関越道バス事故における法治国家と法令遵守

関越道の高速ツアーバス事故について、日本は法治国家と言えるのか、ぜひブログに意見を書いて頂きたい、というメールを頂いたので、すこし書いてみたい。
*)この記事は2012/05/02時点で書いた文章の議論の展開がわかりづらかったので、05/03朝に大幅に書き換えました。
まず僕は法律の素人なので、「法治国家」の定義からおさえる必要がある。ウィキペディアの「法治国家」の記述を信用できるとすれば、法治国家には「形式的法治主義」と「実質的法治主義」の二種類がある。
前者は「悪法もまた法なり」という考え方、後者は「法の内容が正当であるか否か」まで問題にする考え方で「法の支配」とも呼ばれる。
日本は国家体制としては、後者の「実質的法治主義」だが、残念ながら肝心の行政や司法、そして国民の一人ひとりにまで「実質的法治主義」の考え方が根付いているとは言いがたい。
まず、多くの日本人はいまだに「憲法はいろんな法律のいちばん上にある法律」という間違った理解をしている。
実際には憲法は、ウィキペディアの「法の支配」の記述の最初にあるように「専断的な国家権力の支配を排し、(国家)権力を法で拘束する」もので、国民を拘束するものではない。
とくに経済合理性と「法の支配」の考え方が対立するとき、日本人の多くは経済合理性を優先する。つまり、法律に違反しさえしなければ、また、法律にそもそも書いていないことであれば、利益を最大化するために何をやってもいい、ということだ。
ただし、日本人のとくに経営者の中には、「実質的法治主義」はおろか「形式的法治主義」さえ理解していない人が少なくない。

その典型例が、ワタミ株式会社の渡邉美樹会長だ。
ワタミ株式会社で、入社2か月の女性従業員(当時26歳)が過労自殺したことについて、取締役会長の渡邉美樹は、労災認定された後もなお、Twitterで「労災認定の件は非常に残念であるが、労務管理ができていなかったとの認識はない」とし、謝罪しなかった。
ウィキペディア「ワタミ」参照
労災認定は日本の法律に形式的にしたがって、神奈川労働局が審査した結果であり、「形式的法治主義」の観点でさえあきらかに労働災害であり、形式的にも経営者に労務管理の責任がある。
今回の関越道バス事故も、すでに現時点の捜査で、運行指示書を作成していなかった、バスの出発前の点呼を実施していなかったなどの法令違反が見つかっているが、同社は過去にも監査で法令違反の指摘を受けている。
ただ、これらは形式的な不備にすぎず、実際に労働基準法違反があるかどうかは、今後の捜査を待たなければならない。しかも同社の社長は、事故直後の取材ではっきり謝罪している。
会社員の方ならどなたもご存知のように、バス会社における運行指示書などの形式的な書類の作成や、労働基準法を、つねに形式的に厳密に守っている企業など、おそらく一社も存在しない。
先日の、日本精工、NTN、ジェイテクト、不二越の4社によるベアリングの価格カルテルや、毎年必ず出てくる大企業による利益隠しへの追徴課税などを見ればわかる。
それに会社員として、自分が勤務する会社の中で、例えばプライバシーマークの取得に必要な手続きが勝手に省略されているとか、内部統制の外部監査対象になっている実施事項をサボっているとか、そういったことは日常茶飯事のはずである。
これらはすべて、バレずに法令に違反することのリスクと、それによって得られる経済的な利益を比べた上で、バレなければ法令に違反してもいい、という選択をした結果である。
企業についてよく「コンプライアンス」ということが言われ、ふつうは「法令遵守」と翻訳されるが、日本における「コンプライアンス」はぶっちゃけて言えば「バレなければ法令に多少違反してでも利潤を最大化する」と解釈され、各企業内で実践されている。
関越道バス事故に関係したバス会社やツアー企画会社も、「バレなければ法令に多少違反してでも利潤を最大化する」考え方にもとづいて事業を行なっていた。
この点を正面切って非難できるほど、潔癖な会社に勤めている会社員は、日本ではほぼ存在しないだろう。
利潤の最大化よりも、法令の完全な順守を優先するという考え方に改めるためには、企業は経済合理性ではない、別の行動原理や哲学を持たなければならない。
よく企業の社会的責任(CSR)ということが言われるが、これも日本では「他社や他者に迷惑をかけないこと」程度のゆるい意味で解釈されている。
つまり「他人に迷惑さえかけなければ多少の法令違反をしてでも利潤を最大化することは許される。むしろそうしないで利益をあげないのはバカだ」というのが、日本企業のふつうの考え方である。
容易にバレない程度に、形式的には法令を遵守するけれど、あくまで利潤の最大化という経済合理性が最優先で、法令の精神まで深く理解した実質的な法令遵守などあえてやらない。それが日本企業のふつうの考え方だ。
企業の社会的責任が本来もっている意義は「人さまに迷惑をかけない」といった、いかにも日本的な「世間体」や「空気」を相手にしたゆるい自己規制ではない。
本来の企業の社会的責任とは、企業を規制するさまざまな法令が、もともと何のために作られたのか、その背景にある哲学や倫理観を理解し、それに照らして、自分の倫理観が適切かどうかを自問自答する、厳しい自己規制のはずである。
ただ、日本企業の経営者や社員に、そのようなプロテスタント的な倫理性など求めるべくもない。
そもそも日本人は子供の頃から「他人に迷惑をかけないこと」ばかりを教育されており、他人の存在にかかわらず自分で自分を律する教育をうけていない。
その結果、ほとんどの日本企業の経営者や従業員は、第三者に指摘さえされなければ、あるいは、最終的に事故さえ起こさなければ、多少法令に違反してでも利潤を最大化することに何ら問題はない、という考え方で仕事をしている。
関越道バス事故に関係する会社を非難したくなったら、まず自分自身や自分の家族が、経営者として、会社員として、自己の内部にある良心や倫理観にもとづく行動をとっているか、まず自省してみるべきだろう。
他人を指さしておきながら、自分も日常的に「バレなければ多少の法令違反をやっても経済合理性を優先する」行動をとるのは、これもまた、いかにも日本的な本音と建前の使い分けだ。
他人の経済合理性最優先を非難しつつ、自分自身の経済合理性最優先を黙認するという卑怯なことをやるなら、せめてその卑怯さを自覚し、強い自責の念を持ちつつやるべきだろう。