僕が『BLOOD-C』を観続けた意外な理由

『交響詩篇エウレカセブン』(2005年)以来、アニメを観ていなかったので、この夏、放送中のものを含めていろいろと観てみた雑感を書く。ネタバレありなので、ご注意を。
まず酷評されている『BLOOD-C』。最終回では、続編として2012/06公開の劇場版が予告される意外な展開はあったが、物語そのものはシンプル。
特殊能力を持つ主人公の女子高生・更衣小夜(きさらぎ さや)が、人間を捕食して生きる「古きもの」と呼ばれる妖怪たちを、日本刀でバッサ、バッサと倒していくというフォーマット。
なぜ小夜が特殊能力を持つのかが、回を追うごとに徐々に明らかになる直線的な展開で、やや退屈。その代わりに、「古きもの」が人間を捕食する場面や、小夜と「古きもの」が闘う場面の血みどろの残虐さが売りなのだろう。
喫茶店の若いマスター・七原文人(ななはら ふみと)が怪しいということ、彼が出す小夜の好物であるデザート「ギモーヴ」が、人肉っぽいということも、途中バレバレな感じ。
最終回はすべてが七原文人の仕組んだ「お芝居」で、それを知らないのは記憶を改変された小夜だけ、という意外にシンプルなオチだった。
しかし町1つ分の住民を虐殺する「お芝居」を許可する国家の正体は不明で、こじつけ感が強い。
2012年の劇場版は、真実を知った小夜が、七原文人に復讐するため、首都へやって来る設定なので、国家政府の正体も含めて明らかになるのだろう。
ただ、劇場版はたぶん残虐な場面が無修正で、スプラッターが苦手な僕には鑑賞は無理。残念ながら『BLOOD-C』とはTV版でおさらばだ。
ところで、小夜が実は人間と妖怪のハーフで、人間と「古きもの」の間に善悪の対立があるように見せかけて、実は、その対立と、その対立の全体を演出する七原文人との間に、真の善悪の対立があった、という構図。
小夜が父親と思わされていたのは、実際には小夜と同じく、人間と「古きもの」のハーフだと最後に明かされる。小夜の「父親」は、「古きもの」の怪物的な姿に戻って小夜に襲いかかる。
小夜は「父親」との死闘の末、「父親」殺しに成功するが、殺された「父親」は人間の姿に戻り、「娘」である小夜へ、血のつながりはなくても、同じハーフとして実の「娘」のように感じていたと、いまわの際に語る。
小夜の声を担当する水樹奈々が、2008年に父を亡くしていることを知るファンにとっては、明らかに過剰演出。
とは言え、娘による父殺しという構図は新しい、と思ったのもつかの間、よく考えれば小夜が女性である必然性は、本作の中で一度も触れられていない。せいぜい同級生の淡い恋心の対象になる程度。
なので、小夜は確かに姿形は女性だが、それだけで「娘による父殺し」とは言えない。
また、小夜が人間と「古きもの」のハーフだということから、『もののけ姫』の少女サンを連想することもできない。小夜は女性と言い切れないし、「古きもの」は自然を体現していない。
「古きもの」が食物連鎖で人間の上位にありながら、大昔、人間と結んだ契約によって人間をエサにすることをやめたのなら、今さら七原文人が捕食関係を蒸し返す理由が分からない。
また、宇野常寛風に言えば、小夜と「古きもの」の対立が、『仮面ライダー』における仮面ライダーとショッカーの対立同様、単純な善悪二元論ではないという、せっかくの批評性のある設定が、最後の最後に七原文人という「ビッグ・ブラザー」が現れて台無しになる。

いろいろ残念な『BLOOD-C』ではあるが、血みどろの格闘場面に対する、日常生活の場面の静けさ、抑制の効いた演出は良かった。たぶんコアなアニメファンにとっては、単に退屈だったはず。
それから今気づいたが、音楽が佐藤直紀だ。
実写映画、アニメ、TVドラマ問わず、何を観ていても無意識に音楽に反応していることがよくあるのだが、佐藤直紀は『交響詩篇エウレカセブン』にも重厚なオーケストラ・アレンジの楽曲を提供している。
佐藤直紀の作曲した管弦楽曲を聴きたいがために、一時期『エウレカセブン』のオリジナル・サウンドトラックをヘビーローテーションしていたほどだ。
結局、僕は佐藤直紀の音楽と、エンディングの水樹奈々『純潔パラドックス』が気に入ったというだけで、この『BLOOD-C』を最終回まで観続けたというオチ?
なんだそりゃ。