娯楽作としての『マクロスF(フロンティア)』、メタレベルな設定

リアルタイムで放送されているアニメの他に、一般的に人気が高そうな作品も観ておこうというわけで、DVDを借りてTV版『マクロスF(フロンティア)』全25話を観終えた。

以下、ネタバレありなので、まだご覧でないかたはご注意を。
TV版を観る前に劇場版『マクロスF 虚空の歌姫~イツワリノウタヒメ~』を観たのだが、物語が中途半端で消化不良に終わった。
今回TV版全25話を数週間かけて観てみると、これだけ起伏のある物語を、劇場版につめ込むのは、そりゃ無理だと納得。
TV版アニメとしては、本作はかなり贅沢な作りだ。毎回の放送フォーマットは決まっているが、物語の展開によってオープニングとエンディングの部分は、かなり自由に演出されている。
菅野よう子の音楽が全面的にフィーチャーされていて、次々に新たな曲が登場し、ミュージカル・アニメの様相を呈している。ジャック・ドゥミの映画のように楽しむこともできる。

そこへCG化された戦闘シーンで、アクロバティックかつスピード感あふれる空中戦、例の「板野サーカス」と呼ばれる弾道の軌跡の描き方などが、めまぐるしく展開される。
視覚的にも聴覚的にも、視聴者へのサービス満点の一大娯楽作品であることに間違いはない。
SF的な設定を除外しても、三角関係(第一期のオープニング曲『トライアングラー』はまさに三角関係の「三角」という形容詞)がハッピーエンドに終わるという、超ご都合主義的な結末になっており、単純なラブストーリーとしても楽しめる。
最初は内気な少女ランカ・リーが、女性アイドル歌手として「銀河系の」大スターに成長していく過程を、これもありがちなサクセス・ストーリーとして楽しむこともできる。
自信にあふれたシェリル・ノームという、すでにスターダムにのしあがった女性歌手が、実は幼少時代にトラウマをかかえた脆い存在であるという図式も、きわめて「惣流・アスカ・ラングレー」的で、おなじみの非常に陳腐な設定だ。

また、歌舞伎の名家に生まれ育った男性主人公、早乙女アルトが、パイロットへのあこがれから歌舞伎の世界を捨てて家を飛び出すが、最後には戦闘機乗りとして敵と闘うなかで、歌舞伎の真髄を体得するという、父親からの自立の物語もある。これも、かなり陳腐な教養小説的設定だ。
このように、きわ立った批評性はないけれども、安心して楽しめる陳腐で様式化されたプロットが、重層的に利用されている。
作画の手抜きが少なく、ストーリー性もあり、エンタテインメントの要素もふんだんにある。
こうしたウェルメイドな作品は、最近で言えば『TIGER & BUNNY』もそうだが、やはり広いオタク層に安定した人気を獲得できるということなのだろう。
SF的な道具立てについては、全25話の前半が、人類と謎の宇宙生命体「バジュラ」の敵対関係が軸になる。

しかし後半では、この両者の対立関係がいわば「止揚」されて、一つ上のメタレベルに、人類とバジュラに対立する存在として、バジュラを利用して銀河全体の征服をたくらむ勢力(書いていて恥ずかしいが)との敵対関係が明らかになる。
バジュラという宇宙生命体の設定は、ややユニークだ。
一つひとつの個体が独立した意思を持っているのではなく、無数の個体の集合全体がかたちづくる巨大なネットワークのノード(結節点)にすぎない、とされている。
個体が独立した意思を持たず、はじめからネットワークのノードとして既に連結されているので、個体どうしが意思疎通するための「言語」が必要ない。
したがってバジュラの「社会」と、個体が独立した意思を持ち、コミュニケーションに言語を必要とする人類の「社会」は、根本的に異質であり、バジュラと人類がコミュニケーションする手段はない、はずだった。

ところが、上述の少女ランカ・リーの出自が明らかになるにつれて、バジュラと人類の間のコミュニケーションの可能性も明らかになる。このあたりは物語レベルでは、謎解きのプロットになっている。
つまり、バジュラの研究者だった女性が、バジュラの体液による感染症にかかる。その研究者の女性が妊娠して生まれた少女は、母親の胎内でバジュラに対する免疫力を獲得しているので、人間でありながら、バジュラ「社会」のネットワークを構成するノードを、体内に持つことになる。
その結果として少女ランカ・リーは、人類でただ一人、バジュラとコミュニケーションの手段を持つという背景が最終的に明かされる。そのコミュニケーション手段とは、特殊な波長をもつ歌声である。
ここで、初代『マクロス』でおなじみの、他者との唯一のコミュニケーションの手段としての歌声が登場する。初代『マクロス』以来の、「音楽に国境はない」という、これもきわめて陳腐なイデオロギーの反復だ。

ただ、最後の最後、やや凝った設定だと感じたのは、バジュラの「社会」が、人類の「社会」を理解するにきっかけが説明される部分だ。
少女ランカ・リーの特殊な歌声は、バジュラの「社会」に、戦闘活動を停止させるという一定の影響を与えることはできる。
しかし、ランカ・リーひとりの歌声だけでは「差異」の契機が導入されないので、バジュラの「社会システム」は、人類の「社会システム」を理解するところまでは、どうしてもたどり着けない。
最終話でバジュラが人類の「社会システム」を理解し、人類と和解・共存するにいたるキーワードは、まさにこの「差異」なのだ。
個体間の差異を持たないバジュラの「社会システム」は、「社会システム」とその外部の「差異」は認識できるが、外部に存在する別の「社会システム」がどのようなものであるかを認識することはできない。

バジュラにとって、「差異」は「社会システム」と「社会システム」の間にしか認識できないものであり、人類のように「社会システム」を構成する個体どうしが、「社会システム」の内部でお互いに「差異」をもつという状況を認識できない。
そんなバジュラの「社会システム」が、人類の「社会システム」を理解するきっかけになるのが、もう一人の歌姫シェリル・ノームの存在である。
歌姫シェリル・ノームは、少女時代にやはりバジュラの体液による感染症にかかっており、徐々に体を蝕まれている。
ところが、そのことが幸いして、少女ランカ・リーと同じように、バジュラの「社会システム」とコミュニケーションできる、特殊な波長をもつ歌声を獲得するようになる。
少女ランカ・リーと歌姫シェリル・ノーム、それぞれの歌声から受ける影響の「差異」から、バジュラの「社会システム」全体は、人類の「社会システム」が異なる個体の集合体であること、内部に「差異」を包摂している「社会システム」というものも存在することを理解する。

それまでバジュラの「社会システム」は、人類の「社会システム」は一枚岩なのだから、全人類を殲滅しなければ、自分たちが生き残れないと考えていた。
しかし、人類の「社会システム」が、内部に差異のある個体を包摂していることを認識し、人類の一部とは共存できなくても、人類の他の部分と共存できる可能性があることを認識する。
最終的には、バジュラはマクロス・フロンティアという、巨大なスペースコロニーの住民である人類たちと共存することを選択する。
そして、バジュラの「社会システム」を利用して銀河全体の支配をもくろんでいた、悪の勢力を壊滅することに成功し、ハッピーエンドをむかえる。
最後に登場するこの悪の勢力が、当初、バジュラと人類の善悪二元論だったものに積み重ねられる、メタレベルの善悪二元論である。
『マクロスF』は、けっして善悪二元論を乗り越えているわけではなく、最後まで正義が悪を倒すという枠組みの中で物語られている。
そして、物語の内部で、善悪二元論がメタレベル化されているのと同様、差異についてもメタレベル化されている。

まず人類の「社会システム」は個体間の差異にもとづくので、少女ランカ・リーと、歌姫シェリル・ノームの歌声にも差異が存在する。
そのような人類の「社会システム」内部の差異が、人類の「社会システム」とバジュラの「社会システム」の差異を、人類とバジュラの両者に認識させることになる。こちらはメタレベルの差異だ。
このメタレベルの差異が顕在化することで、バジュラと人類の間のコミュニケーションが初めて成り立つ、という展開になっている。
同時に、コミュニケーションについても、個体間の差異に基づく「社会システム」内部のコミュニケーションに対する、「社会システム」間の差異に基づく「社会システム」間のコミュニケーションという、メタレベルのコミュニケーションが提示されている。
このあたり、飽くまで物語のSF的な設定の枠内ではあるが、メタレベルのバリエーションも、そこそこ合理的に重層的に語られるので、コアなSFファンにも受け入れられるのかもしれない。
いずれにせよ、全25話、観るだけの価値はあったと思う。ただ『交響詩篇エウレカセブン』を観たときほど感動がなかったのは、単に、僕が年をとり過ぎただけのことだと思う。