『輪るピングドラム』における作為の契機と愛と共同性

『輪るピングドラム』がTBSでは昨晩最終回をむかえたので、とりあえず最初のレビューを書いてみる。表現技法については置いておいて、物語についてのレビューだ。
この物語は、要約すると次のようなことだと思う。
いま自分が生きている世界は、別の姿でもありえたが、その別の世界で起こったかもしれない大きな不幸をなくすために犠牲になった誰かのおかげで、いまの自分がある。この世界は、運命が決めたものでもなく、自分一人の意思で変えられるものでもなく、みんながいっしょに作っているものだ。
でも、最終回を見て、次のように思った人もいるかもしれない。
『輪るピングドラム』は並行世界についてのお話である。こうであったかもしれない世界もあれば、ああであったかもしれない世界もある。複数の可能な世界が、地下鉄のように入り組みながら走っている。
登場人物たちは、主人公の少女(高倉陽毬)の命を救うために、一つの世界から別の世界へジャンプした。その結果、元の世界で三人でいっしょに暮らしていた幸福を失ったが、少女の命は救われた。
こんなふうに解釈することもたしかにできそうだ。
でも『輪るピングドラム』は複数の並行世界を、SF的に客観的かつ平等にあつかっているお話ではない。そうではなく、いま自分が生きている世界がいかに理不尽であっても、それを引き受けなければならないというお話だ。
三人がいっしょに暮らしていた世界は、あくまでこの世界を説明するための単なる仮定、単なる手段である。
自分が生きている世界は自分で選んだわけでもないのに、どうして押し付けられなきゃならないのか、と言いたくなるかもしれない。
その素朴な疑問に対して、いやいや引き受けなければならない理由があって、それはこういうことだよ、と語りかけてくるのが『輪るピングドラム』である。
もう少しくわしく説明しよう。
自分が生きている世界は、たしかに自分が複数の選択肢から自分の意思で選んだものではない。SFの並行世界のように、一つの世界から別の世界へ自分の意思でジャンプできるようなものではない。
しかし、自分が選んだものではないからといって、この世界は神様のような人間を超えた存在が作ったものではないし、自分が「この」世界に生まれたのは、運命のような抗しがたい力によるものでもない。
この世界は自分と同じ、不完全で説得可能な人間たちが作り上げた、あくまで人為的なものである。神が創ったものでも、運命が決めたものでもない。
僕らがまず自覚しなきゃいけないのは、この世界で僕らが受ける不幸も幸福も、僕らと同じ人間が作り出したものということだ。
そういう不幸や幸福を、神様や運命といった人智を超えたものの責任にするのは、この世界に生きている人間は自分一人だけだという、とんでもない思い上がりか、自分は何ものでもないという、とんでもない自己否定かの、どちらかだ。
『輪るピングドラム』によく登場する、運命という言葉が嫌いだ、というセリフは、この世界が人間の作った不完全なものであることを引き受けよう、というメッセージである。
また、「何ものにもなれないお前たち」というセリフは、この世界が神様や運命といった人智を超えたものの産物だと思い込んでいる人たちに向けられている。この世界は人間の作ったものだ。
ただ、この世界が人間の作ったものであることを認めるのは、大変だけれど、死ぬほどではない。
主人公の少女(高倉陽毬)と、血のつながらない二人の兄(高倉冠葉、高倉晶馬)の三人がいっしょに暮らしていた世界は、『輪るピングドラム』の中では実在するものとしてではなく、この世界が人間の作ったものだということを説明するための、単なる手段として描かれている。
ふつうに考えれば、あの三人、高倉冠葉、高倉晶馬、高倉陽毬の血のつながらない三兄弟の生活こそ、理想的な世界のように思える。
しかし、あの三人の共同生活がある世界は、世界は自分の自由意志で選ぶことができると考えた人々が起こした、大きな不幸の上に成り立っていた。
物語の中で「企鵝の会」という、オウム真理教を思い出させる宗教団体が、地下鉄で起こした爆破テロ事件がそれだ。
しかし爆破テロという主体的な行為によって、世界は天国のような場所にはならなかった。世界は特定の人たちの自由意志だけで、一発逆転みたいに天国に変えられるほど単純ではない。
ところが、テロ行為を起こした家族に生まれた息子である高倉冠葉は、中途半端な幸福しかない世界を、両親と同じ考え方で、一気に幸福な世界に変えようとする。
愛すべき妹の高倉陽毬が不治の病であるという設定は、この世界の幸福がどこまで行っても完璧ではなく、不幸とうらはらで、不完全であることの象徴だ。
高倉冠葉は、そんな中途半端な世界を、完璧な世界に変えるために、つまり、高倉陽毬の不治の病を完全に治すために、自分の両親がかつて使った「世界を一気に変える方法」を再び使おうとする。つまり地下鉄の爆破テロだ。
しかし、その高倉冠葉の血のつながらない弟である高倉晶馬は、自分の命が高倉冠葉のくれた「半分のリンゴ」で救われたことを、やっとのことで思い出す。
この「半分のリンゴ」は、自分の生きている世界が、人智を超えた存在によって保たれたのではなく、人間のささやかな優しさ、たった半分だけのリンゴのようなものによって作られたことを示している。
たしかにそうして作られた世界は、完璧に幸福というには程遠いかもしれない。むしろ不幸の方が多いと感じるかもしれない。しかし、不幸を運命のように思ってもいけないし、テロのような行為で一発逆転できるようなものだと思ってもいけない。
世界の不完全さを受けいれることで初めて、僕らはこの世界にささやかな幸福を感じながら、生き続けていけるのではないか。そうすることで初めて、僕らは「何ものか」になれるのではないか。
高倉晶馬が半分のリンゴを思い出したことで、高倉冠葉もようやく、この世界の不完全さと、この世界が自分たちと同じ人間の作ったものであることを受け入れ、「何ものか」になる。
「何ものか」になるということは、言い換えると、他の可能性、他の世界をあきらめるということだ。何かをあきらめなければ、この不完全な世界で生き続けることはできない。それが「生存戦略」である。
高倉冠葉が高倉陽毬の命を救うためにあきらめたのは、この世界を一発逆転で完全なものに変えられるという、まったく間違った狂信と、高倉陽毬が自分の愛すべき妹であるということだった。
そうすることで、高倉冠葉、高倉晶馬、高倉陽毬は、三人とも、ほんとうの意味での世界、つまり、不完全だけれどもささやかな幸せのある世界に戻ることができた。
その結果、高倉冠葉と高倉晶馬の兄弟は、結局、自分の愛すべき妹である高倉陽毬を失ったことになる。不完全なこの世界では、高倉陽毬はもはや、冠葉や晶馬の妹ではなく、見ず知らずの他人になってしまう。
でも、以前の世界でも、テロを決行して世界を失う代わりに、陽毬を救ったところで、そんな世界で三人とも生き延びることはできなかっただろう。
三人は、世界の完全性をあきらめたことで、初めて世界の中で生き延びることができた。生存戦略。
陽毬は、高倉冠葉と高倉晶馬の妹ではなく、知り合いでさえない、見ず知らずの他人になってしまうことで、実質的には二人の兄を失った。
それでも、三人ともが生き延びたこの不完全な世界には、世界がたしかに人間の作ったものだという「痕跡」がちゃんと残っているのだ。
「大スキだよ!!お兄ちゃんより」という、ぬいぐるみのお腹の中に入っていた手書きのメモ。
あのメモは、不幸なこともたくさんあるけれど、自分が「何ものか」としてこの世界を生き延びさせてくれた人々、この世界を作っている人々が、この世界に残した「痕跡」だ。
たとえこの世界で、たくさんの不幸や理不尽なことに出会っても、自分が「何ものか」として生きていけるのは、あのメモのように、この世界を作っている人々が、自分のために残してくれた「痕跡」があるからだ。
その「痕跡」を「愛」と呼んでもいいだろう。
すべてが運命で決められているのでもなく、すべてを自分の意思で一発逆転できるわけでもない、そんな不完全な世界には、逆に、自分に向けられた「愛」が至るところに散らばっている。
その「痕跡」は、この世界が人間の作ったがゆえに不完全であることの証拠でもあり、自分が愛されていることの証拠でもある。
幸福なことも不幸なこともふくめて、この世界は自分と同じような人間たちが、いっしょに作り上げたものだからこそ、至るところに自分に向けられた「愛」を見つけることができる。
僕らはこの世界が自分の選んだものではないこと、自分の意思だけではどうにもならないことを嘆く必要はない。
この世界が人々が共同で作っている不完全なものであることを受け入れれば、至るところに愛の痕跡を見いだすことができ、そのおかげで、この世界を紡ぎつづける作業に加わることができる。つまり「何ものか」になることができる。
運命の果実をいっしょに食べるということは、この不完全な世界が、自分ひとりではなく、人々がいっしょに作り上げているということだ。運命と呼ばれているものは、実は人々がいっしょに作り上げ、紡ぎつづけているこの世界そのものであるということだ。
この世界の人々がいっしょになって、この不完全な世界を作り上げ、紡ぎつづけていることに気づけたからこそ、三人は運命の果実を飲み下し、この世界が一冊のノートによってあらかじめ決められているといったような、運命の呪縛から解き放たれる。
運命の呪縛から解き放たれたとき、最終回までずっと、この世界を説明するための手段として描かれてきた架空の世界は、くるりと回転した。
そして、不完全だけれど、至るところに愛の痕跡を見いだせるこの世界、まさに僕らが生きているこの世界に、もどってくることができたのだ。