「全体」が見えない日本の組織人

今回は、日本のふつうの組織人が、基本的な哲学的思考能力を欠いている、というお話。
これは当たり前で、日本では高校でも大学でも、一般教養としての哲学を教えないからだ。
哲学史の話はちらっと出てくるかもしれないが、せいぜいソクラテスだのアリストテレスだのといった、固有名詞を覚えるだけ。その思想の内容や、現代社会との連続性については、たぶんまったく教育されていないに違いない。
マイケル・サンデルが引用するジョン・ロールズの『正義論』も、読んだことはないけれど、アリストテレスの思想が現代社会の問題に援用されている。
日本のふつうの組織人は、現場に散在する個々の仕事の進め方や手順を、一つの整合性のある体系として組み立てる力が圧倒的に不足している。
よく言われることだが、さまざまな国際標準(ISOなど)が日本から生まれないのは、テクニカルな問題でもマーケティングの問題でもなく、日本人が体系的思考能力を教育されていないことに原因がある。
なので、日本のふつうの組織人が、仕事熱心に自分の専門分野を深掘りしていくと、ほぼ必然的に「全体」との整合性から少しずつ逸脱していく。
ここで言う「全体」とは、例えば日本という国のさまざまな法制度や、自分が属している組織の理念・規則類のことだ。
そして、仕事熱心なあまり「全体」との整合性から逸脱していく組織人の周りにいる人たちにも、つねに「全体」との整合性を横目に見つつ仕事をする習慣がないので、誰もそれを止められない。
かくして、それぞれの組織には不可解なローカル・ルール、その組織でしか通用しない「村のおきて」のようなものが無数に生まれる。
先日、NHKの朝のニュースで紹介されていた、新入社員研修にヒッチハイクを取り入れている自動車部品メーカーの人事担当者も、まさにこの典型的な事例だ。
その人事担当者は、ただ仕事熱心で、自分の所属する会社の人事研修をより良くしようと努力しただけだ。しかし、残念なことに自分が生きている社会の「全体」が見えていない。「全体」とは日本の法律や地域社会のことだ。
「全体」が見えていれば、ヒッチハイク研修が、研修費用や研修にともなうリスクを、地域社会の住民の金銭的負担や治安の良さに転嫁しているだけだということに気づくはずだ。
つまり、自分のやっていることが、地域社会の社会的リソースに「タダ乗り」しているだけだ、ということに気づけたはずだ。
こういうことに気づけないのが、日本のふつうの組織人なのだ。
これを改めようと思えば、教育からして改める必要があるので、気の長い話になる。
まあ、日本の組織人が「全体」を見ず、部分最適まっしぐらなまま、日本という国ごと衰退していくのだろうから、今さらあがいてもムダかもしれないけれど。