石田衣良は東京電力と社員を憎むのを止めろと言うのを止めた方がいい

石田衣良のインタビュー記事がいくら何でもひどすぎたので、取り上げてみる。
『石田衣良 日本人は東京電力と社員を憎むのを止めた方がいい』(2012/01/02 NEWSポストセブン)

震災小説執筆の不純な動機

要点は最後の3つめの回答。震災をネタに小説を書いて儲けようとしている石田衣良が、次のように語っている。3つめの回答をそのまま引用する。

「石田:いま日本のインテリが立ついちばん安全で正しい場所は「反原発」と「エコ」ですから。僕自身は反対でも賛成でもないけれど、客観的に電力事情をみれば原発を残さざるを得ないだろうなあと思っています。全ての悪も危険も排除して生きていくことは不可能なのだから。
現代人は常に不安やストレスにさらされていて、そのはけ口として外部に単純な悪を設定したがる。外国ならそれが移民排斥などの民族問題になるんでしょうが、日本の場合は一部韓国や中国に向かっている以外は、今は東京電力や政府に向かっているんじゃないでしょうか。でも地震が起きる前はみんな、普通にテレビをみたりゲームをしたりして原発の恩恵にあずかっていたわけですから。
正当な批判はすべきなんですが、「会社を潰してしまえ」とか「社員の給料をゼロにしろ」とか、無茶苦茶なことをいう人もいる。
でも簡単に人を憎むのは止めた方がいいですよ。心の機構がそうなってしまうと、次からは人を憎むことでしか自分の確認出来なくなってしまうから。」

石田衣良は、福島第一原発事故で避難を余儀なくされている人たちに対してもこう言いたらしい。
つまり、「『会社を潰してしまえ』とか『社員の給料をゼロにしろ』とか、無茶苦茶なこと」を言うな、「簡単に人を憎むのは止めた方がいいですよ。心の機構がそうなってしまうと、次からは人を憎むことでしか自分の確認(が)出来なくなってしまうから」と、避難中の元福島県民に対してもこう言いたいらしい。
そう言っておいて、震災をネタに小説を3本書いて生計を立てようというのだから、石田衣良の言っていることこそ無茶苦茶だ。

石田衣良に対する論理的な反論

いちおう論理的な反論もしておく。
僕らの社会は、ある行為を誰かに帰属させることで成り立っている。
その行為が法律に違反しているかどうかや、倫理的に善か悪かはとりあえず横においても、ある行為をした場合は、必ずその行為をしたのが誰かをはっきりさせることで、僕らの社会は成り立っている。
例えば、石田衣良という人物が存在して、その人物が書いた小説には著作権という権利が発生し、それに付随して印税収入というお金のやり取りが生じる。
このような社会的営みが成り立つのは、ある小説を書いたのは石田衣良(本名:石平庄一)と呼ばれている人物であるというふうに、行為が人に帰属されているからだ。
東京電力という会社も、僕らの生活している社会では「人」と見なされている。いわゆる「法人」というやつだ。「人」としての会社については、岩井克人の『会社はだれのものか』(平凡社)などをお読み頂ければと思う。

今回の福島第一原発事故についても、この行為の善し悪しは別として、誰が行った行為かははっきりさせないと僕らの社会そのものが成り立たない。
今回の事故は当然、福島第一原発を運転していた東京電力が行った行為である。
経済的な言い方をすれば、東京電力は福島第一原発を動かして発電することで収益を得て、その中から株主に配当を支払うことで、自分自身を存続させていたのだから、福島第一原発事故によって生じるさまざまな事について、まずは東京電力が何らかの対応をしなければいけない。
石田衣良が自分の書いた小説から印税収入を受けとるのも、東京電力が自分の起こした事故で日本中から非難されるのも、そのおおもとをたどれば、社会の中で行われた行為はすべて、誰が行ったかをはっきりさせるという、僕らの社会の基本の基本にあるルールに行きつく。
石田衣良もこのことは否定しないだろう。自分の書いた小説をネット上にじゃんじゃん無断転載されたら、「俺の小説を勝手にネットに載せるな!」と怒るだろうから。
なので、残る問題は以下の2つになる。
(1)東京電力を「正当に批判」できるのは、日本人全員のうち誰か、どういう範囲の人たちか。
(2)どの程度までの批判なら「正当な批判」と言えるのか。
石田衣良は「でも地震が起きる前はみんな、普通にテレビをみたりゲームをしたりして原発の恩恵にあずかっていたわけですから」と言っているので、(1)については「日本人の誰も東京電力を正当に批判できない」と言っているのと、ほぼ等しい。
なぜなら、福島原発事故の避難民も東北電力が稼働している「原発の恩恵にあずかって」おり、その他の日本人もほぼ全員が原発の恩恵にあずかっていたからだ。
すでに石田衣良は(1)について、日本人の誰も東京電力を「正当に批判」できないと答えているので、(2)は考える必要もない愚問になる
しかし、なぜか石田衣良は(2)についても答えている。「『会社を潰してしまえ』とか『社員の給料をゼロにしろ』」というのは「無茶苦茶」だというのだ。
なぜ石田衣良が、日本人は誰も(今回の事故の避難者も含めて)東京電力を正当に批判できないと言いつつ、正当な批判の目安についても答えているのか、僕には理解できない。残念ながらこの記事の中には書かれていないので、石田衣良は何らかの線引きをしているらしい、とまでしか言えない。
だが、日本人の誰も東京電力を「正当に批判」できないと言いつつ、「正当な批判」の目安に言及している石田衣良の議論は矛盾している。したがって(2)については、やはり僕らは考える必要はない。

石田衣良の論理の破綻

以上が石田衣良に対する論理的な反論だ。ここからはさらに深読みしてみる。
石田衣良は「いま日本のインテリが立ついちばん安全で正しい場所は『反原発』と『エコ』ですから」とも言っている。彼自身は「僕自身は反対でも賛成でもない」と言っているので、彼は自分で自分のことを「日本のインテリ」ではない、と主張していることになる。
原発について反対でも賛成でもないが、「客観的に電力事情をみれば原発を残さざるを得ないだろうなあと思っています」とも言っている。石田衣良は自分が「インテリ」ではないと主張すると同時に、自分の考え方が「客観的」だと主張している。
つまり「非インテリ」と「客観性」は両立しうるというのが、石田衣良の考え方だ。
さらに石田衣良は、東京電力を「不当に批判」することを、「外部に単純な悪を設定」することであり、外国における「移民排斥などの民族問題」と並列のものだとしている。ただ、正直僕には、なぜ東京電力に対する「不当な批判」と「移民排斥」を並列できるのか、全く理解できない。
「東京電力」は、日本という国のたかだか数万人の従業員からなる一営利企業であり、「民族」は場合によっては数千万人から数億人規模の集団だ。
それに「東京電力」は日本という特定の国の法律で定義された集団だが、「民族」は特定の国の法律によらない集団で、どこまでを「排斥」の対象にするかの境界線さえあいまいだ。
これだけ性質の異なる集団に対する、「批判」と「排斥」というこちらも性質の異なる行為を、なぜ並列の事象と見なせるのか。僕には石田衣良の考えが理解できない。
さらに言えば、「東京電力」に対する「不当な批判」が、すべて「憎しみ」から生じているかのような石田衣良の考え方も全く理解できない。3つめの回答の最後が「憎しみ」の議論で終わっていることから、石田衣良が「不当な批判」と「憎しみ」を関連づけていると考えるのが自然だろう。
まして、東京電力を一旦「憎しみ」に基づいて「不当に批判」すると、それ以降、批判した当人が「憎しみ」によらなければ自分が自分であること、つまり自分のアイデンティティを確認できなくなるという発想の飛躍も理解できない。
なるほど、これだけの論理の飛躍があるので、石田衣良は「インテリ」ではない。マスメディアからインタビューを受ける人物が持つべき、最低限の論理的思考能力さえ持ち合わせていない。

石田衣良の議論の非倫理性

最後にもう一度書いておく。石田衣良は、今回の福島第一原発事故で避難を余儀なくされている人たちにも、「会社を潰してしまえ」とか「社員の給料をゼロにしろ」というふうに、東電を「不当に批判」するなと言うのだろうか。
さすがに福島第一原発事故の避難者にそこまで言えないとすれば、石田衣良は「東電を不当に批判するな」と、避難者の親戚に対しては言えるのか。避難者の知り合いに対しては言えるのか。
避難者の支援をしているボランティアや市民運動家に対しては言えるのか。飯田哲也や神保哲生、宮台真司、高橋源一郎、山本太郎といった反原発派の人たちに対しては言えるのか。
そうして少しずつ範囲を広げて行くとき、石田衣良はいったいどれだけの範囲の人たちは、東京電力を「不当に批判」してもいいと言うのか。石田衣良はその範囲を明確にすべきだ。
いや、石田衣良ならきっとこう反論するだろう。
「政府はどこまでの住民を避難させるか、まだ範囲をはっきりさせないが、それでも政府を不当に批判すべきではありません。同じように、どこまでの人たちに東電への不当な批判が許されるか、範囲をはっきりさせない私のことも、皆さんは不当に批判すべきではありません」
さらに石田衣良は、こうも反論するだろう。
「この『愛と苦悩の日記』というブログのように、私を憎しみから不当に批判することこそ、まさに私が批判したかった事象です。私を一度憎めば、次からは他の人に対しても憎むことでしか自分の確認ができなくなりますよ」
これが石田衣良の言う、客観的な見方らしい。なるほど彼は自分が不利な立場に陥らないように、うまく予防線を張っている。論理的に完全に破綻していることを除いては。