日経ビジネスのトンデモ記事『「うつ病の血液診断」の光と陰』

少し前、血液検査でうつ病を診断できる技術が実用化されるかもしれない、というニュースがあった。これについて日経ビジネスの記者が、とんでもない「片手落ち」の記事を書いているので、批判してみたい。
『「うつ病の血液診断」の光と陰~会社の健康診断に「うつ病」の項目が入ったら』 (2011/09/16 日経ビジネスオンライン)
もともとの研究結果は下記の場所にある(英文)。
DNA Methylation Profiles of the Brain-Derived Neurotrophic Factor (BDNF) Gene as a Potent Diagnostic Biomarker in Major Depression
タイトルだけ見ても分かるように、研究対象になったのは「大うつ(major depression)」患者だけである。
では「大うつ(major depression)」とは何かというと、どのような診断基準を使うのかで違ってくる。また治療現場においては、同じ「major depression」でも治療方法が違ってくる。
その治療方法の違いは、「major depression」が客観的に定義できたとしても、医者の治療方針によっても違ってくるし、医者の付き合っている医薬品メーカーの営業担当によっても違ってくるし、誰の下で精神医学を学んだかでも違ってくるだろう。
上記の日経ビジネスオンラインの記事の日野なおみという記者は、くだんの血液診断が「major depression」についてのみ実証された点を理解していない。
例えば日野なおみ記者は次のように書いている。

「うつ症状があったとしても、それが本当にうつ病なのか、それとも『双極性障害(いわゆる、躁うつ病)』のうつ状態なのか。高齢者の場合にはうつ病と認知症の初期症状の見極めも難しいという。
取材をした医師も『丁寧なカウンセリングや長時間の経過観察なくしては、正しい診断が下せないケースも多い』と説明する。こうした場合に、客観的なデータがあれば、医師の診断精度を高めたり、適切な治療を受けたりする助けになるだろう。」

この部分の後半の記述は、ほぼデタラメである。
先日の報道にあった広島大学の研究は、すでに「大うつ」の診断を受けた未治療の患者20名と、健康な18名を対象としている。「大うつ」患者と健康な人を区別するのに、DNAのメチル化が指標として使える可能性がある、ということだけを言っている。
つまり「大うつ」以外の精神疾患と健康な人を区別するためには、依然として従来の診断に頼らざるをえない。
くだんの血液検査は、「大うつ」の可能性が高い人だけを選り分ける程度にしか役に立たず、その他の精神疾患の患者の客観的指標にはならない、ということを意味する。
したがって、この血液検査が臨床で使えるようになっても、「客観的なデータ」になるのは「大うつ」の場合だけなのだ。
「大うつ」以外の精神疾患の場合、依然として従来どおりの診断が必要なので、「医師の診断精度を高めたり、適切な治療を受けたりする助けに」ならない。
企業における精神疾患のコストを考えれば、「大うつ」だろうが、その他の精神疾患だろうが、業務の妨げになり、何らかの対応コストが必要な点では変わらない。
さまざまな精神疾患の中で、「大うつ」だけを「客観的」に選別できるようになっても、企業における精神衛生コスト削減のメリットはない。
ところで、この記事の致命的な問題は、実はこの点にはない。
致命的な問題は、この血液検査の結果「正常」となったために、本人が不調をうったえているのに、医者にかかるのを企業側が妨げる「デメリット」を無視している点である。
日野なおみ記者は、本人が医者に行きたがらない場合については、たしかにこの記事でふれている。そしてそれを、この血液検査の「メリット」と呼んでいる。
またその「メリット」が、企業に内定が決まった学生の場合には、内定取消などの不利益をこうむる「デメリット」になるかもしれないという点にもふれている。
ここまではいい。
ところが、たとえば精神的な不調をうったえて会社に相談したとき、この血液検査で「正常」という結果が出たために、休職もできず、労災申請しても認定が受けられないという「デメリット」がある点を、完全に見落としているのだ。
むしろ企業側としては、このような血液検査が存在すれば、従業員が精神疾患をうったえて来たとき、「仮病だ!」と反論する証拠に使う方が、コスト面でメリットがあるのではないか。
ただでさえ、「新型うつ」など、企業側からすると本人の単なる「わがまま」としか思えない気分障害や適応障害などの精神疾患が増えている。
そういった精神疾患に対して、この血液検査を行って「正常」という結果を出せば、企業側は堂々と休職や治療を拒否することができるようになる。
日野なおみ記者の言うような、周りが見て明らかにうつ病っぽいのに、病院に行きたがらない人間を説得できる「メリット」よりも、精神疾患かもしれない従業員を「仮病」扱いして働かせつづける結果の「デメリット」(慢性化や自殺)の方が、明らかに大きい。
なぜなら、「大うつ」の患者数より、その他の精神疾患にかかる患者数の方が、圧倒的に多いからだ。
日野なおみ記者は、この血液検査が「魔女狩り」の道具になることばかり心配しているが、むしろ「魔女否定」の道具になる危険こそ、問題視すべきなのである。