中川恵一氏の原発事故に関するコミュニケーション戦術のまずさ

中山恵一氏の著書について、改めて僕の意見をはっきりさせておきたい。
中山恵一氏が著書『放射線医が語る 被ばくと発がんの真実』を書いた動機に何ら問題はないと思う。

つまり、ネットの一部であまりに原発の危険性に偏った情報が流されているので、それを中和するために、放射線医学の専門家としてより客観的な情報を伝えたい、という動機に何ら問題はない。
飯舘村をはじめとする福島県の住民は、反原発の立場にもとづく情報だけでなく、それに対立する中川恵一氏の発するような情報にもアクセスする権利があるのは当然だ。
僕が問題にしているのは、そもそもなぜ多くの国民が原発について、危険性を強調する情報を信じ、安全性を強調する情報を信じなくなっているか、という点だ。
その原因の一つは、原発事故直後の政府や東京電力からの公表情報が、後になるほどより悲観的になり、結果的に意図的な隠蔽をしていたかのように見えてしまったことがある。
なぜ意図的な隠蔽に見えるような情報公開の仕方になったのかについては、さまざまな分析があるのでここには書かない。
ただ、事故直後の安全を強調する情報が、東京電力の責任を追及する世論の盛り上がりとともに、危険性を強調する情報によって徐々に淘汰されていった。このことだけが、多くの国民が原発の安全性を強調する情報を信じなくなった唯一の原因ではない。
別の原因として、原発推進側が1960年代以降、一貫して原発の安全性を伝える情報しか国民に与えてこなかったことがある。
これは日本だけの話ではない。欧米諸国でも、主に左翼からの反原発運動と、体制側の原発推進のための宣伝活動の対立が、この半世紀ずっと続いてきているという歴史がある。
この対立を政治的と形容するかどうかは別として、福島第一原発事故が起こる前であっても、原発をめぐる日本社会の言説は、決して政治色のない客観的かつ科学的な論争でなかったことはれっきとした事実だ。
したがって、中川恵一氏のように、原発についていくら科学的な客観性を主張しても、残念ながら原発についての政治的な立場を中和することはできない。
中川恵一氏のように客観性を標榜することこそが、これまでは原発推進という政治的な立場を擁護するために利用されてきたため、今さら客観性を主張されても原発推進派の意見にしか聞こえないという、大きな政治的文脈がある。医学者といえども、その大きな政治的文脈から自由ではありえない。
原発推進派が、客観的・科学的な意見にアレルギーを示す反原発派を、まるで何かの宗教に洗脳されているかのように非難するのは自由だが、いくら非難したところで反原発派の洗脳が解けるわけではない。
むしろ、原発推進派が反原発派の「客観性に対するアレルギー」を非難すればするほど、反原発派は科学的な客観性を信じなくなるだけだ。
僕が中川恵一氏の著書について指摘したかったのは、原発に関するそういった現代日本の言論状況について、中川恵一氏があまり無自覚すぎることである。その無自覚さが、せっかくの中川恵一氏の冷静な議論を台無しにしていることを指摘したかったのだ。
ICRP基準の正しさを科学的に検証することや、NHKがICRP基準を正確に伝えていないことに対して、中川恵一氏がいくら厳密に反論したところで、原発についての今の言論状況では、原発推進派の宣伝活動としてしか受けとられない。
もちろん逆もまた真なりで、ICRPの累計100ミリシーベルト基準に満たない汚染物質や食品についても危険だと主張したところで、それらはいたずらに恐怖心をあおる脱原発派による風評としてしか受けとられない。
つまり、現在の原発に関する日本の言論状況の本質的な問題点は、科学的で客観的で中立的に語ろうとすればするほど、ほとんどの人々にそう受けとられないという逆説なのである。
そして、専門家でない一般人が、こういったあいまいな状況に置かれたとき、より危険性を強調する意見になびいて、危険を少しでも未然に避けようとするのは当然だ。それに対して反原発派の洗脳だ、非科学的な思い込みだなどと言ってもムダである。
その結果、どうしても反原発派の言説の方が、人々の支持を集めやすくなる。これは、原発の安全性・危険性について、何が真実なのかすでにあいまいな状況が出来てしまっている限り解消しようがない。
にもかかわらず、中川恵一氏は、政府が予算をかけてリスク・コミュニケーションをすれば、福島の住民は福島に戻ってくると信じており、そのためにコミュニケーション戦術を完全に間違っている。
たしかに、中川恵一氏の懇切丁寧な説明を聞けば、一定数の福島県民は一時的に「そんなに心配することなかったのか」と安堵するかもしれない。しかし、だからといって、すでに県外に非難している親族や知人が避難先から戻ってくるわけではない。
極端な方法として、本当に中川恵一氏が自分の主張が正しいと確信しているなら、東京大学の人脈を総動員して政府に働きかけ、氏が健康被害が出ないと確信する範囲の住民については将来的な補償は一切しないというスキームを作ればよい。
将来の補償がないと分かれば、中川恵一氏らに深い恨みを抱きつつ、仕方なく福島県に戻る人々はいるだろう。それでも戻らない人々は、政府だけでなく、理論的背景となった中川恵一氏自身との法廷闘争を起こすかもしれない。
それくらいの我が身が危険にさらされるのを覚悟で、中川恵一氏が不要な避難によるストレスの方が健康に害があると主張しつづけられるかどうか。ここにおいて、中川恵一氏の真価が問われている。
逆に言えば、政府にリスク・コミュニケーションの予算を要求するだけで、我が身を政治的な危険にさらす覚悟がないのであれば、残念ながら原発に関する日本の言論の現状を変えることなどできない。
中川恵一氏の主張が役立つのは、どうしても被災地に居つづけたい、どうしても被災地に帰りたいという、日本人全体から見ればかなり限定された人々に対してだけである。
よりによって原発推進派と反原発派が最も強硬に対立する飯舘村のような地域で、リスク・コミュニケーションを行い、原発事故の危険度の低さを納得させようという戦術は、正直に申し上げて非常に下手くそな戦術だと言わざるを得ない。
僕はその下手くそさ、学者ならではのバカ正直さを残念に思っているだけであって、そのことと、僕自身が脱原発派であることとは全く別次元のことである。
僕は自分が脱原発派であるからといって、中川恵一氏の主張を全否定するほどバカではない。
僕が指摘しているのは、氏の主張が正しいかどうかを別次元の問題として横においた上での、原発をめぐる言論状況に対する、中川恵一氏の無神経さ、無自覚、ナイーブさ、戦術上のまずさである。