協調性至上主義の日本社会は、たぶん、出口なし。

組織への過剰適応が、日本社会の変化をはばんでいる、というお話。
ご承知のように日本の組織は、民間企業であれ、お役所であれ、学校であれ、いまだに「協調性至上主義」が支配している。
その最大の理由は、下手に波風を立てると、その組織から排除されるおそれがあるからだ。
その組織から収入を得ている場合には、それはすなわち「人並みの」生活から落ちこぼれることを意味する。学校であれば、十分な教育を受ける機会をうばわれ、将来の就職活動が不利になり、結果的に生活水準が低下することになる。
なので、何らかの組織に属している日本人が、その組織の「協調性至上主義」に過剰に適応してしまうのは、ある意味、とても合理的な行動だと言える。
組織の命令なら、たとえ社会正義に反するおそれがあっても平気でしたがう。組織の方針に反するような意見は、たとえひとりの私人として意見を求められた場合でも口に出さない、などなど。
組織に反抗しないという行動様式が、私生活まで侵食すると、当然、一人の市民として、一人の私人として、日本の現状を変えるために何かをしたい、というモチベーションを奪う。
日本の現状を変えるために、投票行動を変えるとか、インターネット上のブログやツイッターやフェイスブックなどで、明らかに所属している組織の方針に反する意見を表明するとか、そういったことすべてについて、「ヘタなことはやらないほうがいい」という判断になる。
そういった、所属組織に対する過剰な適応が、日本社会のいたるところで起こると、日本社会全体としては、変革へのきっかけを大きく損ねることになる。というより、すでに、変革へのきっかけを失っている。
例えば、竹中平蔵や勝間和代といったタイプの論客は、日本はまだ世界経済で重要な位置を占めつづけることができる、と信じているように見える。ただしそのためには、大胆な何らかの改革が必要だと主張しているらしい。
しかし、彼らとは違うふつうの日本人は、自分が所属している組織の利害に反するような行動はとれない。組織から排除されたときの安全網も何も、日本社会には存在しないからだ。
なので、ふつうの日本人は、そういった論客の先鋭的な議論を「聞くだけ」で終わる。聞いてスッキリするだけで終わり。自分たちの行動様式を変えることはない。結果として、日本社会は何も変わらない。
残念ながら日本という国は、生まれ落ちたときから「協調性至上主義」を叩きこまれている市民が大半を占める。そのため、根本的な変革のきっかけや動力を、最初から失っている。
なので、おそらく年金問題を賦課方式から積立方式に変えるという大胆な変革もできないし、戦略的な再生可能エネルギー産業の成長政策もとれない。
賦課方式の年金制度のおかげで、自分たちが支払った保険料以上の年金を、いまの若者世代(主に保険料が天引きされる会社員)の収入からむしりとっている高齢者は、かんたんに自分たちの既得権益を守ることができる。
この「協調性至上主義」の日本で、彼らはかつて所属した組織で高い地位を持っており、その結果、高い経済水準を享受しており、自動的に、市民社会においても、少なくとも非正規雇用の若者よりは発言力を持つことができる。
また、昔ながらの「非社会的勢力」が、日本各地の原子力発電所に、被ばくに対する補償を求めるだけの社会的地位のない低賃金労働者を送りこんでくれる限り、日本の原発は低コストで運転できる。
そうやって、日本全体としては、少子高齢化による人口オーナスとともに、確実に21世紀の前半が終わるころまでに、没落していく。
この没落を止めるモチベーションは、ふつうに日本で生活している日本人の誰も持つことができない。日本社会はそもそもそういう仕組みになっているので、どうしようもない。
まさに、出口なし。

協調性至上主義の日本社会は、たぶん、出口なし。」への1件のフィードバック

  1. ぴっぴぴ ピー助

    真理か否か

    財政・経済破綻を、するとかしないとか
    様々な理論があり、論議がされているこの頃ですが
    破綻しようがしまいが、どちらにしろ
    財政・経済的に厳しい状況に向かっていることにはかわりないでしょう
    それは破綻しなくても、破綻している状況と変わらないだろうし
    そ…

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