岡田斗司夫のニコニコ生放送ゼミについて

さっきまでニコニコ生放送で岡田斗司夫の放送を見てた。「ニコ生岡田斗司夫ゼミ」という番組。いろいろもっともらしいことを言ってたけど、意外に内容はムチャクチャなんだよね。
小飼弾は「機械政府」という表現で、東浩紀の「一般意志2.0」を2年早く言ってたが、東浩紀が評価されて小飼弾が評価されないのは、東浩紀が東大卒で学閥に所属しているからだ、云々。
岡田斗司夫の話は全般的に、インテリの王道を歩めなかった、ちょっと頭のいい人間にすごく訴求するように語られているんだよね。
なぜ村上隆と東浩紀は、やっていることの構造は同じで、どちらも数十年後、百年後に現代という時代をふり返ったとき、引用しやすい目印になるように現代をうまくまとめているだけだ、ということ。
なのになぜ村上隆は嫌われていて、東浩紀はそれほど嫌われていないかといえば、村上隆は成功して金を儲けているからだ。
この村上隆vs東浩紀論にしても、「結局はぼくら村上隆に嫉妬してるだけだよね」という、嫉妬の対象が才能なのか経済的成功なのか、わざとあいまいなところで「インテリ崩れ」の視聴者の感情のフックに見事にこたえるようなオチをつけている。
こういう話の展開も、あらかじめ岡田斗司夫がレジュメにまとめてあるんだから、その話をニコニコ生放送で視聴しながら、同意のコメントを書き込んでいる時点で、すでに岡田斗司夫の島宇宙の住人なわけだ。
ところで、小飼弾の「機械政府」の話は一度もまともに聞いたことがないけれど、そもそも民主主義という制度は効率性など求めていない。
民主主義を多数決と混同しているおバカさんは置いておいて、民主主義は合意形成のために少数派の意見を調整する過程まで考慮に入れた膨大な政治的手続きなので、効率的か非効率かといえば、非効率きわまりない政治制度だ。
日本には一度も本当の民主主義がなかったかもしれないけれど、欧米諸国で一定の本当らしさをもつ民主主義が何とか機能しているのは、それだけ非効率な制度であっても運用できるくらい、その基盤になっている社会が成熟しているからだ。
なので、メールや検索キーワード、ブログ、つぶやきなどなど、インターネット利用者がネットに向かって発信する膨大な情報を、グーグルの検索エンジンのような仕組みで解析して、集約する技術があれば、民意の最大公約数を効率的に抽出できるんだから、国家の意思決定機関である政府なんてほとんど不要になるし、それを実行する官僚機構ももっと小さくて済む。
これが岡田斗司夫が要約した、小飼弾の「機械政府」だけれど、民主主義のおこなっている少数派の意見の集約というのは、たしかに社会の複雑さを減らすための過程ではあるけれど、自然言語を解析して全体の傾向を抽出するといった単純化とは全く別物だ。
民主主義のおこなっている少数意見の集約は、少数意見を多数意見に解消させることが目的なのではなくて、意思決定の過程に少数派を参加させることで、多数派の意見を受けいれるように説得することに、最大の意味がある。
言い方を変えれば、少数派を説得するためのしくみや手続きを持たない民主主義というのは、単なる全体主義だ。
これだけ公正で透明な手続きでみんなの意見を集約した結果がこうなったんだから、まあ今回は自分たちの意見が通らなくても仕方ないか、でもいつかは自分たちの意見が通る可能性はまだ残されているな。
こういうふうに少数派を説得できない政治体制のことを、民主主義とは言わない。
なので小飼弾が「機械政府」をどう定義しているのか知らないし、興味もないけれど、「機械」の公正さや透明性に対する市民の信頼がなければ、「機械政府」は単なる全体主義、または独裁にすぎない。
仮に東浩紀の言っている「一般意志2.0」も、民主主義的な手続きの効率化という文脈で語られているのだとすれば、それは単なる民主主義の否定にすぎない。民主主義はそもそも面倒くさくて非効率的な制度だから。
岡田斗司夫はそんな風に小飼弾の「機械政府」の話をした後で、橋下徹が大阪市長に当選したことについて、日本のように成熟した先進国では、政治のリーダーってのは二流・三流の人材で十分、一流の人材は原子炉の廃炉とか、そういった分野に活用すべきと語っている。
橋下徹のような三流の人材の率いる政治団体が、大阪府知事と大阪市長にダブル当選してしまう事態は、上に書いたような、少数派を納得させるための手続きという意味での民主主義の手続きと考えればいい。
大阪府民や大阪市民も、ついでに、やしきたかじんのような歌手も、橋下徹と同じように三流市民なので、「橋下さんやったらしゃあないか」と納得してしまうのだ。その限りにおいて大阪府・大阪市の民主主義は健全に、かつ、もともととても非効率的な民主主義の中ではかなり効率的に機能したわけだ。
もちろんこれは皮肉である。
リーダーが二流・三流でいいというのは、市民たち自身が「私たちは二流・三流でいいです」とあきらめている成熟した社会にしか当てはまらないのであって、岡田斗司夫の言うように、全ての成熟した先進諸国に当てはまることではない。
たまたま岡田斗司夫と僕らの暮らしている日本という国が、成熟した社会の先進諸国ではあるけれども、リーダーが二流・三流の人材であることを許容するだけの諦観を持つ市民が多数派を占めているという、それだけのことだ。
まるで二流・三流の政治リーダーは、成熟した社会に共通の属性であるかのように普遍化して語るのも、岡田斗司夫流の誇張たっぷりの弁論術にすぎないのであって、そんなものにパソコンのディスプレーの前で「ふんふん」とうなずいている場合ではない。
まあ、立川談志のムダ話みたいなもんだと思って聞くぶんには、岡田斗司夫の話はとても面白いけれど、それ以上では決してない。
そんな岡田斗司夫のゼミが、ニコニコ生放送で来場者数4万人近い人気を集めているのは、ニコニコ生放送の視聴者の多くが、僕と同じような「インテリ崩れ」である事実を、素直に反映しているだけ。
まあ、そんなところ。