こどもの日に、自殺施設の経済合理性について考える

こどもの日ということで、例年のごとく子供の人口が過去最低、また、2012年版「子ども・子育て白書」に掲載される、2010年調査の生涯未婚率で男性が2割を超えたなどの統計がニュースになっている。
都市郊外の持ち家に生活するお父さん、お母さん、子供一人か二人という核家族は、すでに時代おくれなのだ。
このような「都市郊外の核家族」という生活形態は、企業が男性従業員の面倒を死ぬまでみる社会が成り立つ限りにおいてしか成立しない。
つまり、男性従業員とその配偶者である専業主婦ともども、定年まで、そして定年以降も厚生年金で面倒を見る、という古き良き時代の日本社会のことだ。
日本企業は戦後、製造業中心に高度経済成長をとげたが、新興国の人件費の安い製造業との競争を強いられ、労働分配率を下げつづけている。労働分配率を下げるとは、利益を株主に配分して、従業員の取り分を減らすということだ。
これは、旧通産官僚たちが高度経済成長期の発想から抜け出せず、日本経済が製造業から第三次産業へ、輸出産業から内需中心へ、という産業構造の転換に失敗した結果だ。
にもかかわらず旧通産省の官僚たちやそのOBは、例えば原発について、いまだに大規模製造業のために原発を動かそうと必死になっている。懲りない人たちだ。
企業が労働分配率を下げつづけ、株主優先になったのは、金融システムの「規制緩和」が原因だろう。
護送船団方式の日本の金融システムが「規制緩和」され、企業は資金調達を銀行からの借入金だけに頼るわけにはいかなくなった。銀行はつぶれるかもしれないからだ。
株式市場からも資金を安定的に調達するには、従業員の給与を減らし、あるいは解雇してでも利益を出しつづけ、株主への配当を維持すること、それが企業経営者として合理的な選択になった。
その結果、父親の給与だけにたよって生活する核家族は成り立たなくなる。これは当然の結果だ。企業は生き延びるが、核家族は失われていく。
核家族になっても安全でないことがわかれば、わざわざ核家族を持ちたいと思う若い男性は当然ながら減る。男性の生涯未婚率が今後も確実に増えていく。
また、1985年の男女雇用機会均等法にもかかわらず、日本のサラリーマン社会は、いまだに女性は結婚して専業主婦になるという前提で動いている。
なので、女性の立場からすると、仮に結婚するなら、結婚して子供ももちつつ、総合職として働き続けることをあきらめ、ゆくゆくは専業主婦になる前提で、安定した職のある男性を選んで結婚する必要がある。
逆に、結婚せずに自活の道を選ぶなら、事実婚や結婚はするとしても、子供をもつことはあきらめるのが合理的な選択になる。
このように社会の現状を考えると、どう考えたって子供をもたない方が合理的な選択だし、子供をもつ間接的な原因になる結婚をしない方が合理的な選択になる。
(日本は法的に結婚せずに生んだ子供は、法的に差別される制度なので、子供をもちたいなら籍を入れざるをえないからだ)
男女とも、結婚して子供をもったのに、いきなり企業から解雇されて路頭に迷うリスクをおかすくらいなら、親の年金に「寄生」する方が安全だ。親は旧時代の制度のおかげで、たっぷり年金をもらっている。きわめて経済合理性のある選択だ。
こうした状況をどうやったらひっくり返せるのかについては、すでに多くの専門家が答えを出している。でも日本はそこへ踏み出すことができない。
今日、日本の原発はとりあえず全基停止となる。
この原発再稼働問題に対する、経産相官僚やそのOB、産経新聞や日本経済新聞を代表とする経営者偏重のマスメディア、そして経済団体の対応を見ても、彼らがまったくこの状況を変えるつもりがないことが分かる。
彼らはいまだに、大企業を頂点としたピラミッド型の製造業中心の産業構造で、日本は再興できるという夢を見てる。
彼らがその夢から覚めない限り、日本社会は全体として、ゆっくりゆっくり自殺していくことになる。
彼らは自分たちがその緩慢な自殺を防ぐどころか、そのスピードを速めていることに気づかないほど、経済合理性を盲目的に信じているのだから、仕方ない。
しかも、「緩慢な自殺」というのは単なる比喩ではない。「規制緩和」以降、じっさいに毎年3万人以上の人々が新たに自殺している。
僕が以前から書いていることだが、そこまで日本社会が経済合理性を優先して、社会の存続を軽視するなら、いっそのこと合法的に自殺できる施設を国が作るべきだろう。
例えば、自暴自棄になった人間が無関係の人々を巻き添えにして自殺するよりは、一人で安らかに死ねる施設を作るほうが経済合理性にかなっているからだ。
別の例をあげよう。意図的に自暴自棄にならずとも、2012/04/29に起こった関越道バス事故のバス運営会社や、事故を起こしたバス運転手のように、ギリギリのところで仕事をしている人々が、ああいう事故で無関係の人々を巻き添えにするよりは、そうした人たちが安らかに死ねる施設を作るほうが経済合理性にかなっている。
明日どうなるとも知れないギリギリの生活より、死を選びたいという人たちはたくさんいるはずだ。日本社会が経済合理性を優先するなら、そういう人々のために、合法的な自殺施設を作るのがよい。
その結果、若者が率先して自殺していったとすれば、日本社会がだらだらと緩慢に自殺していくよりも、社会が負担すべきコストが減る。やはり経済合理性にかなっている。
そもそも将来世代の人数が減れば、原発から出つづける放射性廃棄物の影響を受ける人間の数が減ることになり、原発の再稼働のリスクも実質的に減らすことができる。原発推進派にとっても、合法的な自殺施設は望ましい。
経済合理性をつきつめると、ある期間、ある人間が生み出す付加価値よりも、その人間を維持するために社会が負担するコストが大きければ、その人間は存在しないほうがいい、という結論になるのは当然だ。
であれば、経済合理性の観点からは、そういった人間には、例えば失業手当や生活保護など、他人の納めた税金に依存することなく、安らかに死んでもらうのが合理的だ。
公園をブルーシートで「不当に占拠」している人たちにも、安らかに死んでもらうのが経済合理性にかなっている。彼らは付加価値を生み出さず、公園という社会の資源にタダ乗りしているのだから。
そうやって、経済的な観点から社会の「底辺」に存在する人たちには、現実の生活に絶望してもらい、安らかに死んでいただけるような合法的な自殺施設を作るのが、経済合理性にかなっている。
大企業の経営者たちや、経産省や厚労省の官僚たちにとって、願ったりかなったりではないか。
もちろん僕は皮肉で書いているのだが、大企業の経営者たちの発言を耳にすると、彼らが本気でそう思っているように聞こえるのが、とても不思議だ。
そんな、こどもの日である。(どんなこどもの日だ)