アニメを見下す大人は鑑賞能力がないだけ

アニメについてブログを書こうとすると、前提となる説明が長くなるが、あえて書いてみる。
先日、録画してあった『スマイルプリキュア』を初めて見た。本当は第1話から観たかったのだが、予約録画を忘れていたためにようやく観ることができたのだ。
アニメに関心のない読者の方々は、ここまでで頭の中が疑問符だらけに違いない。
『プリキュア』というのは日曜日の朝に放送されている女児向けTVアニメシリーズで毎年新シリーズが1年間の放送予定で開始される。詳細はウィキペディアの「プリキュアシリーズ」をご覧いただきたい。
いずれにせよ、40代で子供のいない僕のような既婚男性が観る番組ではない。では僕が登場人物の中学2年生という設定の少女たちに「萌え」ているのかと言えば、そうではない。
録画を観た理由は、今年の『スマイルプリキュア』シリーズの主人公を福圓美里(ふくえん・みさと)という声優が担当しているからだ。福圓美里という声優を知っている人はほぼ皆無だろうが、彼女は水樹奈々という声優と関係が深い。
水樹奈々は声優出身の歌手として初めて、NHK紅白歌合戦に2009年から3年連続出場を果たし、いま活躍している声優の中では歴史的な人気をほこっている。2011年末は東京ドームを2日連続で満員にしている。それでも一般的な知名度は極めて低い。
水樹奈々はブレイクする以前から、文化放送で週一回のレギュラー番組『水樹奈々のスマイルギャング』を持っている。2002年4月放送開始で、もう10年になるラジオ番組だ。この番組で初回から水樹奈々のアシスタントを務めているのが、福圓美里である。
『プリキュア』シリーズのアフレコを担当するのは、『ドラえもん』ほどではないにしても、声優としては一種のステイタスであり、大きなキャリアになる。深夜時間帯に放送されている多くのアニメ作品が、3か月か、長くても半年で終わるのに対して、『プリキュア』は1シリーズ1年間の長期レギュラーだ。
水樹奈々もプリキュアシリーズを担当したことはあるが、福圓美里にとって今回の『スマイルプリキュア』は初めての長期間レギュラー、しかも主役担当ということで、彼女にとって人生のメルクマールといえる大事件なのだ。
最近ではあるが水樹奈々のファンになった僕として、売れない時代から『スマイルギャング』を2人3脚で続けてきた福圓美里が、TVアニメの大型作品で初の主役とあっては、観ないわけにはいかない。
そういうわけで録画してあった『スマイルプリキュア』を観た。なお『スマイルギャング』と『スマイルプリキュア』はどちらも「スマイル」で始まるが、これは偶然の一致だ。
2012/02/26放送分の一回を観ただけだが、昨年放送の『スイートプリキュア』とかなり作風が異なる。日曜日の朝は、スポーツ全般に関心のない僕にとって、『サンデーモーニング』のスポーツコーナーの時間帯に、他の局をザッピングしていると、イヤでも『プリキュア』シリーズが目に入ってしまう。
昨年の『スイートプリキュア』が思わず目に入ってしまったのは、まず、音楽を主題とするシリーズであったことと、女児向けのアニメであるにもかかわらず、ストーリーが意外に哲学的だったからだ。
例えば、極度の人見知りで友人となかなか親しくなれないキャラクター(キュアビート)を登場させることで、子供たちの決して単純ではない人間関係をきっちり描いている点。
また、敵であるはずのノイズが、自分自身の絶望が悪としての役割の自己正当化になっていることに気づくことで、最終的には日常の世界で「元」プリキュアたちと平凡な日常生活を送るようになるという、弁証法的な物語の展開など。(悪が対自によって止揚されたと読める)
女児向けアニメとはいえ、ウルトラマンや仮面ライダーといった男児向けの特撮ものと同じように、当然のことながら制作者側はすべて大人で、その時代の社会問題が作品に色濃く反映する。
今年の『スマイルプリキュア』は昨年の東日本大震災を受けて、「絆」がテーマの一つになっているらしい。
作品中に登場する「バンドエンド王国」が、人間の持つ否定的な価値の具現化になっている。例えばその王国の住人であるアカオーニ(=赤鬼)は、人と人の絆などいつかは壊れてしまうという考えからプリキュアたちと対決する。
僕が面白いと思ったのは、プリキュアの敵たちにも「バッドエンド王国」という共同体の中での生活があり、絆を否定しつつも、否定的価値観の共有することで一つの共同体を形成している点だ。アカオーニというキャラクターが自分で「鬼のパンツ」を洗濯する場面も登場する。
否定的な価値観を持つ人々にも、彼らなりの日常生活があり、彼らなりの共同体がある。『スマイルプリキュア』はそれを否定していない。
しかも悪者たちと正義の味方であるプリキュアたちの間には、敵対関係や戦闘だけでなく、不思議なことにふつうの対話も成立している。(キュアピースとじゃんけんをして負けて悔しがる等)
すると大人としては、一体なぜ主人公の星空みゆき(変身後はキュアハッピー。声は上述のように福圓美里)が全部で5人いるプリキュアを一人ずつスカウトし、悪者たちと戦う必要があるのか、疑問に感じてしまう。
プリキュアシリーズは、善悪の対立そのものが、絶対的な善と絶対的な悪の対立ではなく、特定の観点に立ったときにしか成立しない相対的な状況であることを、作品の中でバラしてしまっている。
これはプリキュアシリーズが初めて行ったことではなく、ウルトラマンの時代から子供向け特撮ものやアニメの主題になっている。
ウルトラマンや仮面ライダー、プリキュアが子供向けであり、大人には無関係だという考え方は、一見、いかにも大人らしく分別のある考え方のようだが、単にそれらの番組を見ていた子供の頃の自分が、制作者側の大人としての制作意図を理解していなかったからに過ぎない。
子供向けアニメや特撮ものをバカにしている人たちは、制作者である大人たちが込めた大人の思想や視点を見逃しているか、頭脳が子供のころから全く成長していないか、のどちらかである。
もちろん子供向けアニメの楽しみ方は、そうした物語に込められた思想だけではない。純粋に「動く絵」として観たときの演出技法を堪能する楽しみ方もある。
『スマイルプリキュア』が昨年の『スイートプリキュア』と大きく異なるのは、作品の演出全体がとにかく明るく躍動的である点だ。
そのため、特に戦闘シーンでの「止め絵」(=歌舞伎における「みえ」に該当するカット)は、ハイビジョンの16:9の画面をいっぱいに使い、超広角レンズを使ったようにパースが極端に強調された、迫力のある絵になっている。とても中学2年生の少女とは思えない力強さだ。
東映アニメだからかもしれないが、逆に戦闘シーンなどでの「動画」に特筆すべきものはない。
例えば昨年の『スイートプリキュア』もそうだが、エンディングはプリキュアたちが曲に合わせて軽快にダンスを踊る動画になっている。ところがこれが3DのCG制作で、あまりに動きがぬるぬるとなめらか過ぎて、見ていてやや気味が悪い。
エンディングは1年間使うのだから、京都アニメーションという『けいおん!』などで有名なアニメーション制作会社のように、なぜ時間をかけてでも手書きの動画にしなかったのかと思う。
いずれにせよ、子供向けのアニメは、大人たちが作ったものであり、僕のように黄金時代のハリウッドの名画や、フランスの批判的な映画、小津安二郎や溝口健二などの日本の名画を大量に観ている大人にとって、じゅうぶん鑑賞に耐える作品であることに間違いはない。
アニメを観ても子供っぽくて何が面白いのか分からないという大人たちは、単にアニメを批判的に鑑賞する能力がないだけである。