社会の複雑化と「アイドル声優」という機能

このところ出張つづきで落ち着いてブログを書けないため、間があいてしまった。久しぶりのブログで、読みごたえのある記事を書くのだろうというご期待を裏切ってしまうことになるが、水樹奈々という人物について書いてみたい。
水樹奈々とは紅白歌合戦に出場経験のある女性歌手・アニメ声優である。
僕の配偶者のように、アニメを「非写実的で荒唐無稽」という理由だけで、低く評価するタイプの人々には、水樹奈々のような芸能人は縁がないので、ご存じない読者もいらっしゃるに違いない。
1970年代から80年代につながるアイドル女性歌手のブームと並行するように、アニメ声優にもそれぞれの時代で最も人気のある女性「アイドル声優」というのが存在する。
それ以前、1960年代のアニメ作品で活躍した女性声優の多くは、洋画や米国のテレビドラマの吹き替え出身者が多く、「アイドル声優」として位置づけられる女性声優はほとんどいない。
1970年代を代表する「アイドル声優」は、例えば潘恵子だ。『銀河鉄道999』のユキ、『新竹取物語 1000年女王』の雪野弥生、『機動戦士ガンダム』のララァなど。
それから、ネタ切れのバラエティー番組が、最近よくキャスティングする日高のり子は、1980年代を代表する女性声優といえる。ご承知のようにアニメ『タッチ』で浅倉南の声を当てている。
同じように1990年代では『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイ役の林原めぐみが、代表的な女性声優だろうか。ただ彼女の場合は、失礼ながら外見的な基準から「アイドル」と呼べるかどうかは微妙だ。
ここでは女性声優に対する一般的な見方を代弁して、あえて女性差別的な書き方をするのをお許しいただきたい。
というより、そもそも女性声優の「アイドル性」は、ある意味、女性アイドル歌手のような、その人物単独で成立するアイドルよりも、さらに「処女性」や「無垢性」といった「女性性幻想」をずっしり負わされている。
女性声優は、ぶっちゃけて言うとアイドル歌手よりも外見的に劣っていても「アイドル声優」として通用する。その理由は、当然のことだが演じているアニメのキャラクターとセットで人気が出るからだ。
そして「アイドル声優」の演じるアニメのキャラクターは、同人誌などの二次創作はとりあえず置いておくとして、「処女性」や「清純さ」といったアイドルとしての機能を、その作品中で果たしている。
逆に言えば『ルパン三世』の峰不二子や、『新世紀エヴァンゲリオン』の葛城ミサトを演じる声優は「アイドル声優」たりえない。
ところが、モーニング娘。以降、女性アイドル歌手がグループとしてしか成立しなくなり、明らかに芸能界での機能が変質したのに対して、女性の「アイドル声優」は2000年以降も依然としてアニメ業界、声優業界の中で一つの機能として成立している。
つまり「処女性」や「無垢性」のようなものが、アニメーションの中ではいまだに虚構として機能することができており、その「処女性」や「無垢性」の負荷を連帯して背負うことができる女性声優も「アイドル」として機能し続けている。
水樹奈々はすでに30歳を過ぎているが、それでも2000年代(ゼロ年代)を代表する「アイドル声優」の一人として社会の中で機能し得ているのは、アニメのキャラクターとセットであるという、声優ならではの構造によるものだろう。
もう一つ、「アイドル声優」が「処女性」や「無垢性」の機能を現実の社会で果たし続けられるのは、逆説的ではあるが、水樹奈々のような「アイドル声優」が演じるアニメのキャラクターが、二次創作の中で「処女性」や「無垢性」を剥奪されるからこそである。
つまり、原作のアニメでは、水樹奈々の演じる魔法少女や、吸血鬼の血を引く半人半獣の女子高生は、当然のことだが、深夜の時間帯に放送される作品であっても、直接的に性的関心の対象として描かれることはない。
だからこそ、それら『魔法少女リリカルなのは』や『BLOOD-C』を元ネタとする、同人誌などの二次創作では、それらのキャラクターは性的な対象として描かれる。
この原作と二次創作との間で、性的でない側面と性的な側面が機能的にきれいに分離されているからこそ、原作側でそのキャラクターを演じる女性声優の「処女性」や「無垢性」の機能が担保されるのだ。
なので、水樹奈々が声優であるという背景を全く知らない人々、あるいはその背景を一旦カッコに入れてしまうと、彼女の「アイドル声優」としての振る舞いは、この2000年代の芸能界においては明らかに白々しい、時代錯誤のものとして、浮いてしまう。
例えば1970年代に、日本各地にキャンディーズの親衛隊が結成され、いい年をした大学生がコンサートでは鉢巻などの「ユニフォーム」で、喉を枯らしてキャンディーズを応援することは、本来なら、2000年代のオタ芸と同じくらい奇怪で、ある人々の目から見れば、ただただ気持ち悪い行動様式のはずである。
ところが、1970年代、80年代アイドルの親衛隊が、青春のほろ苦い思い出のようにして正当化されるのに、2000年代のオタ芸が単に気味の悪い没入として一般人に忌避されるとすれば、理由はアイドルやアイドルのファンの方ではなく、日本社会の変質の方にある。
かつては、アイドルが「処女性」や「無垢性」の機能を果たしうる余地が、現実の日本社会に残されていたのに対して、今やアイドルの「処女性」や「無垢性」を担保するためには、まずそれがアニメという、いわざ二重化された虚構、エンターテインメント業界というだけで、一義的に虚構化されているのに、さらにそれを実写ではなくアニメで表現することで虚構化するという、二重化された虚構に裏付けられていることが必要となる。
そしてさらに、原作としてのアニメ作品が、同人という、性的な表現を許容する二次創作によって拡張されることが必要となる。
実写作品ではないアニメという虚構の二重性と、さらに原作を拡張する二次創作の場という、その虚構を楽しむ受容の方法の二重性、これだけの条件がととのって初めて、「アイドル声優」の「処女性」や「無垢性」が担保されているということだ。
言うまでもなく実写作品にベタに感動することに対して、アニメ作品をさらに二次創作した同人作品を楽しむという作品受容の形態は、作品受容の単純化ではなく複雑化である。
有り体に言えば、実写作品にベタに感動するのはバカでもできるが、アニメ作品の二次創作、さらにその二次創作といったN次創作を楽しむ作品受容は、バカにはできない。
水樹奈々のような「アイドル声優」は、その意味で、実写作品にベタに没入することしかできない、旧時代的な作品受容の能力しかない消費者にとっては、西洋古典音楽のオペラ作品のように、実年齢が70歳のソプラノ歌手が、厚化粧で20代の娘を演じるのと同じように、ただただ気味の悪い存在にしか見えない。
しかし現実には、「アイドル声優」という機能の成立には、多重化された虚構や、多重化された作品受容という、社会の複雑化が背景として存在する。
逆に言えば、社会の複雑化に対応して、松田聖子のような生身のアイドル歌手という機能は社会においてもはや成立しなくなり、初音ミクのようなボーカロイドのアイドル歌手であったり、水樹奈々のような「アイドル声優」といった、社会に適合した「アイドル」の機能が新たに生み出された、ということなのだ。