『BLOOD+』で失われた物語の自律性を救い出した『BLOOD-C』

今回はアニメ『BLOOD』シリーズのお話し。
最初の押井守・企画協力の劇場版アニメ『BLOOD THE LAST VAMPIRE』を観てから、『BLOOD+』を観始めているのだが、前者がベトナム戦争中の1966年の日本の横田基地を舞台にし、後者はベトナム戦争の記憶をとどめる米軍基地のある沖縄を舞台にしている。

『BLOOD THE LAST VAMPIRE』は、小夜が正統なヨーロッパの吸血鬼の末裔であることが示唆されており、ベトナム戦争や横田基地という舞台設定は、単にアクションホラーの物語を語るための、ハリウッド映画的な道具立てにすぎない。
ヨーロッパの吸血鬼の末裔が、セーラー服を着た、どう見てもアジア人顔の日本人というのも全くナンセンスだし、横田基地に怪物が潜んでいて、セーラー服の少女の日本刀で真っ二つにされるというのも、純粋な娯楽作品狙い以外の何物でもない。
すべてが完全にネタなのだ。まったくカメラワークやライティングからして、ハリウッドっぽくて、よく出来ている、という風に、一見とてもシリアスに描かれている基地の街という舞台を相対化して、なんなら心のどこかでは半笑いになりながら楽しむべき作品として作られている。
ところが『BLOOD+』はどうだ。
まだ途中までしか観ていないのだが、小夜はすでに正当なヨーロッパの吸血鬼ではなく、どうやらベトナム戦争に最初の記憶を持つ半人・半吸血鬼になってしまっている。

しかも小夜が住んでいるのは沖縄で、謎の連続殺人事件が「翼手」と呼ばれる怪物のしわざであるという真実は、日米地位協定によって住民には隠されている。
米国だけが真実を知り、一般の沖縄の人々は真実を知らない。そういった情報の非対称性の中で、基地に依存しながら生きなければならない沖縄という舞台設定だけで、すでに十分にベタすぎる、つまり、真面目に沖縄問題をあつかい過ぎている。
にもかかわらず、それに輪をかけて、動画としての演出上も、米軍の本物の報道写真を加工したスチルをカットバックで使うという、目を覆いたくなるようなベタベタな演出だ。
もっと言えば、半人・半吸血鬼である小夜の父親、つまり生粋の人間でもなければ沖縄人でもない父親が、なぜいまわの際に小夜に向かって「なんくるないさ~」などと言い残すのだろうか。
ニコニコ生放送の『BLOOD-C』全話一挙放送を観たとき、コメントを読んでいると、『BLOOD-C』の視聴者がこの3番目の『BLOOD』を完全にネタとして、お笑いとして楽しんでいるのが分かった。
しかし、むしろ『BLOOD+』のベタベタさ加減の方が、大笑いできる。半人・半吸血鬼の高校生の少女が、日本刀で「翼手」などという訳のわからない名前を付けられた怪物を、毎回ぶった切る、そういうアニメに、いったいなぜ沖縄が現実に抱えている政治的な問題を背景としてわざわざ持ち込む必要があるのだろうか。
『BLOOD THE LAST VAMPIRE』は、基本的に物語の本筋はすべて横田基地の中で完結している。東京都における横田基地などという現実の政治的な問題を、アニメ作品の中に持ち込むなどというベタなこと、野暮ったいこと、ある意味で非倫理的なことはしていない。
それに対して『BLOOD+』が沖縄を舞台にしており、日米地位協定という現実の政治問題をベタにストーリーの構成に利用しており、また、登場人物がウチナーグチではなく、完璧な標準語をしゃべっているのは、本質的に娯楽であるはずのこの種のアニメ作品としては、完全に失敗している。最初から失敗している。
そして『BLOOD-C』だ。『BLOOD-C』は見事な『BLOOD THE LAST VAMPIRE』への先祖帰りと言える。

セーラー服の少女が血まみれになりつつ、日本刀で怪物をぶった切るという、荒唐無稽な物語は、最初に描かれるときには、ハリウッドのアクションホラーをネタに、それを換骨奪胎した演出で描かれた。
その同じ荒唐無稽な物語を、もう一度描くとなれば、もうその荒唐無稽さそのものをネタにするしか選択肢がない。『BLOOD+』のように、さらに日本における米軍基地の政治性という方向へ深堀りするのは、この荒唐無稽な物語を描く方法としては、見当違いもはなはだしい。
このような意味で、『BLOOD-C』がこの荒唐無稽な物語全体を、最後に楽屋落ちにしたのは、『BLOOD+』の致命的な失敗をやり直すという点において、まったく正しい方法だった。
『BLOOD-C』が『BLOOD』シリーズとしては、お笑いの失敗作で、小夜を演じ、エンディングテーマを歌う水樹奈々の人気だけで持っている、という評価は完全に間違っている。
むしろ完全に失敗していたのは『BLOOD+』の方であって、『BLOOD-C』でようやく『BLOOD』シリーズは物語の荒唐無稽を露呈する方向へ、軌道修正することができたのだ。
荒唐無稽な物語を描くときに、現実に存在する「沖縄の米軍基地」といった政治的文脈に頼るのは、物語を実在する大きな物語に従属させてしまうことになる。まるで『BLOOD+』というアニメは、現実に沖縄に米軍基地が存在し、日米地位協定が存在しなければ、自立しない物語を描いているかのように見えてしまう。
本来は自分自身の力で十分動き出せる荒唐無稽な物語(セーラー服の少女が怪物を日本刀でぶった切る)を、現実の大きな物語(日本の軍事上の対米従属)に従属させるなどというのは、荒唐無稽な物語そのものが持つ生命を自ら絶つようなものではないか。
『BLOOD-C』は、現実の大きな物語に従属させられていた半人・半吸血鬼の少女の物語を、見事、自律させることに成功している。その物語の荒唐無稽さ自体をネタとして自己言及的に利用することで、物語そのものの中へ深く潜っていくことで、物語の自律性を救い出すことに成功している。
来年2012年6月公開の『BLOOD-C』劇場版で、小夜が東京へ復讐にやって来たとき、『BLOOD+』と同じ過ちがくり返されないように祈りたいものだ。