安冨歩『原発危機と「東大話法」』を読んだ

安冨歩著『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』(明石書店)を読んだ。

本書は東京大学教授である著者が、これまで原子力発電を推進してきたり、福島第一原発事故後も原子力の安全性を主張したりしている、主に東京大学出身の学者たちの「傍観者」性や「欺瞞」性を論じている。もちろんその矛先が著者自身にも向けられていることを、著者は自覚している。
本書の白眉は、香山リカの小出裕章助教批判や、池田信夫の原発に関するブログ記事が、いかに「東大話法」的かをこと細かに論証している部分にある。
後半の第4章、第5章については、人によって見解は分かれるだろうが、前半の香山リカや池田信夫の「東大話法」の検証部分は、ご自身で読まれるのがいちばん面白いと思うので、ぜひ手にとってお読みいただきたい。
また、あとがきによれば、どうやら本書に収まりきらない部分(原発推進の国策と田中角栄的なるものの関連性など)があったらしく、それは後日、別の書物として出版されるそうだ。そちらも楽しみである。
さて、僕のこのブログでは「東大話法」の規則として筆者の安冨歩氏が挙げている項目が20個と、やや多すぎる感があるので、あえてもっとコンパクトにしてみたい。「東大話法」として著者があげているのは以下の20の規則である。
なお、この規則だけを読んで『原発危機と「東大話法」』を読んだ気にならないで頂きたい。くり返しになるが本書の最も面白い部分は香山リカと池田信夫の具体例の分析である。

規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
規則2 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
規則3 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
規則4 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
規則5 どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
規則6 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
規則7 その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
規則9 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
規則10 スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
規則11 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
規則12 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
規則13 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
規則14 羊頭狗肉。
規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
規則16 わけのわからない理屈を使って、相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
規則17 ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
規則18 ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
規則19 全体のバランスを常に考えて発言せよ。
規則20 「もし○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

では、これら20個の規則を、以下、コンパクトにまとめる努力をしてみる。
規則1、2、19は、著者の非難する日本人の「立場主義」に関するものだ。
「立場主義」の詳細については、安冨歩氏が本書の第4章で「立場」という言葉の語源から始めて、近代以降、夏目漱石の小説にあらわれる「立場」という言葉の意味の変遷を事例に、どのように現代の意味になっていくかを跡づけている。直接お読みいただきたい。
「立場」とは自分の所属する組織における「立場」のことで、それに反する言動をとると、組織における「立場」を失うことになる。日本人は個人的信念を横において、あくまで組織内の「立場」に沿った言動をとることを優先しがちだ。
規則19は、個人の良心や主張より、組織内部で自分の「立場」を守るために必須の行動規範といえる。八方美人的な態度をとれば個人の主張に一貫性はなくなるが、組織内での自分の「立場」は安泰だ。
したがって規則1、2、19は「個人としての良心より組織の目的を優先させる」とまとめられる。
単に「意見」ではなく「良心」という言葉を使うのは、その人なりの倫理観という意味合いを含めたいからだ。組織上の「立場」を守るために、その人が本来もっていたはずの倫理観まで捨ててしまっているように見える事例を、僕らはたくさん見て来ている。
次に、規則3、4、13は、いずれも議論の枠組みや範囲を死守し、他人に変更させることを許さない態度を示している。つまり「議論の枠組みの変更を拒絶する」とまとめられる。
社会に存在するさまざまな問題は、それ単独で存在しているわけではなく、他の問題との関連性の中でしか位置づけられない。その問題だけ取り出せば純粋に原子物理学の問題であっても、その問題は人々にどのように受け取られるかによって、社会学の問題にもなる。
そのように、ある問題についての議論は、枠組みを特定の学問分野や、特定の空間・時間に限定することなく、枠組みを移動したり広げたりすることで、初めてより普遍的で妥当な議論になる。
議論の枠組みの変更を拒否するというのは、その議論に対する新たな立場からの批判や検証を拒絶するのと同じことだ。
次に、規則5、6、7、10、11、12、16、17はすべて、その場その場での(アドホックな)自分自身の印象操作、自己演出のことを言っている。場面によって自分をどう見せれば、自分の議論を通すことができるか、についての規則だ。
こうした印象操作や自己演出は、議論の中身が妥当かどうかと全く無関係におこなうことができる。極端な話、自分の議論の内容が完全なデタラメであっても、自分が他人にあたえる印象をうまく操作し、自分で自分を演出することで、議論があたかもまともであるかのように見せることができる、という規則になっている。
これらは「単なる偽装」「単なる恫喝」「情報の非対称性の悪用」の3種類に分類できる。「情報の非対称性」という言葉については後で説明する。
規則5、7、12は「単なる偽装」にあたる。ただし、偽装が偽装として成り立つためには、偽装であることがバレてはいけない。「東大話法」においてそれをバレなくさせているのは、「東大教授」など、話者の肩書きである。
こうした肩書きをつかってムチャクチャな議論を、あたかも妥当な議論であるかのように偽装する方法は、テレビなどのマスメディアが情報バラエティー番組で日常的に行なっている。健康食品の効果を説明するのに、大学教授を出演させるなどである。
なのでこの「単なる偽装」については、どちらかと言えば、「大学教授」といった肩書きだけで安易に納得してしまわないように、情報の受け手側がだまされない努力をする必要がある。
いわゆる「情報リテラシー」を身につけ、たとえ権威ある学者や、大手新聞社、全国ネットのテレビ局、大企業の経営者が言っていることであっても、鵜呑みにしないことだ。
そして規則6、10が「単なる恫喝」にあたる。これは理性的な議論以前の問題で、議論の相手や聴衆に恐怖の感情を引き起こし、こちらの議論の中身について真剣に考え続けるよりも、素直に従ったほうが楽な状況を作り出す方法だ。
ただし、これが有効であるためには、ある程度、頭数が必要になる。多勢に無勢では恫喝そのものが成り立たないので、自分の支持者が一定数存在し、自分の意見に反対する人間を恫喝してくれる状況が整わないと、この「単なる恫喝」は実行できない。
「東大話法」における恫喝のポイントは、相手に効果的に精神的ダメージを与えることができる「手先」を、いかに多く自分の支持者にできるかにかかっている。罵詈雑言が得意な「チンピラ」をたくさん仲間にしておけば、自分は安全な場所にいたまま、「チンピラ」たちが勝手に反対派への恫喝をやってくれる。
ツイッターである人と真剣に議論しているのに、横から突然、議論と全く関係のない個人攻撃をしてくるような人間が「チンピラ」にあたる。
残りの規則11、16、17が「情報の非対称性の悪用」にあたる。これは学者の職業倫理としては最も卑劣な方法だろう。
「情報の非対称性」とは、ある事柄について一方が他方よりも圧倒的に多くの情報や知識を持っている状況のことだ。
ある学問分野について専門的に研究してきた学者が、一般市民より圧倒的に多くの情報や知識を持っているのは当然だ。その当然の結果を、自分の意見をより堅固なものにすべく、批判をうけ入れるために使うのではなく、自説への反論を封じるために使うのは、学者として最も卑劣な態度と言える。
ここまでをまとめると、次のようになる。
(1)個人の良心より組織の目的 (規則1、2、19)
(2)議論の枠組みの固定化 (規則3、4、13)
(3)自己の権威を利用した偽装 (規則5、7、12)
(4)支持者の頭数を利用した恫喝 (規則6、10)
(5)情報の非対称性の悪用 (規則11、16、17)
残りは規則8、9、14、15、18、20だ。

規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
規則9 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
規則14 羊頭狗肉。
規則15 わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
規則18 ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
規則20 「もし○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

このうち、規則8、9、15、20は、すべて「相対主義の悪用」にあたる。
相対主義とは、世の中にはさまざまな意見があって、そのうちどれが絶対に正しいということは誰も断言できない、という考え方のことだ。
自分の議論により説得力を持たせるには、世の中にはさまざまな意見があり、自分はそれらの意見を公平に検討しましたよ、というフリをするのが効果的だ。
さまざまな意見を検討した上で、自分はこの意見にたどり着いたという具合に、いったん相対主義をくぐり抜けましたよ、という演出をすれば、自分の議論により説得力が出る。
その「多様な意見を検討した」というアリバイづくりが規則8である。規則8における発言者のレッテル貼りは、それほど敵意むき出しでやらなくても、冷静に行うだけで、自分がさまざまな意見の検討を経ているかのような演出は十分に成り立つ。
規則9は、自分の意見が誤解をうける可能性があることをあえて言うことで、自分の意見が聞き手にどのように受け取られるか、それによってどのような反論が出てくるかまで、あらかじめ検討済みですよ、というフリをしている。
規則15は、自分を批判する演技を見せることで「この人は自分自身の意見をも相対化しているのだ」という印象を与えることができる。
規則20は、「もし○○であるとしたら」とあえて発言することで、自分が「○○である」場合も想定したことを主張している。自分がさまざまな反論の可能性をすでに検討していますよ、と主張することで、自分の議論の妥当性を印象づけることができる。
このように、自分の意見を自分で相対化するフリをするのは、自分の意見に説得力を持たせる効果的な方法だ。謙虚さを重んじる日本人にとっては、自分の意見を相対化する、つまり、「もしかしたら自分は間違っているかもしれない」と認めて見せることによって説得されやすい。
さて、残るは規則14、18だ。
まず規則14は、安冨歩氏の著書では、文章にわざと論旨と無関係な題名を付けることを指している。論旨に沿った題名をつけると、読み手は文章を読む前に身構えてしまう。するとまっとうな反論をされるおそれがあるので、わざと論旨と無関係な題名を付ける。それが規則14だ。
これと規則18も同じ効果をねらっている。自分の主張を一つひとつ着実に根拠づけていくような議論の展開をすると、それだけ読み手に反論の機会を与えることになる。逆に、自分の主張と直接関係のない議論を延々とやった後に、突然、自分の結論を書く方が、相手の反論を避けやすい。
この2つの規則は手品師がよく使う手だ。観客の注意を別のところにそらしておき、そのスキに手品のタネを取り出すという具合だ。かなり稚拙な手段とも言えるが、ここでは単に「相手の注意をそらす」とまとめてみる。
これで「東大話法」の規則を、かなりコンパクトにまとめられたと思う。
(1)個人の良心より組織の目的 (規則1、2、19)
(2)議論の枠組みの固定化 (規則3、4、13)
(3)自己の権威を利用した偽装 (規則5、7、12)
(4)支持者の頭数を利用した恫喝 (規則6、10)
(5)情報の非対称性の悪用 (規則11、16、17)
(6)相対主義の悪用 (規則8、9、15、20)
(7)相手の注意をそらす (規則14、18)
こうすることで「東大話法」にだまされない方法も考えやすくなる。つまり、例えば次のようなものだ。
(1)その人個人の倫理観が見えづらくされていないか。
(2)議論の枠組みを広げられることに抵抗していないか。
(3)自分の肩書きを利用したり、別の権威を援用していないか。
(4)自分の支持者であっても、恫喝的な人物がいれば非難しているか。
(5)一般人に向けた文章で専門用語や複雑な数式を濫用していないか。
(6)相手の批判や誤解をすでに分かっているかのようなことを、無根拠に言っていないか。
(7)突然話が変わる箇所が多すぎないか。
7つくらいなら何とか覚えられるのではないかと思い、大きなお世話ではあるがコンパクトにまとめてみた。
ただし僕自身、東京大学出身なので、このブログ自体にも「東大話法」に当たる部分があるかもしれない。実際、自分で過去の記事を読むと、かなりの記事に「東大話法」が含まれていることに気付かされる。「東大話法」あなおそろし。