本物の合理主義は合理主義の限界をわきまえている

先日の光市母子殺害事件の死刑判決にしても、福島第一原発事故による低線量被ばくの健康被害問題にしても、議論が永遠に並行線になる2つの異なる立場がある。一つは要素還元主義的な立場。もう一つは要素還元主義的でない立場だ。
要素還元主義は、17世紀ヨーロッパ大陸で成立した大陸合理論や大陸合理主義と呼ばれる、近代科学の基礎となった合理主義が採用する方法論である。
高校時代に「倫理社会」の科目があった方はご存知かもしれない。大きな問題を解決したいとき、全体を一度に考えるのは難しいので、まず小さな問題に分割し、それら一つひとつに解答を出していくことで問題の全体を解決しよう、というのが要素還元主義だ。
僕はこの要素還元主義を、新卒で某大手電機メーカーに就職した後、新入社員研修でも教わった。当時は、大卒の学生に今さら要素還元主義を教えるとは、学生をバカにするのもいい加減にして欲しい、と思いながら聞いていたものだが。
この要素還元主義という合理主義の方法論が、絶対王政の時代に確立されていることからもわかるように、古代ギリシア哲学がすたれて、長らくキリスト教の教義が支配的だったヨーロッパ社会が、近代科学の時代に入る基礎になっている。
死刑問題の背景にある近代刑法にしても、低線量被ばくの背景にある原子物理学や疫学にしても、その根っこは大陸合理論であり、その方法論である要素還元主義だ。
ただ、忘れていけないのは、デカルトもふくめ、大陸合理論を確立した欧州の思想家たちは、大きな問題を小さな問題に分割する要素還元主義の限界に最初から気づいていた、ということだ。
要素還元主義の限界は、哲学の分野では18世紀のカントの批判哲学によって、すでにはっきり示されている。いちばん分かりやすいのが『純粋理性批判』に登場する二律背反(アンチノミー)という部分だ。
ちなみにインターネット上では、二律背反とは「矛盾」のことです、と説明している文章があるが、これはウソなのでご注意を。
二律背反とは、「宇宙は無限か有限か」という問題について、「宇宙は無限である」という前提から徹底して合理的に考えると「宇宙は有限である」という結論に達し、逆に「宇宙は有限である」という前提から徹底して合理的に考えると「宇宙は無限である」という結論に達するという事態を指している。
二律背反は、合理的思考には適用していい範囲があり、それを超えると合理的思考は自らの合理性を否定してしまうことを示している。要素還元主義の方法論を採用するかどうか以前の問題として、合理主義はこのような適用限界をもっている。
デカルトの場合「誇張懐疑」という方法論を徹底することで、合理主義の限界にすでに突き当たっていた。つまり、仮に悪魔のような存在がいて、自分の合理的思考が単に合理的だと信じこまされているだけだとしたら…という仮定だ。
なんだかこのブログを書いている時点で芸能界の話題になっている、女性お笑いコンビの「黒い方」の洗脳騒ぎみたいだけれど、デカルトは自分の合理主義を徹底させるために、あえて自分が悪魔のようなものに「洗脳」されていたら?と疑ってみたわけだ。
そこでデカルトは、いや、たとえ自分が悪魔に「洗脳」されていたとしても、どうしたって否定できないことがある。それは、自分が悪魔に「洗脳」されているかもしれない云々と「考えている」ということだ。
その帰結が有名な「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」という命題になる。この命題そのものは合理主義が妥当性であることを主張しているのではなく、合理主義的な思考や、非合理主義的な思考など、あらゆる種類の思考を支える原理を示しているにすぎない。
重要なのは、このように近代合理主義は生まれた時から自分自身の適用範囲に限界があることをはっきり自覚していた、ということだ。
つまり、合理主義はその適用可能な範囲内では論理的一貫性をもつことができるが、適用範囲外においては、合理主義は自分で自分の合理性を基礎づけることができなくなる、ということだ。
合理主義的な思考や非合理主義的な思考など、あらゆる思考を支えているのは、合理主義の「外側」にある「何ものか」だと考えたのは、デカルトのような大陸合理論や、カントやフッサールだけではない。
英米系の哲学者であるウィトゲンシュタインも、『論理哲学論考』の最期の命題を「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」としている。つまり、徹底して合理的に考えると、必然的に合理主義の限界につきあたり、その「外側」については合理主義的な思考とは別の思考が必要だということだ。
僕らが暮らしている現代の日本社会は、いちおう近代合理主義を基礎とするフランスとドイツの法制度にもとづいて明治時代に制度設計され、その後、やはり近代合理主義を基礎とする英米系の功利主義的な考え方から生まれた法制度と経済制度にもとづいて作られている。
なので、今の日本社会で生じる問題を考えるにあたって、まず合理主義的な思考法を採用するのは間違っていない。ただし、最後まで合理主義「だけ」で問題を解決できるというのは、合理主義の過剰な適用である。
先日ここで、低線量地域から避難せずに住み続けろというのは、高所恐怖症の人に、絶対安全な高所に毎日上がるように強制するようなものだ、ということを書いた。「低線量放射線」という現象に恐怖を感じる人たちに対して、「それは科学的に考えると非合理的だ」と主張するだけでは、何の問題解決にもならない、という主旨だ。
「高所恐怖症の人に10mの飛込み台に登る日課を義務づけてみよう」(2012/02/14)
低線量被ばくに市民が「恐怖」を感じるのは、合理主義者たちがよく言うように、市民が十分に合理的でないからではない。そもそも「恐怖」とは合理的思考の結果ではなく、感情だからである。
「恐怖」という感情について、要素還元主義的な合理主義者は「恐怖」の感情が発生する合理的な原因と、非合理的な原因を分けて考える。
そして、非合理的な原因は「恐怖」を感じている本人が、単にじゅうぶん合理的でないためであり、きちっと教育・啓蒙すれば解消され、他方、合理的な原因については、合理的な方法で取り除くことで、結果として「恐怖」は両面から解消される。
これが要素還元主義的な合理主義者の思考のパターンである。こうした要素還元主義的な合理主義は、問題解決の役に立たない。
合理主義の適用範囲を超えているためだ。「恐怖」の事例でいえば、「他者」の内側にある「恐怖」感情を、「外部」から合理主義的説明を与えることで消し去ることができるというふうに、合理主義を適用範囲をこえて適用しているためだ。
そこで、要素還元主義的でない、別の種類の合理主義的思考が必要になる。
それは「恐怖」といった感情の問題を、合理的な因果関係(=啓蒙が足りないから怖がる、原因物質が存在するから怖がる等)だけで解決できないとする合理主義だ。典型的には社会学や心理学である。
これら別種の、要素還元主義的でない合理主義では、「恐怖」が存在し、要素還元主義的な合理主義では解消されないという前提から出発する。
そして、地域共同体や市民と専門家との関係など、社会的資源として利用できる人と人との関係を使って、「恐怖」を解消することを目指すのではなく、何とか我慢できるレベルにおさえることを目指す。
死刑問題についても同じことが言える。
要素還元主義的な合理主義は、たとえば「死刑制度の存廃問題と、冤罪の可能性は別問題だ」というふうに、死刑に関連する問題を切り分け、個々の問題について合理的に結論を出すことで、最終的に死刑問題の全体に結論を出せるとする。
要素還元主義的な合理主義者は「味噌もクソもいっしょにして」問題を論じることを拒否するが、いったん問題を小さな問題に細分化すると、細分化された問題から全体を再構成するときに、小さな問題のどれをどこに位置づけるかについて一定の判断が入る。
なぜなら、どのように全体を再構成するのが合理的かについて、合理主義者はさらに別の論文などを参照して根拠づけるか、小さな問題の内部に適切な再構成の根拠が内在しており、それを読み取るだけでいいと主張するか、このどちらかしかない。
ただ、別の論文などを参照すれば、多数存在する論文のうち、その論文を選択した合理的な根拠をさらに示す必要があり、以下、無限にこの手続のくり返しになる。
また、論証の対象である問題そのものに、最初から全体を再構成するための根拠が「内在」しているなら、そもそも問題を細分化する必要はないが、その内在している根拠は誰が埋め込んだのかという疑問に答えられない。
このように、要素還元主義的な合理主義は、全体を部分に分割するときの仕方や、部分から全体を再構成するときの仕方が、合理的であることを根拠づける必要があるという、循環論法に陥る。
要素還元主義的な合理主義は、徹底して主観性・恣意性を排除しようとするが、結果、循環論法におちいるか、ウィトゲンシュタインのように「沈黙」することになる。主観的な選択を、純粋に客観的な選択(そんなものが存在するとして)だと主張するのは、端的に誤りだからだ。
死刑問題にしても、低線量被ばくの健康被害の問題にしても、あえて循環論法を延々と展開したり、「沈黙」したりするのも一つの主観的な選択としてあり得るが、具体的な対策に結びつかない。
要素還元主義的な合理主義の限界をすでに知っている人に対して、あたかも合理主義が主観性を完全に排除できるかのように議論するのは、単なる無知だし、要素還元主義的な合理主義が何かを知らない人に対して、あたかも合理主義が主観性を完全に排除しているかのように議論するのは、単なるウソつきか、たちが悪ければ「洗脳」になる。
客観性の権化であるかのように言われる科学でさえ、人間の社会がこの世界全体について持っているさまざまな世界像の一つでしかない。他の自然科学や社会科学もすべて、人間が世界について持っている世界像のうちの一つでしかない。
極端に言えば、人間は猿から進化したのではなく神が創り給うたものだという世界像も、人間が世界について持っている世界像の一つとして存在している事実は事実として、合理主義者といえども否定できない。
自然科学、哲学、社会学などなど、人間のいかなる思想も諸学も、世界全体についての妥当性を主張することはできない。どのように思考しても何らかの「外部」が残ってしまうことは、ウィトゲンシュタインでもデリダでもゲーデルでも誰でもいいが、徹底的に合理的に考えた思想家が認めている。
それら諸学の中で、合理主義だけが世界全体について妥当性を主張できるという考え方が存在するのは事実だが、それは、人間は神が創り給うたものだという考え方と同じ資格で、この社会に存在しているに過ぎない。