続・石田衣良は東京電力と社員を憎むのを止めろと言うのを止めた方がいい

先日のブログ「石田衣良は東京電力と社員を憎むのを止めろと言うのを止めた方がいい」について、10年来の読者の方から論理の粗さを指摘されたので、改めてご説明したい。
インタビュー記事の原文は次のウェブページに掲載されている。『石田衣良 日本人は東京電力と社員を憎むのを止めた方がいい』(2012/01/02 NEWSポストセブン)
最初に僕自身の言いたかったことを要約しておくと、「反対でも賛成でもない」と主張する石田衣良の方こそ、価値判断にとらわれず「客観的」であることという「安全で正しい場所」に逃げ込んで、原発問題から自分自身の保身を図っているのではないのか。
「客観的であること」こそが、今までの原発推進行政が自己正当化と日本国民の説得のために利用してきたレトリックなのに、原発事故が起きた後もなお、その同じレトリックで自分の意見の正当性を主張する石田衣良は、過去音原発推進行政の言説を繰り返しているにすぎない。これが僕自身の言いたかったことだ。
さて、分かりやすい部分から先に取り上げる。石田衣良のインタビュー記事の原文の以下の部分だ。

「現代人は常に不安やストレスにさらされていて、そのはけ口として外部に単純な悪を設定したがる。外国ならそれが移民排斥などの民族問題になるんでしょうが、日本の場合は一部韓国や中国に向かっている以外は、今は東京電力や政府に向かっているんじゃないでしょうか。でも地震が起きる前はみんな、普通にテレビをみたりゲームをしたりして原発の恩恵にあずかっていたわけですから」

最初の主語は「現代人」で、これは明らかに総称なので、石田衣良もその一人である。ただ「不安やストレスにさらされていて、そのはけ口として外部に単純な悪を設定したがる」現代人の中には、石田衣良は含まれていない。含まれているとすると石田衣良の言っていることが「私はうそつきです」という言明と同じく自己矛盾になるからだ。
ここで石田衣良は「悪」という明らかに価値判断を含む言葉を使っている。
石田衣良は「外国ならそれが移民排斥などの民族問題になる」と言っているが、石田衣良の考えによれば、移民排斥運動をしている「現代人」は「移民」という「悪を設定」していることになる。
そして石田衣良によれば、「日本の場合は」、つまり日本の「現代人」の場合は、一部が「韓国や中国」という「悪を設定」している他は、その他は「今は東京電力や政府に向かっている」と言っている。このどちらでもない日本人はごく少数で、そのごく少数の中に石田衣良自身がいると読める。
ここで石田衣良は「東京電力や政府」を「悪」と設定する日本人に対して、「でも」と反論している。「地震が起きる前はみんな、普通にテレビをみたりゲームをしたりして原発の恩恵にあずかっていたわけですから」と。
いつの間にか「政府」が抜け落ちていることは置いておいて、石田衣良はここで、東京電力の「原発の恩恵にあずかっていた」日本人が、「東京電力」を「悪」と設定するのは不適切だと言っている。
言い換えれば、石田衣良は、地震が起きる前に東京電力の原発の恩恵にあずかっていた日本人には、東京電力を「悪」と設定する権利はないと言っている。
ここで石田衣良が言いたいのは、「悪」といった価値判断をふくまず、客観的に東京電力の問題点について論じるのはよいが、移民を「悪」と設定すべきでないのと同様、東京電力を「悪」と設定した上で東京電力を論じるべきではない、ということだ。
その証拠に、この前段で石田衣良は次のように言っている。

「いま日本のインテリが立ついちばん安全で正しい場所は「反原発」と「エコ」ですから。僕自身は反対でも賛成でもないけれど、客観的に電力事情をみれば原発を残さざるを得ないだろうなあと思っています。全ての悪も危険も排除して生きていくことは不可能なのだから」

石田衣良はここでも「悪」という価値判断を含む言葉を使っている。
「反原発」や「エコ」の立場にある「日本のインテリ」は、原発を「悪」だとみなしているようだが、「全ての悪も危険も排除して生きていくことは不可能なのだから」、彼らの主張は間違っている、という石田衣良の意見だ。
これを受けて最初に引用した「現代人は常に~」と続くので、石田衣良から見ると「反原発」の「日本のインテリ」は不安やストレスのはけ口として、「原発」という「外部」に「単純な悪」を設定している一例ということになる。
このように石田衣良は、徹頭徹尾、自分自身は主観的でもなく、「悪」や「危険」などの価値判断にとらわれることもなく、原発問題についてあくまで「反対でも賛成でもない」「客観的」な立場にあると言っている。
これらの後に次のような回答がつづく。

「正当な批判はすべきなんですが、『会社を潰してしまえ』とか『社員の給料をゼロにしろ』とか、無茶苦茶なことをいう人もいる。でも簡単に人を憎むのは止めた方がいいですよ。心の機構がそうなってしまうと、次からは人を憎むことでしか自分の確認出来なくなってしまうから」

厳密に論理的に考えると、「客観的」に原発問題や東京電力を語ること、イコール、「正当な批判」なのかは、このインタビュー記事だけからでははっきりしない。ただ、このインタビュー記事は石田衣良が、行き過ぎた東京電力批判への反論として書かれているのは明らかだ。
したがって、「正当な批判」をするには、「客観的」な立場をとる必要がある、とまでは言わないが、そうした方がよいと石田衣良は考えているはずだ。
東京電力に対する主観的な憎しみに満ちた人間であっても、東京電力に「正当な批判」ができるという、形式論理学的には補集合としてありうるが、このような無理なことまで、石田衣良が想定しているというのは、石田衣良について好意的すぎる読み込みだ。
最後に、僕の石田衣良のこのインタビュー記事についての論評について、石田衣良への悪意が過ぎるという批判については、甘んじて受ける。
なぜなら、石田衣良はNHK教育テレビでマイノリティーに関する問題を毎回とりあげる番組の司会をしており、僕個人はとても良識のある知識人だと思っていたからだ。
しかし、このインタビュー記事が、福島第一原発事故の被害者について一言も言及がないままに、客観性という、これまでの原発推進行政の欺瞞に満ちたレトリックの焼き直しに終わっているのを読んで、正直、愕然としてしまった。
あれだけ障がい者や性的マイノリティーなどの問題にコミットしておきながら、なぜ原発問題については客観性を標榜し、「反対でも賛成でもない」といった現実から遊離したような立場が存在すると主張し、反対派にも賛成派にもコミットしないのか。その理由が、どうしても理解できないのだ。

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