アニメのコピーのコピーのコピーの存在意義

朝日新聞オンライン版の「小原篤のアニマゲ丼」という連載コラムで、筆者の朝日新聞社の小原篤氏が、押井守監督の講演にふれていることを、グーグル・ニュースで見つけた。
『小原篤のアニマゲ丼』(2011/11/21 朝日新聞オンライン版)
2011/11/12に東京芸術大学大学院映像研究科が「第2回映像メディア学サミット LOOP-02 マンガ・アニメの映像メディア学的再考」という講演会を開催し、第一部は竹宮恵子、第二部が押井守の講演だったようだ。
小原篤氏が第一部の竹宮恵子氏の講演にまったく触れていないこと自体が、とても示唆的なのだが、それは置いておこう。
まさか小原篤氏が、少女マンガを日本のマンガ史上、単なる傍流だとみなして無視したのではあるまい。仮に無意識にであっても、そういう考え方から無視したのであれば、そもそも小原篤氏に日本のマンガやアニメを語る資格はない。
さて、小原篤氏によれば、講演の中で押井守は次のように語っていたらしい。

「そして現実の劣化コピーに過ぎない実写と違い、『現実に根拠を持たない』アニメは珠玉の工芸品となり得、アニメはその根本から細部までコントロール可能であるがゆえにその力を使ってアニメ監督は、全世界・全歴史に向けて自分の言いたいことを完全な形で言えてしまうという誇大妄想の極限を味わうことができる。
これは悪のにおい、危険なにおいがする。ゆえに若い人をひきつける。しかし僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」

これはあくまで小原篤氏が要約した、押井守の発言であり、押井守のオリジナルの発言の文字おこしではないことに注意すべきだ。
ただ、この要約から押井守の意図を抽出すると、アニメが本質的にそなえている表現方法としてのせっかくの可能性を、現在のアニメのほとんどはムダにしており、単なる「オタクの消費財」と化してしまっている、となる。
押井守は、アニメが「現実の劣化コピーに過ぎない実写」と違って、「誇大妄想の極限」とでも呼べるような可能性をもつ表現方法であることを、プラスにとらえている。
そして、そのせっかくのプラスの側面、アニメの持つ本質的な可能性を、現在のアニメ作品のほとんどが活かせていないことを非難している、と読める。
押井守がアニメという表現方法を、何らかの思想や内容を伝えるための、単なる手段に過ぎないとみなすはずがない。
したがって、ここで押井守が「全世界・全歴史に向けて自分の言いたいこと」と語っているのは、アニメという表現方法でしか伝えられない思想や内容というものが存在し、それらは実写作品では決して伝えられない、という前提に立っているのだろう。
ここまでは、僕も完全に同意できる。
世の中には、次のような誤った考え方を持つ人がたくさんいる。少し長くなるが、その誤った考え方を書き下してみよう。

表現すべき思想や内容というのものは、表現方法に先立って、作者の頭の中に存在する。そして、小説、実写映画、絵画、アニメ、マンガ、音楽、演劇、などなどの表現方法は、単なる「手段」である。
だから、ある手段で表現できる思想や内容を、わざわざ別の手段を使って表現する必然性はない。アニメに表現できて、実写で表現できない思想や内容などないし、マンガに表現できて、小説に表現できない思想や内容もない。
ところで、アニメやマンガというのは、実在する事物をデフォルメしたり、単純化したりして描写するので、実在する事物から大事な本質を奪いとってしまう、「劣った」表現方法である。
同じ思想や内容を表現するなら、アニメやマンガよりも、小説や実写など、実在する対象をより実物に近くリアルに表現できる方法をとるべきだ。
にもかかわらず、あえてアニメやマンガといった表現方法を選択するのは、そもそもその表現者の表現したい思想や内容が、アニメやマンガといった「劣った」表現方法でも十分伝わる「劣った」思想や内容だからだ。
したがって、アニメやマンガという「劣った」表現方法で表現されているような思想や内容は、そもそも鑑賞する価値がない。


かなり長くなったが、以上のような誤った考え方をもっている人は意外に多い。例えば、橋田寿賀子ドラマや韓流ドラマのファンだが、『輪るピングドラム』のようなアニメ作品は唾棄すべきものとみなす人がいるかもしれない。
この誤った考え方を一言でいうと、表現における内容と形式の完全な独立、ということになる。表現方法と、表現される内容が、お互いに完全に独立している、という考え方だ。
こういった素朴なリアリズム、「現実」というものに対する素朴な考え方を持っている人は多い。
このような人たちは、小説であれ、映画であれ、絵画であれ、どのような表現形式で表現しても、表現される側の「現実」の方は何の影響もうけず、確固たるものとしてあり続けると思い込んでいる。
つまり、誰がどのような方法で表現しても、決して影響をうけない確固たる「現実」というものが存在すると思い込んでいる。
西洋や東洋の哲学史を少しでも勉強したことがあれば、このような意味での「現実」自体が、人間の作り出した単なる「虚構」でしかないことは、説明するまでもないだろう。
同じ「現実」を目の前にしても、それがどのように見えるかは、一人ひとり違う。しかも、そもそも「現実」とは何かということは、一人ひとりの持っている表現方法によって違ってくる。
いちばん分かりやすい例は、言語だろう。
ある民族の言語では、雪の色を表現するのに何とおりもの単語があるというし、空にかかる虹の色を表現する色の単語の数も、言語によって違う。極端な話、自然科学の専門用語を使えば、虹の色はいくらでも精緻に区別することができる。
このことは、表現方法によって何の影響もうけない「現実」が、ゆるぎないものとして先に存在するのではなく、むしろそれぞれの人がもっている表現方法によって「現実」がどのようなものであるかが決まる、ということだ。
したがって、橋田寿賀子の脚本によってはじめて表現できるドラマ『渡る世間は鬼ばかり』的な「現実」もあれば、幾原邦彦の脚本によってはじめて表現できるアニメ『輪るピングドラム』的な「現実」も存在する。
どちらの「現実」がより優れているかは、純粋にその人の個人的な考え方であり、絶対的な基準があるわけではない。実写のドラマは大人の見るもので、アニメやマンガは子供の見るものだという考え方は、逆に子供っぽく、あさはかな考え方だ。
ここまで来て、ようやく最初に引用した、押井守の発言にもどることができる。
押井守は、現実の劣化コピーでしかない実写に対して、アニメという表現方法の方がより大きな可能性を秘めていると主張している。
しかし、そのアニメという表現方法の中にも、現実の劣化コピーではない真の描写としての優れたアニメと、既存のアニメのコピーでしかない劣化したアニメが存在するとも主張している。

既存のアニメのコピーであるアニメは、アニメという一つの「現実」を、アニメという一つの「表現方法」で表現したものである。
アニメという一つの「現実」を表現するには、たとえばアニメ作家を主人公にした小説を書くという表現方法もあるし、アニメ作品を分析する批評を書くという表現方法もある。同じように、アニメについてのアニメを作るという表現方法もある。
もし、押井守の言いたいことが、アニメのコピーであるアニメが無条件に「表現」の体をなしていないという主張であるなら、押井守のこの主張は、押井守自身のアニメ擁護論と完全に矛盾している。
アニメというものも、人によってさまざまな見方のある「現実」の一つでしかない。そのアニメという「現実」を表現したいとき、方法としてアニメを選択するのは、押井守自身の論によれば、「現実の劣化コピーでしかない」結果をまねかないための優れた方法であるはずだ。
アニメについての評論を書く代わりに、アニメについてのアニメを作ることが、無条件に押井守から「『表現』の体をなしていない」というマイナス評価をうけるいわれはない。
おそらく押井守は、アニメという表現方法を特権化しすぎているのではないだろうか。あまりにアニメという表現方法を特権的なものと考えすぎるあまり、アニメが単なる「現実」の一つであることを忘れてしまっているのではないか。
より正確に言えば、アニメが表現方法であると同時に、表現される「現実」の側でもあることを、押井守はうっかり捉えそこねているのではないか。
アニメに限らず、小説でも映画でも批評でも絵画でも、あらゆる表現方法が、「小説についての小説」「映画についての映画」「批評についての批評」「絵画についての絵画」など、自己言及的でありうるということは、押井守自身がいちばんよく知っているはずだ。
表現方法は、表現される思想や内容に奉仕する奴隷ではないし、逆に、表現される思想や内容も、表現方法に奉仕する奴隷ではない。どちらも現在の社会を構成する、さまざまな機能の一つでしかない。

表現方法と、表現される思想や内容は、社会においては、ともに入れ替え可能な機能の一つでしかない。ときには一方が他方を表現することもあり、一方が他方によって表現されることもある。
押井守が本当に、実写は現実の劣化コピーでしかないと考えているなら、アニメという現実を表現するにあたっても、その表現方法として、アニメは実写より優れているはずだ。
であれば、アニメがアニメを「コピー」し、そのコピーをまたアニメが「コピー」している状況を、「オタクの消費財」であると断定するのは早すぎはしないか。
少なくともアニメの「コピーのコピーのコピー」と見えるものの中にも、単なる「オタクの消費財」と化していない、アニメによるアニメという「現実」の表現があることを指摘すべきではないか。
表現される現実と、表現方法の入れ替え可能性が、即、何ら新しい可能性を生み出さないということにはならない。戦闘機に乗って闘う存在が、たとえ純粋に機能的に入れ替え可能な存在だとしても、即、そうした機能を果たす存在に意味がないということにはならない。
アニメという「現実」を表現するアニメがあり、そうした「現実」をさらに表現するアニメがある。そのような、表現される側でも、表現する側でもありうるアニメという「現実」の、自己言及的な表現・被表現の連鎖、原作があり、二次創作があり、さらにその二次創作がありといった連鎖が、何の付加価値も生み出さない「消費財」に過ぎないということにはならないだろう。
押井守がアニメという「現実」かつ表現方法に、その程度の価値しか見ていないのであれば、押井守は単に個人的にアニメに絶望しているというだけのことだ。
そもそも、表現し、表現されるという自己言及的な創作の連鎖と無縁な表現方法など存在するだろうか。例えば、古典が古典として読み継がれるために、子供向けに表現し直されたり、演劇や映画に翻案されたりしてきたのではないか。
押井守が本当に冒頭のようなことを講演でしゃべったのだとしたら、とても残念だと思ったので、長くなったが、アニメの「コピーのコピーのコピー」の存在意義について、僕の個人的な考え方を書いてみた。