中川恵一『被ばくと発がんの真実』の無自覚な政治的かたより

今日(2012/01/07)から書店に並んでいる、中川恵一著『放射線医が語る 被ばくと発がんの真実』(ベスト新書)を読んだ。

著者の中川恵一医師は「東大病院放射線治療チーム」としてツイッターでも@team_nakagawaというユーザ名で情報提供しているので、ご興味のある方はフォローしてはいかがだろう。
本書の主張については、僕が要約するよりも、中川医師のツイートを引用した方がいいだろう。以下にいくつか引用する。

「事故からもうすぐ10ヵ月ですが、いまだに、主に東京を発信源とする『リスク情報』ばかりが乱れ飛んでいます。年末のNHKの報道番組ですら、全く間違った内容で、正直驚きました。http://d.hatena.ne.jp/buvery/20120105/ こんな中、被ばくと発がんリスクについてまとめた1冊を上梓しました。」 (2012/01/06 17:04
「『放射線医が語る 被ばくと発がんの真実』(ベスト新書)です。福島での現地調査、チェルノブイリ原発事故の総括、広島・長崎の被害分析を踏まえ、できるだけわかりやすく現状を読み解きました。副題は、ズバリ『フクシマではがんは増えない』です。http://www.amazon.co.jp/dp/4584123586/」(2012/01/06 17:06
「『御用学者』、『安全デマ』などの批判は覚悟の上です。久しぶりのツイートで本の宣伝をしたいのではありません。多くの方々の不安や疑問に少しでも応え、これから先へと歩み続けるためのささやかな指針となればと願い、福島の皆さんに献げるつもりで書きました。飯舘村にも寄附したいと思います。」(2012/01/06 17:06

お分かりのように、本書は風評被害や「リスク情報」を非難し、「『正確な情報の欠如』という現状」(p.5)を改善するために書かれている。
その論拠として本書で何度も引用されているのが、2011年にロシア政府が発表した『チェルノブイリ事故25年・ロシアにおけるその影響と後遺症の克服についての総括および展望1986~2011』という報告書と、ICRP(国際放射線防護委員会)の公表している基準である。
その報告書の「結論」の章から、著者の中川医師は以下の部分をくり返し引用している。

「『(事故後25年の状況を分析した結果)、放射能という要因と比較した場合、精神的ストレス、慣れ親しんだ生活様式の破壊、経済活動の制限、事故に関連した物質的損失といった、チェルノブイリ事故による他の影響のほうが、はるかに大きな損害を人々にもたらしたことが明らかになった』」(p.5~6)

さて、僕としてはここから、中川恵一氏の主張を批判的に検討してみる。
■ロシア政府報告書の政治的中立性に対する過信
中川恵一氏はロシア政府の報告書を、福島事故による健康被害を過小評価する方向に読み込みすぎていると思われる。
まず中川恵一氏は本書の第三章「広島・長崎の真実」で、広島市の男性の平均寿命が日本の政令指定都市中第4位、女性の平均寿命も同じく政令指定都市中第1位(いずれも2005年のデータ)であることを強調し、次のように書いている。

「非常に驚くべきことに、入市被爆者の平均寿命を調べると、日本の平均より長いのです。また、広島市の女性の平均寿命をみると、日本一長いことがわかります(政令指定都市の中で最も長寿)」(p.84 下線は原文ではゴシック太字。以下も同じ)

この原因として中川恵一氏は、原爆投下から2週間以内に爆心地から2km圏内に立ち入った人(=入市被爆者)にも、被爆者健康手帳が交付され、原則として無料で医者にかかれるようになったことをあげている。いわく、「無料で医療を受けられる効果は絶大です。」(p.86)
これを、医療関係者である中川恵一氏の我田引水と感じるのは僕だけだろうか。
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さて、本書p.107にはOECDの資料をもとに中川恵一氏が作成した、旧ソ連諸国の男性の平均寿命の推移グラフが掲載されている(上図)。チェルノブイリ原発事故の1986年以降、著しく下がっているが、中川恵一氏はこの原因を「過剰避難」にあるとして、次のように書いている。

「原爆の後、広島市民は長寿となりましたが、原発事故の後、チェルノブイリでは平均寿命が大きく下がりました。広島では、被爆者手帳などによる手厚い医療の力が、大きな効果を発揮しましたが、チェルノブイリでは、広島では行われなかった”避難”が、残念なことにマイナスにはたらいてしまいました」(p.108)

そして再びロシア政府の報告書を引用している。原文でもゴシック太字で引用されている。

「『チェルノブイリ原発事故が及ぼした社会的、経済的、精神的な影響を何倍も大きくさせてしまったのは、”汚染区域”を必要以上に厳格に規定した法律によるところが大きい』」(p.108)

そして中川恵一氏は次のように書く。

「避難によって放射線被ばくは減ったとしても、避難そのものが寿命を短縮させます」(p.109)

もう一度グラフをご覧いただくと、平均寿命が著しく下がっているのは、むしろ1989年のベルリンの壁の崩壊から1991年のソ連崩壊、そしてその後の数年間である。
旧ソ連諸国、とくに、旧ソ連全体の人口の51.4%(ウィキペディア)を占める、広大な旧ロシアのように、チェルノブイリ事故の影響を主因とするのが明らかに不合理な区域についても、まるでチェルノブイリ事故の避難が寿命を短縮させたかのように書くのは、どうだろうか。
むしろ、チェルノブイリ事故の避難より、社会主義体制の崩壊による社会的混乱や失業の増加、よく言われることだが、それにともなうアルコール依存の増加などが、旧ロシアだけでなく、旧ウクライナ、旧ベラルーシ(=旧ソ連全体の人口のたった3.54%)の平均寿命の低下を引き起こしたと考えるのが自然だろう。
さらに言えば、この2011年の報告書にロシア政府の政治的意図を読むのは深読みしすぎだろうか。
例えば次の資料を読んでみよう。
「【ロシア】原子力安全政策の現状」(2011.5 国立国会図書館調査及び立法考査局 海外立法情報課)
この報告によれば、ロシアは原子力発電プラント、核燃料、ウラン濃縮サービスを、石油・天然ガス依存からの脱出のためだけでなく、海外への輸出事業として積極的に推進している。以下、この報告から重要な部分を引用してみる。

「2006年にロスアトム(ロシア原子力公社)が公表したところによれば、2020年までに総発電量に占める原子力発電の割合を23%に、2030年には25%にまで増加させることが目標とされている」
「福島第1原発事故を受けて3月21日に開かれたIAEA(国際原子力機関)緊急理事会において、ロシアのベルデンニコフ代表は、『原子力エネルギーは人類の最も偉大な成果の一つであり、今後もエネルギー協力の主要な手段であると見なしている』とのメドヴェージェフ大統領からのメッセージを読み上げた上で、原子力エネルギーを削減すべきだとの意見には同調しないと述べている」

このように福島第一原発事故の後も、ロシア政府は公式に原子力発電の推進を表明している。そのロシア政府が、チェルノブイリ事故後25年の報告書で、旧ソ連時代の「過剰避難」を反省するのはむしろ当然だろう。
これほど明らかな政治的意図があるにもかかわらず、中川恵一氏はロシア政府のチェルノブイリ事故後25年の報告書の「過剰避難」の自己反省を、日本の「危険デマ」を批判するための有力な論拠の一つとしているのだ。
■国際機関の政治的中立性に対する過信
上記の国会図書館の報告に登場するIAEAもそうだが、中川恵一氏は国際機関について、政治的に中立なので信頼できるとしている。例えば以下の部分がそうだ。

「実際に、原資放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)、国際原子力機関(IAEA)、国際放射線防護委員会(ICRP)といった信頼できる国際的組織の報告には(以下略)」(p.93~94)

中川恵一氏自身は否定するだろうが、氏の政治的な偏りは第5章「放射線の『国際基準』とは」に現れている。UNSCEAR、ICRP、ECRRについての説明文から引用してみる。ECRRの説明文に特にご注意頂きたい。
まずUNSCEARの説明文から引用する。

「国連に原子力放射線の影響に関する科学委員会(UNSCEAR)という公的な機関があります。独立性と客観性が保たれていて、特定の国の力やイデオロギーには左右されません」(p.125)

つぎにICRPの取組みの説明には複数ページが割かれており、その中の「国際的な合意に基づく最も信頼できる枠組み」(p.128)から引用する。

「さてこのICRPが放射線防護に関する勧告を行うために最も重視しているのが、先述のUNSCEAR(国連科学委員会)による科学的な報告です。国際原子力機関(IAEA)は、このICRPによる勧告の内容を基にして、国際保健機構(WHO)などの国際機関と協力し、加盟各国に対して国際的な放射線防護基準などを提示しています」(p.128)
科学的な根拠にきちんと基づくという断固たる姿勢が、これらの機関による国際的な合意の信頼性を高めており、各国がその勧告に従うゆえんです」(p.128)

さて、最後はECRR(欧州放射線リスク委員会)の説明文から引用する。

「国連や各国政府とは関係を持たない非営利団体(NPO)で、反原発の主張を持つ科学者や専門家が多く参加し、ICRPに対抗するような活動を行なっています」(p.128~129)
「活動の中心人物クリストファー・バズビー氏は、内部被ばくの脅威を熱心に語りながら、一方で、放射線被ばくに聞くという高額な『サプリメント』の販売に関与していると報じられていることも、付け加えておきます」(p.129)

中川恵一氏はバズビー氏が「サプリメント」の販売に関与していることについて、何の出典も示していない。情報源を示さずに中心人物の風評を材料にしてECRRを批判するのは、他の国際機関と比べると明らかに偏っている。
他の場所にも、中川恵一氏のUNSCEAR、IAEA、ICRPに対する絶大な信頼はしつこく書かれている。

「実際に、国連科学委員会(UNSCEAR)、国際原子力機関(IAEA)、国際放射線防護委員会(ICRP)といった信頼できる国際的組織の報告には(以下略)」(p.177)
「1ミリシーベルトの被ばくといったら、内部被ばくであろうが、外部被ばくであろうが人体への影響は一緒です。欧州放射線リスク委員会(ECRR)の一部の学者による、そのような主張を聞きますが、単に恐怖心を煽るだけのものに思えます。」(p.186)

ECRRの見解については真剣に検討する価値はなく、「思えます」といった個人的感想で十分だと言わんばかりである。この部分にはまだECRR批判の続きがある。

「また、センセーショナルな発言の裏には、さまざまな動機が見え隠れします。被ばくに効果があるサプリメントの販売にかかわるなど、利害がからむこともあるようです」(p.187)

またクリストファー・バズビー氏に対する個人攻撃である。ここでもバズビー氏が「サプリメント」の販売にかかわっていることが事実だと証明する論拠や参考資料は示されていない。
百歩譲ってECRRがあてにならないことに同意するとしても、UNSCEAR、IAEA、ICRPが全面的に信頼できることを、僕らはどうやって納得したらいいのだろうか。
■中川恵一氏がふれていないこと
最後に簡単に中川恵一氏があえて書かなかったことについて書いておく。それはアメリカ軍が使用した劣化ウラン弾による、低線量被ばく健康被害のことだ。

これについては僕は専門家ではないので、参考図書をあげるにとどめておく。肥田舜太郎『内部被曝の脅威』(ちくま新書)だ。肥田舜太郎氏も医師であるが、自身が広島の原爆の影響で被曝している。
そして中川恵一氏が絶大な信頼をおいているICRPについて、その基準値が米国の核開発の政治的意図と連動している可能性があることなどは、同じく肥田舜太郎氏の翻訳によるラルフ・グロイブ、アーネスト・スターングラス著著『人間と環境への低レベル放射能の脅威―福島原発放射能汚染を考えるために』(あけび書房)を参照いただきたい。

こちらの本は以前ここでも言及したが、「ペトカウ効果」を擁護する内容である。おそらく中川恵一氏は「ペトカウ効果」を科学的根拠のないデマだと切り捨てるに違いない。
以上、どうやら中川恵一氏はネット上で「御用学者」だの「安全デマ」だのと非難されているようだが、本当にそうなのか。
まずは中川恵一氏が自らツイッターで読むことをすすめている本書を読んで、みなさんも自分なりに検証してみてはいかがだろうか。