近未来の世界についての物語と、いわれのない偏見

近未来の世界で、こんなお話があったらどうだろう。
生きているうちには、さまざまな困難があるが、そこにつけこんで人々を自殺へいざなう新興宗教のようなものがあったとする。
ふつうの市民は自殺の背景に宗教があることを知らない。その宗教が人を自殺へ導こうとしているとき、先回りして防げるのは、ある特殊な能力をもつ人たちだけだ。
その特殊能力は特定の条件を満たす人間なら誰でも手に入れられるが、リクルーターのような役割をしている者たちと契約を結ぶ必要がある。
ただ、そのリクルーターは、潜在能力の高そうな人間の前にしか現れないので、じっさいその能力を手に入れた人数はごく少ない。
常識的に考えて、リクルーターが目の前に現れても、命を危険にさらしてまで正体不明の宗教と戦う気にならない。
そこで、リクルーターたちは交換条件を出す。戦いに参加してくれれば、あなたの希望を一つかなえてあげよう。その希望はどんなことでもかまわない。これがリクルーターと結ぶ契約の中身だ。
それでもこんなウサンくさい話にのる人は少ない。したがってリクルーターたちは、不幸な人間をねらって、声をかけることになる。
例えば、大事な人の病気を治してあげたいと願っている人間に、病気を完治させる条件で宗教との戦いに参加してもらう。
リクルーターと契約を交わした後、具体的にどのように宗教と戦うのかといえば、宗教の信者を殺害することによってである。決して楽な仕事ではないことを知った上で、それでも自分の願いをかなえたい人だけが、リクルーターと契約することになる。
ところが、じっさいに戦いを重ねるにつれて、精神的、肉体的な過酷さにくらべて、自分の願いがかなったことで得られたものが少ないことに気づく。
大事な人の病気を治すために契約した事例では、完治した人が健康になったことで、かえって自分なしでも生きられるようになってしまった。
そのためこの人は、自暴自棄になって宗教との戦いにのめりこみ、逆に、その宗教の側にとりこまれてしまうという悲劇が起こる。
よく考えると、人生のある時点での願いがかなったからといって、それ以降、死ぬまで幸せになるわけではない。願いを一つかなえることと引きかえに、戦いに身を捧げるという契約は、はじめから割りに合わないのだ。
リクルーターたちはそれを知った上で、潜在的な能力のある人間を誘っていた。
契約を結んで宗教との戦いに参加した人は、時間がたつと、みな宗教の側にとりこまれてしまう。すると、その宗教は勢いを増すので、リクルーターはさらに新たな人材を勧誘をする必要がある。自分で火をつけて、自分で消す。完全なマッチポンプ状態。
このお話は、近未来の世界はそうした絶望的な状況になっているかもしれない、ということを暗示している。
さて、この絶望的な状況を打破するには、どうすればいいだろうか。
一つの方法は、自分の親友が契約をして戦いに参加してしまったら、その親友が決して宗教の側にとりこまれないように、徹底的に手助けすることがある。そのために、契約の条件として「その親友と初めて出会った日にいつでも戻れる」ことを願う手がある。
そうすれば、親友が戦いで死ぬか、宗教の側にとりこまれるかしたら、その親友と初めて出会った日に何度でも時間をさかのぼって戻ることができる。
しかしこの方法には限界がある。何度同じことをくり返しても、結末は変わらないかもしれないのだ。
したがって最善の方法は、「この世から例の宗教がなくなる」願いを条件に契約することだろう。そうすれば、戦いの前提そのものが消えることになる。
ただ、この方法にも問題がある。この願いで契約を結んだ人は、自分の唯一の存在意義である戦いを失ってしまう。この人は事実上、世界に存在しないことになってしまうのだ。
宗教と戦うために契約し、そのために宗教にとりこまれ、とりこまれた人と戦うためにまた契約し、という、上記のマッチポンプ状態は消えてしまう。
このマッチポンプ状態が消えると、そう願った人間は、いわばこのマッチポンプの構造によって支えられていた世界全体を一身に背負って、世界の外側に永遠に追放されることになる。
でも逆に考えると、そうしてできあがった新たな世界は、世界の外側に追放されたその人が存在しなければ存続できないとも言える。古い世界を支えていたマッチポンプ的な仕組みを消したその人は、新たな世界を支える原理のようなものに変わる。もはや人ではなく、神のような存在になると言ってもいい。
だからこそ、そんな神のような存在になってしまった人間は、世界のあらゆる人々の記憶に、さまざまな形でかすかな痕跡を残すことになる。
以上、僕が何の話をしているか、すぐに分かった方と、分からなかった方がいると思う。
こういったすぐれて哲学的な物語に、『魔法少女まどか☆マギカ』というタイトルがついてアニメになっているだけで、毛ぎらいする偏見の持ち主は、残念な人たちだ。
そういった偏見の持ち主は、監督が宮崎駿で、『天空の城ラピュタ』などのタイトルがついていれば、まったく同じ物語でも、きっと喜んで観るのだろう。