宮台真司・大塚英志『愚民社会』を読んだ

宮台真司・大塚英志『愚民社会』(太田出版)を読んだ。

普段から宮台真司の議論をフォローしている人にとっては、最近の宮台真司の議論のおさらいになるので、いつもながらとても明快な内容で、何の違和感もない。
ただ、本書が宮台真司の他の著書と違う点は、大塚英志氏がかなりしつこく宮台真司のコミュニケーション戦略を相対化し、ツッコミを入れているところだ。
特に第三章で大塚英志が宮台真司に対して、あえてする改憲の主張という戦略に、本当に不備がないと思っているのか、しつこくつっこんでいる部分が参考になる。
そのしつこいツッコミに対して、宮台真司は最後の最後では自分は楽観的であると告白し、それに対して大塚英志は悲観的であると告白する。
つまり、宮台真司は啓蒙的なコミュニケーションが、ごく少数の人々に対してであっても影響をおよぼし、日本の不毛な政治的・文化的言論を変えることができるという希望を持っているが、大塚英志は啓蒙的なコミュニケーションよりも、既存の思考様式にのっかる、ある種の単純化・マニュアル化という切り下げのコミュニケーションでなければ、何も変わらないと悲観的だ。
僕個人の立場は大塚英志に近い。
宮台真司の議論はつねに明快だけれど、僕自身も正しく理解している自信はない。単なる宮台フォロアー、似非ミヤダイ信者と化しているおそれは十分にある。それは、結局のところ宮台真司本人に判定してもらうしかない。
いまあえて「宮台真司本人に判定してもらうしかない」と書いたように、宮台真司が自分の議論についての誤解を、懸命に訂正すればするほど、宮台真司の議論を読んだり聞いたりしている人たちは、ますます自分の理解が間違っているのではないかと不安になる。
そして不安になればなるほど、ますます宮台真司の言論に依存するようになる。これは宮台フォロアーを増やすだけで、宮台真司が期待しているように、彼の協力者を増やす結果にはならない。
結果として、日本の市民は、宮台フォロアーと、宮台嫌いと、宮台真司を含む言論空間全般に無関心な一般人の三種類に別れる。圧倒的多数を占めるのは、もちろん無関心な一般人で、宮台嫌いは、宮台真司の議論に多少なりとも関心を持つだけまし、ということになる。
この状況に悲観的にならない宮台真司が理解できない、という大塚英志の「感覚」は、僕も大いに共感する。
宮台真司は承認を決して安売りしない。それは思想家としては正しいが、いくら宮台氏自身が「あえて」大乗仏教的な説き方をしたところで、無関心な一般人にその声はそもそも届かない。
宮台真司は自分の声が、宮台氏が顔を思い浮かべることの出きる数十人、数百人単位の人たちを除いて、誤解されるどころか、まったく届いていないことに「あえて」気づかないふりをしているのだろうか。
こんなことを書いている僕の声は、残念ながら宮台真司には届かない。届かないので、僕は自分の解釈を訂正しようがない。訂正しようがない限り、僕は宮台真司を正しく理解しているかどうかについて、永遠に宙吊りのままになる。
永遠に宙吊りのままでは、僕は宮台真司の議論に同意することはできても、それに基づいて行動することまではできない。いや、正確に言えば、行動しないことはできないので、自分の行動が僕が個人的に正しいと考えている宮台真司の意図に沿った結果を生み出すものなのか、僕一人では検証できない。
そうしてますます似非ミヤダイ信者として、宮台真司の言説に依存せざるを得なくなる。
『愚民社会』の書評として、こんな下らないブログが書かれていることについて、宮台真司はがっくりするしかないだろう。
しかしそれは宮台真司のコミュニケーションが、僕のような「愚民」に届いたときに常に引き起こす蓋然性のある「コミュニケーションの失敗」なのだから仕方ない。
宮台真司自身が宮台真司をめぐるコミュニケーションのすべてを、完全にコントロールできるという考え方は、言うまでもなく自己矛盾だ。失敗が起こりえないなら、そもそも愚民社会を議論する必要さえない。