直接処分するという現実的な提案をしている。これはまったくその通りだ。
今後、何十年もかけて原発を廃炉にするためにも、原子炉工学の技術者の育成が必要、という主張もまったくその通りだ。
しかし、この二人の対談は、あまりに楽観的すぎる。
いわゆる「原子力ムラ」の閉鎖性や、東京電力やオリンパスの風通しの悪い企業文化といったものは、日本社会の全体と切り離して、そこだけを根本的に改革できるような性質の問題だろうか?
いや、決してそうではない。
日本社会のいたるところに見られる閉鎖性は、いわゆる「原子力ムラ」や、特定の企業に限った問題ではない。日本社会そのものが、過去、数百年にわたって作り上げてきた社会の、本質的な性格によるものである。
それが池上彰氏や齊藤誠氏の言うように、数十年といったタイムスパンで、かんたんに改革できるはずがない。
オリンパスの損失隠しのような事件が、21世紀になっても起こり続けているということは、日本社会において福島第一原発事故は、起こるべくして起こったとも言える。
専門性の高い組織や集団ができあがると、外部の人たちがすべてを「おまかせ」してしまい、第三者としてのチェックが行きとどかなくなる。これは、良くも悪くも日本社会の根本だ。
東京電力やオリンパスといった、個別の事例に対応するだけでは、この根本問題は解決しないし、仮にこの根本的な性格を変えることに成功したら、そのとき、日本社会は今とはまったく別モノになっているはずだ。
その「まったく別モノの社会」は、原子力発電のリスクマネジメントには成功するかもしれないが、まったく別種の問題を産みだしているだろう。
個々の企業の社風がそう簡単に変わらない以上に、日本社会の性格を根本のところから変えるなど、簡単ではないどころか、まず不可能である。
逆に言えば、日本のような専門家に対する第三者のチェックが機能しない社会は、原子力発電のような技術を使う資格がないということだ。
池田信夫氏のような個々の学者が、いくら科学的合理性にもとづいて、まっとうな議論を展開したところで、それが現実の民間企業の、組織の末端の、毎日の具体的な作業にまで落ちたとき、それでもなお科学的合理性が徹底されるなど、日本の社会では決して期待できない。
日本社会は、そういう社会なのである。
原発のような高度なリスクマネジメントを必要とする技術を運営するには、まだ未熟で、近代化の不十分な社会なのである。
このことは、福島第一原発事故が起こる前にも、さまざまな場面で自覚するチャンスはあったはずだ。
しかし、GDP世界第二位という経済大国の地位に甘んじて、社会の改革をおこたり、相変わらず大規模製造業依存、輸出産業依存の産業構造、電力会社の地域独占、前近代的な労務管理などなど、無数の問題を手つかずのまま残してきた。
そうした問題を残してきた事実そのものが、日本社会が変われないことの何よりの証拠である。
だからこそ、この池上彰氏と齊藤誠氏の対談も、むなしい理想論としか読めない。