続・モーターショーで「リア充」がカメラ小僧を見くだす風景について

先日のイベント・コンパニオンのお話について、続きを書いてみたい。
たまたま今日の『日経ビジネスオンライン』の連載「フェルディナント・ヤマグチの走りながら考える」が『カメラ小僧も迷子も集うモーターショー。まだまだクルマは捨てたもんじゃない』(2011/12/15掲載分)が、タイトルのとおりカメラ小僧に言及していたからだ。
この連載は『日経ビジネスオンライン』の連載の中ではいつも軽妙な文章と、筆者フェルディナント・ヤマグチ氏のほどよいボケも含めて、人気の連載のようで、僕もたまに楽しく読ませて頂いている。
で、今回の記事からイベント・コンパニオンとカメラ小僧について言及した部分、正確に言うと写真のキャプションの文章を引用してみる。
まず、車の前でポーズを決めるイベント・コンパニオンを、カメラ小僧が取り囲んでいる写真のキャプション。

「で、パニオン嬢。今回は『女性だけの撮影お断り』なんてブースもあったりして、行き過ぎたカメラ小僧対策に乗り出した会社もあった。だが、やはり大勢いらっしゃる『パニオン狙いのカメラ小僧』諸氏」

次に、受付嬢のイベント・コンパニオンを、カメラ小僧が取り囲んでいる写真のキャプション。

「慣れた方はクルマの前に立つパニオンだけでなく受付嬢も対象にする。しつこく食い下がり意味不明の質問を繰り返す姿は異様としか言いようがないのだが、若き受付嬢は作り笑いを崩さずに余裕の対応。いやプロってのは大したもんだ。しかし男の社員もボサっと見てないで助け舟を出してあげりゃいいのに」

さすがフェルディナント・ヤマグチ氏、そつのない文章だが、一つだけ気になるのは「しつこく食い下がり意味不明の質問を繰り返す姿は異様としか言いようがない」という部分。
たしかに土日、秋葉原を歩いていても、ビラ配りのメイド姿の女性に、「しつこく食い下がり意味不明の質問を繰り返」している中年男性はいる。
フェルディナント・ヤマグチ氏は明らかに「リア充」で、車を趣味として楽しみ、体力づくりのためにランニングにいそしみ、『日経ビジネスオンライン』に連載を持っているくらいだから、それなりの収入もある人なのだろう。
一方、展示会のイベント・コンパニオンや、秋葉原でビラ配りをしているコスプレ姿の店員など、ある意味「無防備」な若い女性でなければ、彼女らと話す機会のない中年男性は、フェルディナント・ヤマグチ氏に比べれば「非リア充」であることに違いない。
イベント・コンパニオンと秋葉原のビラ配り店員に共通するのは、話しかけたり写真を撮ったりしても、無料、ということだ。もし経済的余裕があれば、今の日本には若い女性と話すことができるシステム、メイド喫茶やキャバクラなどが存在する。そしてメイド喫茶やキャバクラで働くことで生活のための収入を得ている女性たちが存在する。
公共の場で「リア充」たちの軽蔑の視線を浴びつつ、イベント・コンパニオンに話しかけるよりは、同じ目的で来店している客しかいない「お店」で若い女性に話しかける方が、「非リア充」の方々にとって気楽なはずだ。
まして上述の記事では、「非リア充」の方々は、フェルディナント・ヤマグチ氏の残酷なカメラのレンズの被写体としてもてあそばれている。
なぜ「非リア充」の方々がそうしないのかと言えば、経済的余裕がないからだ。いや、経済的余裕がないから、「非リア充」に陥ったというべきだろう。
彼らに経済的余裕がないのは、数十万円する大砲のような望遠レンズや、アニメのキャラクターの稀少なフィギュアに給与をつぎ込んでいるからかもしれない。
しかし、そういう消費行動で経済的余裕がなくなった結果、「非リア充」になったのではなく、「非リア充」だから、イベント・コンパニオンを撮影した写真や、フィギュアを収集することで「しか」、生きている実感を得られないと言うべきだろう。
つまり、経済的余裕がないから、経済的余裕のある人々から見れば軽蔑したくなるような趣味的な行為でしか、生きている実感を得られないということだ。
非正規雇用の増加が、従来から経済弱者だった母子家庭や女性の単身世帯をさらに困窮させるのと並行して、男性の単身世帯も二極化させたのは厳然たる事実だ。男性の単身者は、かつて「独身貴族」と呼ばれたような「リア充」層と、言葉は悪いが、一目でそれと分かるような「非リア充」層に、はっきり分かれた。
モーターショーのような展示会場で、イベント・コンパニオンに群がるカメラ小僧と、それを嘲笑する人々は、この二極化の一つの風景である。
しかし、前回のくり返しになるが、イベント・コンパニオンも会社勤めのOLに比べれば、安定した職業とは言いがたい。展示会の華やかな姿は一見「リア充」だが、経済水準では必ずしも「リア充」とは言えない。
ただ、性別役割分業がいまだに残っている日本の社会では、彼女たちには結婚という「永久就職」の選択肢が残されている。なので男性の「リア充」が、彼女たちを自分の側の「リア充」階級と勘違いする現象も出てくる。
その勘違いの片鱗は、上記に引用したフェルディナント・ヤマグチ氏のキャプションにも現れている。「若き受付嬢は作り笑いを崩さずに余裕の対応。いやプロってのは大したもんだ」という箇所に。
この表現は暗に、「カメラ小僧のような”下層階級(=非リア充)”の相手をさせられる”上流階級(=リア充)”は、彼女らのように冷静であることによって、上流階級としての矜持を保たねばならない」という意味のことを言っている。
そんな下々の者にカメラのレンズを向け、モザイク入りとはいえ『日経ビジネスオンライン』という、曲がりなりにも有名経済誌のウェブ版に掲載してしまう、フェルディナント・ヤマグチ氏の「リア充」としての傲慢さが、毫も非難されていない点に、『日経ビジネスオンライン』がまさに経営者側の経済誌であることが見て取れる。
ところで、コスプレを趣味にしている女性のブログやウェブサイトを見ると、トップページによく次のような意味のことが書いてある。コスプレなどに嫌悪感を持つ方はご覧にならないことをおすすめします、などなど。
お台場の東京ファッションタウンのような、建物の外から見えるガラス張りの会場でコスプレ・イベントが行われるとき、一般の家族連れが向かい側の建物から、イベント会場を埋め尽くすコスプレイヤーやカメラ小僧に向ける視線は、あからさまに軽蔑の視線だ。
モーターショーでフェルディナント・ヤマグチ氏のような”上流階級”の人々が、カメラ小僧のような”下層階級”の人々に向ける視線も同じく、憐れみをたたえた軽蔑の眼差しである。
日本で自動車が売れなくなっているというのは、こういうことなのではないか。
もしかすると、今は二極に分かれてしまっている男性たちも、小学生のころは同じようにモーターショーで「かっこいいスーパーカー」に瞳を輝かせていたかもしれない。
しかしその後の人生が彼らを二つの階層に分離したのかもしれない。
一方の”上流階級”は日常的にお気に入りの自動車の走りを恋人や家族といっしょに楽しむ生活をし、他方の”下層階級”は若い女性との直接の接点にならず、維持費ばかりかかる自動車より、むしろイベント・コンパニオンの写真を収集することに楽しみを見いだすようになったのかもしれない。
そして今の日本社会では、「機会の平等」が確保されているという神話を信じるなら、”下層階級”がそうなったのは自己責任、彼ら自身の選択である。
イベント・コンパニオンに「しつこく食い下がり意味不明の質問を繰り返す」ような「異様としか言いようがない」姿を公衆の面前にさらしているのは、彼ら自身の責任である。
今日の『日経ビジネスオンライン』のフェルディナント・ヤマグチ氏のコラムのタイトルと、悪意のあるモザイク入りのカメラ小僧たちの写真には、そういった自己責任論がはっきり読みとれる。
彼らのお世辞にも小ぎれいとは言えない服装にカメラを向け、『日経ビジネスオンライン』誌上にさらすことが、”上流階級(=リア充)”の自己責任論を正当化し、その自尊心をくすぐってやまないのだろう。