池田信夫の「古臭さ」はその社会観にある

先日来、池田信夫東大病院の中川恵一医師など、福島第一原発事故による被ばくは、同原発の周辺数百メートルを除いて、健康に影響ないと言っている人たちの意見を批判的に検討している。
これら、ICRP勧告などの国際基準に基づいて放射線の健康被害を考えている人たちと、低線量の放射線であっても何らかの健康被害があるのではないかと恐れている一般市民の間には、根本的な考え方の違いがあることを、改めて強調しておきたい。
それは、池田信夫のような人たちが、リスクをコストとのトレードオフで考えることができる、経済合理主義者であるのに対して、一般市民はリスクを極小化することだけを考える、別の種類の合理主義者だからだ。
なぜ一般市民は福島事故起因の被ばくによる健康被害リスクを、それを避けるためのコストとのトレードオフで考えることができないのか。それは、健康被害リスクについても、それを避けるためのコストについても、概算するだけの情報や知識を持っていないからだ。
一方、池田信夫がリスクをコストとのトレードオフで考えることができるのは、次の2点による。
(A)福島事故起因の被ばくによる健康被害リスクは、ICRP勧告その他、広島・長崎の原爆、スリーマイル島自己、チェルノブイリ事故などによる被ばく者の疫学研究によって概算できると考えていること。
(B)そのリスクを避けるための様々なコストも概算できると考えていること、この2つの情報と知識を持ち合わせていること。
まず(A)にあたる既存の科学者たちの被曝による健康被害に関する疫学研究を、そのまま受け入れるか受け入れないかは、合理性の問題ではなく、信念の問題である。
池田信夫などの人たちは、被ばくによる健康被害のリスクの可算性を、合理性のある根拠だとあくまで主張しているが、リスクの可算性という理論そのものは合理的だとしても、それを信じるか信じないかは、合理的判断ではなく、信念の問題である。
なぜなら、科学の本質は、新しい仮説が検証されることで、古い仮説が退けられるという、反駁可能性にある。以前にも書いたが科学が何ごとかを「100%確実だ」「100%正しい」と主張した瞬間、科学は科学でなくなり、宗教になってしまう。
したがって、一般市民はいつでも、現時点の科学の成果が将来反駁されるかもしれないと、疑う合理性を持っている。科学的合理性の帰結は、いつでも疑うことができることによって、初めて科学的合理性と言えるのだ。
不思議なのは、池田信夫が、まるで現時点の被ばくによる健康被害の国際基準について、ECRRのクリス・バズビーなどの固有名詞を除外した上だが、まるで現時点で100%正しいかのように語り続けていることだ。
その副作用として、池田信夫や中川恵一医師は、自説の無謬性を主張すればするほど、かえって情報や知識を持たない一般市民から疑われてしまうというリスク・コミュニケーションの落とし穴にも、自らすすんで落ちている。
次に、(B)のコストの概算の方だが、一般市民にとって、交通事故や飛行機事故、生活習慣病によるガン発症リスクを避けるためのコストは、コストではない。コストは定義上に、コントロール可能でなければならないからだ。
日本人が交通事故や飛行機事故、生活習慣病によるガンを完全に避けるためには、自殺して今の生活そのものをやめるしかない。
コストというのは、定義からして増減を自分の意思でコントロールできる負担のことであって、自分の意思でコントロールできない負担をコストとは呼ばない。それはコストというより、むしろ所与の環境だ。
したがって、原発事故起因の被ばくによる健康被害を避けるためのコストを、交通事故や生活習慣病によるガンを避けるためのコストと比較することに、そもそも無理があるのだ。
たしかに池田信夫のような、かなり素朴な自由主義者にとっては、一般市民が自分の意思でコントロールできないコストについても、コントロール可能なのかもしれない。少なくとも「コントロールすべきだ!」という主張を展開できるのかもしれない。
しかし、「ガンを避けるためにはタバコをやめるべきだ」という医師の箴言も、「タバコなしではイライラして仕事にならない」という一般市民の現実生活の前には、無力である。
自由主義者としての池田信夫は、タバコをやめられない一般市民を、フリーライダーであるとか、単に怠慢であるとか、タバコの健康被害について無知であるとか、要するに「自己責任」の一言で、いくらでも非難することはできる。
だからといって、その特定の市民にとって、喫煙をやめるコストが、例えば福島から鹿児島に移住するコストよりも高いという現実を変えることは、池田信夫にはできない。
人間は定義上、自己決定権があるけれども、環境すべてを自由に変えられるわけではない。
自分で変えられる部分については、リスクとコストのトレードオフに基づいて行動できるが、自分で変えられないと「判断した」部分については、リスクを避けるために、第三者から見れば不合理なコストを払う。
つまり(B)における池田信夫の議論の最大の欠陥は、全ての個人に普遍的にあてはまるコスト計算があると仮定している点である。
もし池田信夫の仮定が正しければ、福島原発程度の放射線レベルで、福島県民が続々と県外へ避難したり移住したりするのは、明らかに非合理的で、そんなことが起こっている現実のほうがおかしいということになる。
池田信夫がもしかすると意図的に目をつぶっているのは、個々人がそれぞれ異なるリスク計算に基づいて、自分自身の考える「合理性」に基づいて行動しているという「現実」である。
個人的な「合理性」の前には、(A)で述べたように池田信夫の「個人的信念」に過ぎない「科学的合理性」は相対化され、池田信夫の「個人的信念」から見れば不当に制限され、歪められている、誤った「合理性」に基づいて一般市民は判断し、自分の行動を決定している。
そういう当たり前の現実を池田信夫は、意図的に無視している。
以上のように、池田信夫のような合理主義者は、一般市民を説得するのにあまりに無力である。それはポピュリスト橋下徹を見れば分かる。
おさらいしておくと、まず(A)について、科学の反駁可能性という本質からして、現時点の科学の成果を信じるか信じないかは、一般市民にとっては合理性の問題ではなく、信念の問題である。
次に(B)について、コストの可算性は、個々の市民が完全な自己決定権を持っていることが前提だが、池田信夫自身も含め、一般市民に完全な自己決定権など現実には存在しないので、個々の市民はアドホックで限定的で主観的な「合理性」に基づいて行動するしかない。
池田信夫のような合理主義者から見れば、被ばくによる健康被害を不合理に強調している人々、たとえば肥田舜太郎のような人は、一般市民のアドホックで限定的で主観的な「合理性」を。あとづけで説明する役割を果たしているだけだ。
決して池田信夫の主張するように、肥田舜太郎が「原因」となって、一般市民が福島事故の被ばくによる健康被害を過剰に恐れるように「なった」わけではない。
危険を強調するエセ科学者を「原因」とし、その「結果」として、無垢の一般市民が誤った判断をさせられているかのように、現状の日本社会を描写するのは、あまりに素朴な啓蒙主義的発想であり、アナクロな合理主義的発想である。
池田信夫のような人々は、そういった素朴な啓蒙主義・合理主義の域を、まったく出ていない。
僕はそれが悪いと言いたいのではなく、一般市民をアナクロな合理主義や啓蒙主義で説得しようという無駄な努力はやめたらどうか、と言いたいだけだ。
「科学」や「合理性」といった考え方や手続きの全ては、「オカルト」や「宗教」といったものと並列であり、社会が自分自身を説明するときの無数の方法のうちの一つにすぎない。
残念ながら、それらのうち「科学」こそが絶対に正しいと主張することは、社会の内部に存在する社会の成員には不可能であり、それらのうち「科学」が優位になるか「オカルト」が優位になるかは、社会の成員の「自由意思」によって決定されるものでもない。
なぜなら、「自由意思」なるものも、「科学」や「オカルト」と並列の、社会による社会自身の説明手段の一つに過ぎないからだ。
池田信夫が古臭く見えるとすれば、このような現代的な社会観を持ち合わせていないように見えるからである。